第45話 身体の真実
朝、宿を出た。
石畳を踏む足音が、静かな街に響く。カツン、カツン……規則的なリズム。空は灰色に曇っていて、冷たい風が吹いている。街の人々が、ゆっくりと目覚め始めている。パン屋の窓からは、焼きたてのパンの甘い香りが漂ってくる。その香りが——冷たい空気の中で、妙に暖かい。
広場を横切ろうとした時——
「セリアさん!」
声がした。
振り向くと——ミラが、笑顔で手を振っていた。
「……おはよう」
私は短く答える。
「おはようございます」
ミラが近づいてくる。彼女の手には、紙袋。パン屋の袋だ。
「お時間ありますか? 一緒に朝食、どうですか?」
ミラが問う。
私は——少し考えて、頷いた。
「……ああ」
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近くのカフェに入る。
窓際の席。外の景色が見える。灰色の空、石造りの建物、行き交う人々。
ミラがパンを取り出す。温かい湯気が立ち上る。
「150階層まで、もうすぐですね」
ミラが言う。
「……ああ」
私は答える。
「すごいですね。私の兄も——150階層まで行きました」
ミラの声が——少しだけ、遠い。
「……そうだったな」
私は頷く。
ミラが——少し寂しそうに笑う。
「でも、セリアさんなら——きっと、その先へ」
「……ありがとう」
私は短く答える。
パンを齧る。温かい。柔らかい。でも——味が、よくわからない。
「……セリアさん」
ミラが呼ぶ。
「……何だ?」
「気をつけてください」
ミラの目が——真剣だ。
「150階層から先——もっと、危険になります」
「……わかっている」
私は頷く。
でも——ミラの目には、何か別の感情がある。
心配——それだけじゃない。
まるで——何かを、知っているような。
「……行こう」
私は立ち上がる。
ミラが頷いて——二人で、アビスへ向かった。
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アビスのロビー。
ゼノが、いつもの笑顔で待っていた。
「おはよう、セリア」
「……おはよう」
私は答える。
ミラが受付に戻る。
「二人とも、気をつけてください」
ミラの声が、背中を押してくれる。
「……ああ」
私は頷いて——ゼノと共に、帰還ポートへ向かった。
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120階層。
白い光の中——私とゼノは、146階層への階段を下り始めた。
階段を下りる。カツン、カツン……足音が暗闇に響く。冷たい空気が、肌に纏わりつく。壁が湿っている。ポタリ、ポタリ……水滴が落ちる音。
146階層。
広い空間だった。天井は高く——暗い。
遠くから——ズルズル……と、何かが這いずる音。
「……ヒュドラだ」
ゼノが呟く。
「2体——いや、3体か」
通路の奥——3体のヒュドラが現れた。
多頭の大蛇。体長10メートル。5つの頭を持つ緑色の蛇。それぞれの頭が——独立して動いている。シャァァァ——威嚇の声。
「首を斬っても再生する」
ゼノが言う。
「心臓を狙う。胴体の中央だ」
「……わかった」
私は頷く。
1体目が——襲いかかってくる。5つの頭が——同時に、牙を剥く。
私は——跳ぶ。
そして——
身体が、勝手に動いた。
空中で回転して——5つの頭をすべて避ける。そのまま——胴体の中央へ。剣を振るう。ザクッ——心臓を貫く。
ヒュドラが——悲鳴を上げる。ギャアアア——倒れる。ドシャァ——
2体目——ゼノが大剣で心臓を貫く。ザクッ——撃破。
3体目——私とゼノ、同時に襲いかかる。心臓——同時に貫く。ザクッ——撃破。
「……はぁ」
息をつく。
ゼノが——じっと、私を見ている。
「……セリア、今の動き——」
「……?」
「いや——何でもない」
ゼノが首を振る。
でも——彼の目には、疑問がある。
「……奥へ」
私は言う。
ゼノが頷いて——二人で、147階層への階段を下りた。
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階段を下りながら——
私の足が、突然止まった。
「……どうした?」
ゼノが振り向く。
「……」
私は——なぜか、わかった。
「次の段——罠がある」
「……え?」
ゼノが驚く。
「どうしてわかる?」
「……わからない」
私は首を振る。
「でも——ある」
階段の一段——そこだけ、微妙に色が違う。
ゼノが石を投げる。カラン——階段が崩れて、暗い穴が開く。
「……本当だ」
ゼノが驚く。
「落とし穴の罠だ」
彼が——じっと、私を見る。
「……また、わかったのか?」
「……身体が、勝手に」
私は答える。
