第46話 151階層――知識の深度
翌朝、私は再びミラと朝食を共にしていた。
温かいスープが胃に染み渡る。昨日のデスドラゴン戦の疲労は、一晩の休息で大部分が抜けていた。それでも、身体の奥底には重い疲労が残っている。150階層という数字が、私の中で静かに重みを増していた。
「セリア、無理はしないでね」
ミラが心配そうに言う。彼女の優しい声が、この冷たい世界で唯一の温もりのように感じられた。
「……大丈夫だ」
私は短く答える。それ以上の言葉が、喉の奥で引っかかっていた。大丈夫なのか? 本当に? 私の身体は戦いを覚えている。記憶がないはずなのに、身体が勝手に動く。それが何を意味するのか、まだ理解できていない。
ギルドへ向かうと、ゼノが既に待っていた。彼はいつもの笑顔で手を振る。
「よう、セリア。準備はいいか?」
「……ああ」
私たちは151階層への転移石を起動させた。光が包み込み、視界が白く染まる。そして次の瞬間、私たちは150階層の転移装置の前に立っていた。
周囲は静寂に包まれている。デスドラゴンの死骸は既に消えていた。この世界のルール――モンスターは死ぬと消える。剣だけが残る。
いや、違う。
人は死ぬと、剣になる――?
不意に、そんな言葉が脳裏をよぎった。なぜそんなことを思ったのか、自分でもわからない。ただ、心臓の奥が冷たく震えた。
「行くぞ」
ゼノの声に、私は我に返る。
「……ああ」
私たちは151階層への階段を降り始めた。
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151階層は、150階層とは明らかに様相が異なっていた。
通路は狭く、天井が低い。壁は湿っていて、青白い苔が這っている。空気が重く、呼吸するたびに肺が圧迫されるような感覚があった。
「この先に罠がある」
ゼノが突然言った。彼の声は確信に満ちている。
「……どこに?」
「あと10メートル先、左の壁だ。圧力板になってる。踏むと矢が飛んでくる」
私は足を止める。ゼノの剣の知識――前の持ち主の記憶が、彼に罠の位置を教えているのだ。
私たちは慎重に進む。確かに、ゼノが言った場所に圧力板があった。私はそれを避けて通る。
だが、その時。
私の身体が勝手に動いた。
意識する前に、右足が半歩ずれる。視線が自然と右の壁へ向く。そこには――何もない。ただの壁。
「……?」
ゼノが私を見ている。
「どうした?」
「……いや、何でもない」
私は首を振る。だが、心の中で違和感が渦巻いていた。なぜ、あの壁を見た? なぜ、身体が勝手に動いた?
私たちはさらに進む。152階層、153階層と降りていく。モンスターが現れるたびに、ゼノの剣の知識が正確な情報を提供する。
「そいつは左足が弱点だ」
「次の部屋には3体いる」
「この廊下の奥に回復の泉がある」
彼の言葉は的確で、私たちの戦闘を有利に進めていく。だが、同時に私の中で奇妙な感覚が強まっていた。
ゼノが言葉にする前に、私の身体が知っている。
モンスターが飛びかかる軌道を、意識する前に避けている。弱点の位置を、考える前に突いている。罠の場所を、見る前に感じている。
これは何だ?
なぜ、私の身体は知っているのか?
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154階層で、私たちは小さな広間に出た。
円形の空間に、青白い光が満ちている。壁には古代文字が刻まれていたが、読むことはできない。
「ここで少し休むか」
ゼノが腰を下ろす。私も壁に背を預けた。
「なあ、セリア」
ゼノが静かに言う。
「お前、本当に初めてか? この階層」
「……?」
「いや、お前の動きを見てると、まるで何度も来てるみたいなんだ」
彼の言葉に、私の心臓が跳ねる。
「……記憶はない」
「ああ、それは知ってる。でもな、身体ってのは記憶するんだ。頭が忘れても、身体は覚えてる」
ゼノは自分の剣を見つめる。
「俺の剣も、前の持ち主の記憶を宿してる。でも、全部じゃない。重要なことは覚えてるが、細かいことは忘れてる。それでも、こうして俺を導いてくれる」
彼は私を見る。
「お前の身体が覚えてるんじゃないか? お前が忘れた記憶を」
「……」
私は何も言えなかった。ゼノの言葉が、心の奥深くに突き刺さる。
身体が覚えている。
それは、つまり――私は以前、ここに来たことがあるということか?
