第50話 支配
休息。
166階層のボス部屋に、重い沈黙が落ちていた。
ゼノが横たわっている。トーマスとレオンが、必死に傷の手当てをしている。包帯が、見る見るうちに赤く染まっていく。彼の顔は青白く、額に脂汗が浮かんでいる。
「……大丈夫か?」
私が問うと、ゼノは苦しげに笑った。
「なんとか……な」
その声が、弱々しい。
エミリアが、ダリウスの隣に座っていた。彼女の目は赤く腫れている。泣いていたのだろう。手が震えている。
ダリウスは——剣を握りしめたまま、虚空を見つめていた。
「リーダー」
エミリアが、震える声で言った。
「地上に戻りましょう。このままじゃ……」
ダリウスは、答えなかった。ただ、剣を見つめている。その目が、時々虚ろになる。
「……リーダー」
エミリアが、もう一度呼びかける。
数秒の沈黙。
それから、ダリウスがゆっくりと頷いた。
「……わかった」
その声が、掠れていた。
「一旦、戻ろう」
エミリアの顔に、安堵の色が浮かぶ。トーマスとレオンも、表情を緩めた。
私は——完全には信じていなかった。
彼の目。その虚ろさ。剣を握る手の震え。
全てが、危険を告げていた。
「転移石を……」
トーマスが、腰の袋に手を伸ばす。
その時。
ダリウスが、立ち上がった。
「待て……」
その声が——いつもと違った。
低く。掠れて。まるで、別の何かが彼の喉を使って喋っているかのように。
エミリアが、顔を上げた。
「リーダー?」
ダリウスは、剣を握りしめている。その手が、異常なほど強く握られている。指が白くなるほど。
「もっと……」
彼の声が、呟く。
「深く……」
目が——完全に虚ろだった。
焦点が合っていない。瞳孔が開いている。まるで、意識がどこか遠くへ行ってしまったかのように。
私は、即座に立ち上がった。
「全員、離れろ」
その声は、冷たく響いた。
「え?」
エミリアが、理解できない様子で私を見る。
ダリウスが、動いた。
剣を振る。
エミリアへ。
「リーダー!?」
エミリアの悲鳴。彼女は、間一髪で後ろへ転がった。ダリウスの大剣が、彼女がいた場所を薙ぐ。空気が裂ける音。地面に深い溝が刻まれる。
「ダリウス!」
トーマスが叫ぶ。
ダリウスは——答えなかった。
ただ、再び剣を振る。機械的に。容赦なく。
「深く……もっと深く……」
その声が、まるで壊れた機械のように繰り返す。
「邪魔だ……」
トーマスとレオンが、ダリウスの前に立ちはだかる。
「リーダー!正気に戻ってください!」
「俺たちですよ!仲間ですよ!」
だが——ダリウスの剣は、容赦なく振り下ろされた。
トーマスが、剣で受け止める。金属の激突音。火花が散る。
「くそっ……!」
トーマスの剣が弾かれる。ダリウスの二撃目が、トーマスの腕を斬り裂いた。
血飛沫。
トーマスの悲鳴。
「トーマス!」
レオンが、トーマスを庇おうと前に出る。だが、ダリウスの蹴りが彼の腹に入る。レオンが吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「やめて!」
エミリアが、涙を流しながら叫ぶ。
「リーダー!お願い!やめて!」
ダリウスは——彼女を見た。
その目に、何の感情もない。
ただ、空虚。
彼は、エミリアへ歩み寄る。剣を構えて。
「……邪魔だ」
ゼノが、必死に立ち上がろうとする。だが、傷が深すぎる。血が溢れる。
「くそ……動け……俺の身体……!」
彼の声が、悔しさに震えている。
「セリア……頼む……!」
私は——既に動いていた。
ダリウスとエミリアの間に割って入る。剣を構える。
ダリウスが、私を見た。
その目に、何の認識もない。
ただ——邪魔な障害物を見るような、冷たい視線。
「……どけ」
その声が、機械的に響く。
私は、答えなかった。
ダリウスの剣が、振り下ろされる。
私は、受け止めた。
金属の激突。火花。腕に衝撃が走る。
ダリウスの力が、強い。だが——
私の身体は、全てを知っている。
次の攻撃。軌道。タイミング。全て。
彼の剣を避ける。横へ。下へ。
全ての攻撃が、空を切る。
でも——私は、反撃しなかった。
剣を振るえば、彼を殺せる。
でも——できなかった。
なぜ?
