第47話 160階層――記憶の欠片
155階層から先へ進む。
156階層は、これまでとは異なる様相を呈していた。通路が複雑に入り組み、まるで迷路のように分岐している。壁は黒い石で覆われ、青白い光が僅かに道を照らしているだけだった。
「確か……この先に罠があったはずだが」
ゼノが呟く。彼の声には、僅かな迷いが混じっていた。
「……?」
「いや、2年前の記憶だからな。細かいところが曖昧になってきてる」
彼は苦笑する。
剣の知識――前の持ち主の記憶も、完璧ではない。時間が経てば薄れていく。人間の記憶と同じように、剣の記憶も風化する。
私たちは慎重に進む。ゼノが「このあたり」と指差した場所を避けながら、一歩ずつ足を進めていく。モンスターが現れるたびに、私たちは剣を交える。ゼノの大剣が空気を切り裂き、私の黒い刃が闇を裂く。
157階層。158階層。
階層を降りるごとに、空気が重くなっていく。まるで、何か巨大な存在が私たちを見下ろしているような、そんな圧迫感があった。
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158階層は、罠地帯だった。
床、壁、天井――あらゆる場所に罠が仕掛けられている。圧力板、トリップワイヤー、魔法陣のような発光する円形の模様。魔法は存在しないが、この世界には罠を動かす古代の技術があった。
「このあたりに罠があったはずだ」
ゼノが慎重に周囲を見回す。だが、彼の視線は定まらない。
「確か……左の壁だったか? いや、右か?」
彼の記憶が曖昧になっている。
私は黙って前に出る。
そして――身体が勝手に動いた。
意識する前に、右足が半歩ずれる。次の瞬間、私がいた場所の床が開き、鋭い杭が突き出てくる。私は既にその場所から離れていた。
「……!」
ゼノが驚いた声を上げる。
「セリア、今の……」
「……わからない」
私は自分の足を見る。なぜ避けられた? 罠が見えたわけではない。音が聞こえたわけでもない。ただ、身体が勝手に動いた。
私たちはさらに進む。
罠が次々と現れる。床が崩れ、壁から矢が飛び、天井から刃が降ってくる。だが、私の身体はそのすべてを避けていた。
見えていないのに、避けられる。
考えていないのに、最適なルートを選んでいる。
これは何だ?
「お前、本当に見えてるのか?」
ゼノが問う。彼の声には、困惑と畏怖が混じっていた。
「……見えてない」
「じゃあ、どうして?」
「……身体が勝手に」
私はそう答えるしかなかった。
ゼノは何も言わず、ただ私の後ろをついてくる。彼の剣の知識よりも、私の身体記憶の方が正確だった。それは、紛れもない事実だった。
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159階層を抜け、私たちは160階層へと降り立った。
そこは――広間だった。
円形の空間に、薄暗い光が満ちている。天井は高く、壁には古代文字が刻まれていた。床は平らで、中央には何もない。ただ、静寂だけが支配している。
私は広間に足を踏み入れる。
その瞬間――視界が歪んだ。
記憶が、フラッシュバックする。
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炎の温もり。
焚き火が、闇を照らしていた。
誰かの笑い声。複数の人間の気配。
「ここで休憩しよう」
リオンの声。
彼の大きな背中が見える。焚き火の向こうに、他の人影がある。何人か――三人、いや四人? 彼らの顔は見えない。霞んでいる。でも、確かにそこにいた。
「セリア、疲れただろう?」
リオンが振り返る。彼の顔に笑みがあった。左頬から顎にかけての傷跡が、炎に照らされて浮かび上がる。
「……大丈夫」
私は答える。自分の声が聞こえる。若い、幼い声。
「無理するな。お前はまだ――」
記憶が途切れる。
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視界が戻る。
私は広間の中央に立っていた。ゼノが心配そうに私を見ている。
「セリア? どうした?」
「……」
私は答えられない。今の記憶は何だ? 夢か? それとも――本当の記憶か?