だが、それならなぜ記憶がない? なぜ、ギルドカードには500階層到達と記録されている? なぜ、誰もそれを信じない?
疑問が渦巻く。だが、答えは見えない。
「……わからない」
私はただ、そう答えるしかなかった。
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155階層への階段は、これまでで最も長かった。
螺旋状に降りていく階段が、まるで地の底へと続いているように感じられる。壁から滲み出る水が、石段を濡らしている。足音が反響し、私たちの存在を周囲に知らせていた。
「次の階層は広い空間だ」
ゼノが言う。
「大型のモンスターがいる可能性が高い。気をつけろ」
「……わかった」
私たちは階段を降り切り、155階層へと足を踏み入れた。
そこは――巨大な空間だった。
天井は見えないほど高く、床は水で覆われている。膝まで浸かる深さの水が、広間全体に広がっていた。青白い光が水面を照らし、波紋が幻想的な模様を描いている。
そして、その中央に――それはいた。
多頭の大蛇。
ヒュドラ。
七つの首が、それぞれ独立して動いている。体長は優に20メートルを超えるだろう。緑色の鱗が光を反射し、黄色い目が私たちを捉えた。
「……Bランク」
ゼノが呟く。
「厄介だな」
ヒュドラが咆哮する。七つの首が一斉に私たちへ向けられた。水が激しく波打ち、空間全体が震える。
「首を切っても無駄だ!」
ゼノが叫ぶ。
「再生する! 心臓を狙え! 胴体の中央だ!」
彼の剣の知識が、弱点を教えてくれる。
ヒュドラが襲いかかってきた。
七つの首が、七つの方向から同時に攻撃してくる。私は水を蹴って跳躍する。首の一つが私のいた場所を噛み砕いた。水飛沫が上がり、視界が霞む。
だが、私の身体は迷わない。
空中で体勢を整え、別の首を蹴って方向を変える。ゼノが右から斬りかかり、首の一つを切断した。だが、次の瞬間――切断面から新しい首が生えてくる。
「くそっ!」
ゼノが舌打ちする。
私は水面を滑るように移動する。身体が知っている。この動き、このタイミング、この軌道――全て、身体が覚えている。
ヒュドラの胴体が見える。心臓の位置は――そこだ。
意識する前に、私の剣が空を切り裂いていた。
黒い刃が、青白い光を纏って突き進む。ヒュドラの鱗を貫き、肉を裂き、そして――心臓を捉えた。
ヒュドラが悲鳴を上げる。
七つの首が痙攣し、巨体が崩れ落ちる。水が大きく波打ち、私たちを飲み込もうとした。私は後ろへ跳び、ゼノの隣に着地する。
ヒュドラの身体が、ゆっくりと消えていく。
静寂が戻る。
水面が静まり、青白い光だけが残った。
「……やるじゃないか」
ゼノが笑う。だが、その目は私を見つめている。
「お前の動き……誰かに似てる気がするんだが」
「……?」
「いや、気のせいかもしれん」
彼は首を振る。
私は自分の手を見る。剣を握る手が、微かに震えていた。
なぜ、私は心臓の位置を知っていた?
なぜ、身体が迷わず動いた?
なぜ――?
「行くぞ、セリア」
ゼノの声に、私は顔を上げる。
「……ああ」
私たちは155階層の奥へと進んだ。
治療薬の残りは14本。
疑問は深まるばかりだが、答えはまだ見えない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
私の身体は、この道を知っている。
そして――それが何を意味するのか、いずれ知ることになるだろう。




