第4話 空の剣
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翌朝、私は決意を新たに目覚めた。
今日こそダンジョンへ潜ろう。記憶を取り戻すために。真実を知るために。
だが、その前に――自分の剣について、もっと知る必要がある。
空虚の剣。
最弱と呼ばれる剣。沈黙する剣。前の持ち主の記憶が一切宿らない、特異な剣。
なぜこの剣で、500階層へ到達できたのか。
その答えを探さなければならない。
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アビスオーダー本部の資料室へ向かった。
受付でミラに案内を頼むと、彼女は快く承諾してくれた。
「資料室ですか? どんな資料をお探しですか?」
「剣について。特に、空虚の剣について知りたい」
ミラは少し驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔で頷いた。
「わかりました。それなら、エドワードさんに案内してもらいましょう」
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資料室は、アビス本部の最上階にあった。
重厚な扉を開けると、静かな空間が広がっていた。天井まで届く本棚がいくつも並び、古い書物が整然と並んでいる。窓からは柔らかな光が差し込み、埃が舞っていた。
空気が違う。
ここには、歴史の重みがある。ダンジョンの歴史、剣の記録、冒険者たちの手記。何百年も積み重ねられた知識が、この部屋に詰まっているのだろう。
部屋の奥に、一人の老人がいた。
60代ほどの男。白髪、眼鏡、学者然とした雰囲気。彼は古い書物を読んでいたが、私たちが入ってくると顔を上げた。
「ミラ君。どうしたんだね?」
「エドワードさん、この方が資料を探しています」
ミラが私を紹介する。エドワードは眼鏡の奥から私を見つめた。
「……君が、例の」
「セリア・アッシュフォードだ」
私は短く答えた。エドワードは少し目を細め、頷いた。
「噂は聞いている。500階層から帰還した少女、か。興味深い」
彼は立ち上がり、私の前に立った。
「それで、何を調べたいのかね?」
「空虚の剣について」
エドワードの表情が変わった。興味深そうに、私の腰に下げた剣を見る。
「なるほど。君の剣は空虚の剣か。それは確かに、調べる価値がある」
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エドワードは書棚の前に立ち、古い書物を取り出した。
革装丁の分厚い本。表紙には「剣の分類と歴史」と書かれている。彼はそれを机に置き、ページをめくった。
「まず、基本的な知識から確認しよう。剣には、大きく分けて三つの種類がある」
彼は指で文字を辿りながら読み上げた。
「一つ目は、継承の剣。これが最も一般的だ。前の持ち主が死ぬと、その記憶と意思が剣に宿る。次の持ち主は、その記憶を共有しながら戦う。儀式と呼ばれるシステムだね」
私は頷いた。それは昨日、武器屋の店主も言っていたことだ。
「二つ目は、反響の剣。これは稀少だ。複数の持ち主の記憶が混ざり合い、剣が独自の人格を持つようになる。時には、剣が持ち主を支配することもある」
エドワードは私を見た。
「そして三つ目が、空虚の剣。君の剣だ」
彼はページをめくり、別の章を開いた。
「空虚の剣は、記憶が一切宿らない。完全に沈黙している。前の持ち主の経験を引き継げず、剣からの助言もない。純粋に、持ち主の実力だけが頼りとなる」
「それが、最弱と呼ばれる理由か」
「その通り」
エドワードは頷いた。
「空虚の剣が生まれる確率は、1%未満。非常に稀だ。だが、それ故に価値がないとされている。冒険者たちは、剣の記憶を頼りに戦う。それがないということは、致命的なハンデだ」
私は自分の剣を見つめた。
漆黒の刃。沈黙する剣。
「……過去に、空虚の剣でどこまで到達した者がいる?」
エドワードは別の書物を取り出した。
「記録を見てみよう」
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彼が開いたのは、冒険者たちの記録をまとめた書物だった。
ページをめくりながら、エドワードが呟く。
「空虚の剣の持ち主は、歴史上それほど多くない。そして、そのほとんどが低階層で死亡している」
彼は指で文字を辿った。