私の足が、無意識に動く。
広間の端、壁際の特定の場所へ向かう。そこに何があるのか、わからない。だが、身体が知っている。
その場所に――あった。
薄らと、床に焦げた跡。
焚き火の痕跡。
古いものだ。いつのものかわからない。でも、確かに人工的な跡だった。誰かがここで火を焚いた。休憩した。
「……これは」
ゼノが私の隣に来る。
「焚き火の跡だな。誰かがここで休んだんだろう」
彼は周囲を見回す。
「お前、ここに来たことがあるのか?」
「……わからない」
私は焦げた跡を見つめる。
「でも、身体が覚えている」
「身体が……」
ゼノは何かを考えるように黙り込む。そして、深く息を吐いた。
「お前の秘密、いずれ知ることになるんだろうな」
彼の声は静かだった。責めるような調子ではない。ただ、事実を受け入れているような、そんな響きだった。
「……すまない」
「謝るな」
ゼノが笑う。
「誰にだって、秘密はある。俺だってそうだ。お前が話したくないなら、無理に聞かない」
彼は腰を下ろす。
「ここで少し休むか。次の階層に進む前に、体力を回復しておこう」
「……ああ」
私も壁に背を預ける。
焚き火の跡が、視界の端に入る。誰かがここにいた。そして、その誰かは――もしかしたら、私なのかもしれない。
だが、記憶がない。
頭では思い出せない。身体だけが覚えている。
それは、あまりにも奇妙で、あまりにも恐ろしいことだった。
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私はゼノの隣で目を閉じる。
闇の中で、記憶の断片が浮かんでは消える。
リオンの声。
炎の温もり。
誰かの笑い声。
それらはすべて、霞んでいる。まるで、遠い夢のように。
「……誰だ」
私は呟く。
「あの時、一緒にいたのは誰だ」
答えは返ってこない。
ただ、静寂だけがある。
ゼノの穏やかな呼吸が聞こえる。彼は目を閉じて、休息を取っていた。
私も目を閉じる。
身体の疲労が、じわりと染み出してくる。戦闘の連続で、筋肉が悲鳴を上げていた。でも、まだ進める。まだ、諦めるわけにはいかない。
なぜ?
なぜ、私は進むのか?
記憶を取り戻すため?
それとも、別の理由があるのか?
答えは見えない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
私の身体は、この道を知っている。そして――いずれ、真実にたどり着くだろう。
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どれくらい時間が経ったのか、わからない。
ゼノが立ち上がる音で、私は目を開ける。
「行くか」
彼が言う。
「……ああ」
私も立ち上がる。
焚き火の跡を、もう一度見る。薄らと残る焦げた跡が、私に何かを語りかけているような気がした。でも、その声は聞こえない。
私たちは広間を後にする。
161階層への階段が、闇の中で口を開けていた。
私はその闇を見つめる。
そして――一歩、足を踏み出した。
身体が覚えている道を、進むために。
失われた記憶を、取り戻すために。
いや、違う。
本当の理由は、まだわからない。
だが、進まなければならない。それだけは確かだった。
ゼノが私の後ろをついてくる。彼の足音が、静寂を破る。
「セリア」
彼が呼ぶ。
「なんだ?」
「お前が何を抱えているのか、俺は知らない。でも、一つだけ言っておく」
ゼノは私の肩に手を置く。
「お前は一人じゃない」
その言葉が、心の奥に染み渡る。
リオンも、同じことを言っていた。
「一人じゃない」
でも、私は今、一人だ。記憶の中の仲間は、もういない。リオンも、他の三人も――どこにいるのかわからない。
ただ、ゼノがいる。
今、この瞬間、隣にいる。
「……ありがとう」
私は短く答える。
ゼノが笑う。
「らしくないな、礼を言うなんて」
「……」
「まあいい。行こう」
私たちは161階層への階段を降り始めた。
闇が、私たちを飲み込んでいく。
でも、恐怖はない。
ただ、前へ進むだけだ。
身体が覚えている道を。
失われた記憶の先を。
そして――いつか、真実へと辿り着くために。