ゼノが——何も言わない。ただ——じっと、私を見ている。
罠を避けて——階段を下り続ける。
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147階層。
岩肌が剥き出しになった通路だった。天井は低く——圧迫感がある。
遠くから——重い足音。ドシン、ドシン……
「……ドラゴンだ」
ゼノが呟く。
通路の奥——黒いドラゴンが現れた。
体長8メートル。鱗が黒く光っている。翼を広げる——通路いっぱいに。目が赤く光る。
「翼の付け根と首の境目が弱点だ」
ゼノが言う。
「……わかった」
私は頷く。
ドラゴンが——火炎ブレスを吐く。ゴォォォォ——
避けて——
私の身体が——また、勝手に動いた。
ドラゴンの側面へ滑り込む。翼の付け根——そこを斬る。ザシュゥ——
ドラゴンが——悲鳴を上げる。ギャアアア——
ゼノが——正面から首の境目を斬る。ザシュゥ——
ドラゴンが——倒れる。ドシャァァァ——
「……はぁ、はぁ……」
息が上がる。
でも——勝った。
ゼノが——私を見る。
でも——何も言わない。
ただ——じっと、見ている。
「……治療薬」
私が差し出す。ゼノの腕に、浅い傷。
「……ああ、すまない」
ゼノが受け取って、飲む。ゴクゴク……
私も——肩を掠められていた。治療薬を飲む。ゴクゴク……
残り——15本。
「……奥へ」
私は言う。
ゼノが頷いて——二人で、148階層への階段を下りた。
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階段を下りながら——ゼノが口を開いた。
「……なあ、セリア」
「……何だ?」
「お前——本当に、記憶がないのか?」
ゼノの声が、低く響く。
「……どういう意味だ?」
私は問う。
「俺も200階層まで行ったから、ある程度は覚えてる」
ゼノが続ける。
「罠の場所、モンスターの弱点——まあ、全部は覚えてないけどな」
彼が笑う。
「細かいことは、いちいち覚えてられないし」
「……」
「でも——お前は違う」
ゼノの声が——真剣になる。
「お前の動き——完璧すぎる」
「罠も、弱点も、すべて知っているみたいだ」
その言葉が——胸に突き刺さる。
「……剣は、何も言わない」
私は答える。
「それは知ってる」
ゼノが頷く。
「でも——お前の身体が、覚えているんじゃないか?」
「……」
私は——黙る。
身体が——覚えている。
なぜ?
「……わからない」
私は呟く。
「でも——確かに、身体が動く」
ゼノが——じっと私を見る。
「……不思議だな」
「……ああ」
沈黙。
それから——階段を下り続けた。
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148階層。
広い空間だった。円形の広間。赤い光が満ちている。
そして——中央に、複数の影。
キメラの群れ。5体。
ライオンの身体、山羊の頭、蛇の尾。それぞれが——こちらを見ている。
「……厄介だな」
ゼノが呟く。
「一体ずつ——順番に」
「……わかった」
キメラたちが——一斉に襲いかかってくる。
1体目——私が迎え撃つ。ライオンの首を斬る。ザシュゥ——撃破。
2体目——ゼノが大剣で斬り倒す。ザシュゥ——撃破。
3体目——私が心臓を貫く。ザクッ——撃破。
4体目、5体目——私とゼノ、同時に襲いかかる。連携で——撃破。
「……はぁ、はぁ……」
息が上がる。
ゼノも——息を整える。
でも——彼の目は、私を見ている。
「……セリア」
「……何だ?」
「お前の動き——やっぱり、異常だ」
ゼノが言う。
「無駄がない。迷いがない」
「まるで——何度も戦ったような」
その言葉が——胸の奥に、重く沈む。
「……」
私は——何も言えない。
なぜなら——本当に、そうだから。
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149階層。
静かな通路だった。モンスターの気配はない。
「……休むか」
ゼノが言う。
「……ああ」
二人で、壁に背中を預ける。
水を飲む。呼吸を整える。
しばらく——沈黙。
それから——ゼノが、静かに言った。
「……セリア」
「……何だ?」
「もしかして——お前、ここに来たことがあるんじゃないか?」
私の胸が——ざわつく。
「……そんなことはない」
私は否定する。
「でも、お前の動きは——」
「……記憶には、ない」
私は言う。
「記憶には?」
ゼノが問い返す。
「……でも、身体が——動く」
私は呟く。
「まるで——何度も戦ったような」
ゼノが——沈黙する。
それから——静かに言った。
「……それは、不思議だな」
「……ああ」
私は頷く。
なぜ——身体が、覚えている?