彼は、もう人間ではない。剣に支配されている。止めるには、殺すしかない。
わかっている。
でも——
ダリウスの剣が、私の頬を掠めた。
熱い痛み。血が流れる。
「セリアさん!」
エミリアの悲鳴。
「早く!反撃してください!このままじゃ……!」
わかっている。
でも——
また、誰かを殺すのか。
私は——
ダリウスの攻撃が、激しくなった。
もう、隙がない。完全に殺すつもりで攻撃してくる。
私は、防戦一方だ。
避ける。受ける。流す。
でも——いつまで持つか。
そして——
ダリウスの視線が、エミリアへ向いた。
彼は、私を無視して——エミリアへ駆ける。
「邪魔だ」
剣を振り上げる。
エミリアが、動けない。恐怖で凍りついている。
その瞬間——
私の身体が、動いた。
考えるより先に。
剣が、ダリウスの剣を弾く。
そして——
隙が生まれた。
ダリウスの胸が、無防備に晒される。
一瞬。
私の剣が——動いた。
心臓を、貫いた。
時が、止まった。
ダリウスの動きが、止まる。
私の剣が、彼の胸に深く刺さっている。
血が、剣を伝って流れ落ちる。
ダリウスの口から、血が溢れる。
そして——
彼の目に、光が戻った。
虚ろだった瞳に、人間の意識が蘇る。
「……す、まん……」
掠れた声が、彼の喉から漏れた。
「剣が……止まら、なかった……」
彼の手が、私の手に触れた。震えている。冷たい。
「お前……正しい……」
息が、浅くなる。
「先へ……進んで、くれ……」
私は——何も言えなかった。
ただ、彼を見つめることしかできなかった。
ダリウスの目が、ゆっくりと閉じる。
そして——
私は、剣を引き抜いた。
血が、噴き出す。
ダリウスの身体が、崩れ落ちる。
地面に、重い音を立てて。
「リーダァァァ!!」
エミリアの悲鳴が、空間に響いた。
彼女が、ダリウスの身体にすがりつく。泣き叫ぶ。
「リーダー!リーダー!起きて!お願い!」
トーマスとレオンが、呆然と立ち尽くしている。
ゼノが、私を見た。
「……お前は、正しかった」
その声が、静かに響く。
「お前がやらなければ、全員死んでいた」
私は——自分の手を見た。
血に染まった手。
剣を握る手が——震えている。
初めてだった。
私の手が、こんなに震えたのは。
「……本当に?」
私の声が、掠れた。
「本当に……正しかったのか?」
答えは——返ってこなかった。
エミリアが、ゆっくりと顔を上げた。
その目が、私を見る。
恐怖。
感謝。
憎しみ。
全てが、混ざり合った目。
「……ありがとう、ございます」
震える声。
でも——その目は、私を恐れている。
トーマスが、立ち上がった。腕から血を流しながら。
「俺たち……地上に戻ります」
その声が、硬い。
レオンが、転移石を取り出す。
3人は、ダリウスの遺体を抱き上げた。
「……さようなら」
エミリアが、最後に私を見た。
そして——
光に包まれて、消えた。
沈黙。
私とゼノだけが、残された。
広いボス部屋に、血の跡だけが残っている。
私は——まだ、手の震えが止まらなかった。
「……大丈夫か?」
ゼノの声が、遠くから聞こえた。
「……わからない」
私は、血に染まった剣を見つめた。
初めて、人を殺した。
その重さが——今、肩に圧し掛かっていた。