「50階層、30階層、70階層……最高でも150階層。これは50年前の記録だ」
150階層。
それが、空虚の剣での限界なのか。
「定説では、空虚の剣で深層へ到達するのは不可能とされている。剣の助言がなければ、深層の魔物には対処できない。だが……」
エドワードは別のページを開いた。
「一つだけ、異例な記録がある」
私は身を乗り出した。
「300年前、一人の剣士が空虚の剣で300階層まで到達した。人類史上、空虚の剣で最も深くまで潜った記録だ」
「その剣士の名前は?」
「それが……」
エドワードは眉をひそめた。
「記録から消されている。名前だけでなく、詳細な記録もすべて削除されている。ただ、一文だけが残っている」
彼が指差した箇所を読む。
――禁忌に触れた。
「……禁忌?」
「何を指しているのかは不明だ。だが、この剣士は何か重大な規則を破ったらしい。それ以降、この剣士に関する記録は一切残っていない」
エドワードは私を見た。
「そして、君だ。500階層。空虚の剣で、人類史上最深記録を塗り替えた。これは前例がない」
彼は静かに続けた。
「君は本当に、500階層へ行ったのかね?」
「……わからない」
私は答えた。
「記憶がない。ただ、ギルドカードがそう示している」
エドワードは考え込むように黙り込んだ。そして、ふと何かを思いついたように言った。
「では、剣に聞いてみてはどうかね?」
「剣に?」
「通常、剣は持ち主に語りかける。空虚の剣でも、深い集中をすれば何か感じ取れるかもしれない」
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私は資料室の一角に座り、剣を膝に置いた。
エドワードとミラが見守る中、私は目を閉じた。
深呼吸。
意識を剣に集中させる。
静寂。
何も聞こえない。何も感じない。ただ、冷たい金属の感触だけが伝わってくる。
空虚。
本当に、何もないのか。
だが――微かに、何かを感じた。
「空虚」ではない。
「満ちている」。
まるで、何かが封じられているような感覚。閉じ込められた、膨大な何か。それが、剣の奥底に眠っている。
私は意識を深く沈めた。
暗闇の中、光が見えた。
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突然、ビジョンが流れ込んできた。
暗闇の中、剣を握る自分の手。血まみれの手。無数の魔物の咆哮が響く。巨大な影。牙。爪。
戦いの記憶。
私は剣を振るっている。素早く、正確に。魔物を次々と斬り伏せていく。だが、終わりが見えない。無限に湧き出る魔物たち。
そして――誰かの声が聞こえた。
「セリア、その剣を捨てろ!」
男の声。切迫した声。
「それは……呪われている!」
ビジョンが揺れる。暗闇が深くなる。
激しい頭痛。
私は目を開けた。
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「セリアさん!」
ミラが駆け寄ってくる。私は額を押さえ、息を整えた。
「……大丈夫だ」
「顔色が悪いですよ。無理しないでください」
エドワードが心配そうに尋ねる。
「何か、見えたのかね?」
「……ああ。少し、見えた」
私は剣を見つめた。
「この剣は、空虚ではない。何かが封じられている」
エドワードは目を見開いた。
「やはり……君の剣は、普通の空虚の剣ではない」
彼は呟いた。
「もしかすると、それは――」
彼は言葉を飲み込んだ。
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資料室を出る時、ミラが尋ねてきた。
「セリアさん、明日……ダンジョンへ潜行するんですか?」
「ああ」
私は答えた。
「答えは、あの中にしかない」
ミラは不安そうに私を見た。
「……気をつけてください」
「ああ」
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宿舎へ戻る道すがら、私は剣を見つめた。
漆黒の刃。沈黙する剣。
「お前は、何を隠している」
剣は相変わらず何も答えない。
だが、確かに何かがある。封じられた何か。呪われているという声。
明日、ダンジョンへ潜る。
そして――すべてを思い出す。
この剣の秘密も。私が何者なのかも。
すべてを。
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