記憶喪失になる前——
私は——ここに来ていた?
「……行こう」
私は言う。
ゼノが頷いて——二人で、150階層への階段を下りた。
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150階層。
広い空間だった。闘技場のような円形の広間。天井は高く——赤い光が満ちている。
そして——中央に、巨大な影。
デスドラゴン。
体長15メートルの黒い竜。全身が黒い鱗で覆われている。翼を広げる——直径20メートル。目が——赤く光る。
「……これは、厄介だ」
ゼノが呟く。
「……どう戦う?」
私が問う。
「……忘れた」
ゼノが笑う。
「……?」
「2年前に戦ったきりだからな。細かいことは覚えてない」
ゼノが肩を竦める。
「俺、そういうの苦手なんだ」
「……わかった。私が行く」
私は言う。
デスドラゴンが——咆哮する。ゴォォォォ——空間が震える。
火炎ブレスを吐く。ゴォォォォ——
避けて——
私の身体が——また、勝手に動いた。
デスドラゴンの側面へ。翼の下をくぐる。そして——
心臓——
そこを、貫く。
ザクッ——
デスドラゴンが——動きを止める。
そして——倒れた。ドシャァァァァ——
「……はぁ、はぁ……」
息が上がる。
ゼノが——驚いた顔で、私を見ている。
「……お前、弱点わかったのか?」
「……いや。身体が、勝手に」
私は答える。
ゼノが——笑った。
「……やっぱり、お前——異常だよ」
でも——その笑顔は、どこか複雑だ。
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地上へ帰還した。
アビスのロビー。夕暮れの光。
ミラに報告する。
「150階層まで到達しました」
「すごいです! おめでとうございます」
ミラが笑顔で答える。
それから——少し考えるような表情をして。
「……よかったら、夕食ご一緒しませんか?」
「……ああ」
私は頷く。
「じゃあ、俺は用事があるから」
ゼノが言う。
「また明日な、セリア」
「……ああ」
ゼノが——去っていく。
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ミラと二人で——近くの食堂へ。
温かいスープ、パン、焼いた肉。
「150階層——すごいですね」
ミラが言う。
「……まだ、先は長い」
私は答える。
「でも——セリアさんなら、きっと」
ミラが笑う。
「……ミラは、なぜそう思う?」
私は問う。
ミラが——少し考えて。
「セリアさんの目——諦めていないから」
「……」
「私の兄も——そんな目をしていました」
ミラの声が——少しだけ、遠い。
「……150階層で、失ったんだったな」
私は呟く。
ミラが——頷く。
「はい。でも——後悔はしていないと思います」
「兄は——深層を目指していましたから」
「……そうか」
沈黙。
それから——ミラが、静かに言った。
「セリアさんも——気をつけてください」
「……ああ」
私は頷く。
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夜。宿の部屋。
一人、ベッドに横になる。
窓の外——月が、静かに輝いている。
「……150階層」
呟く。
「なぜ——身体が、すべて知っている?」
「記憶喪失になる前——」
「私は——ここに来ていた?」
空虚の剣を見つめる。
「……剣よ。教えてくれ」
「私は——何者だ?」
沈黙。
剣は——何も答えない。
「……何も、答えない」
呟く。
窓の外——月を見上げる。
「……ミラの兄。150階層で——」
「……アシュ。無事でいてくれ」
不安が——胸の中で渦巻く。
身体の記憶。
それが——私を、不安にさせる。
夜が——静かに、過ぎていった。




