第44話 再会と限界
翌朝、私は再びアビスへ向かった。
石畳を踏む足音が、朝の静寂に響く。カツン、カツン……規則的なリズム。空気は冷たく澄んでいて、肌を刺すように冷たい。朝日が建物の隙間から差し込んで、長い影を地面に落としている。街はまだ眠りから覚めたばかりで、通りを行き交う人影もまばらだ。
広場を横切ろうとした時——
「……セリアさん!」
聞き覚えのある声。
私は立ち止まって、振り向いた。
「……アシュ」
そこに——アシュがいた。
彼の顔色は、以前より良くなっている。療養の成果だろう。でも——目に、影がある。深い、暗い影。
「久しぶりです」
アシュが、少し照れたように笑う。
「……ああ」
私は短く答える。
「……元気そうだな」
「ええ。おかげさまで」
アシュが頷く。
でも——その笑顔は、どこか無理をしているように見える。
「……少し、話すか?」
私は問う。
「はい」
アシュが頷いて——二人で、広場のベンチに座った。
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ベンチに座る。冷たい石の感触。
朝の光が、広場の噴水を照らしている。水が、静かに流れ落ちる音。ポタリ、ポタリ……
「調子はどうですか?」
アシュが問う。
「……140階層まで来た」
私は答える。
アシュが——目を見開く。
「……早いですね。すごい」
「……まだ、先は長い」
私は呟く。
沈黙。
それから——私が口を開いた。
「……アシュは?」
アシュが——少し、表情を曇らせる。
「相変わらず、100階層止まりです」
「……そうか」
「でも——」
アシュが続ける。
「最近——剣の囁きが、もっと強くなりました」
私の胸が——ざわつく。
「……どんな?」
「『もっと深く』『先へ』『止まるな』って——」
アシュの声が、震える。
「ずっと——耳元で、囁いているんです」
私は——黙る。
剣の囁き。
それは——深層へ誘う声。
「……それで?」
私は問う。
「100階層から先——行けないんです」
アシュが額を押さえる。
「身体が——動かなくなる」
「……剣が拒否している?」
「いえ——逆です」
アシュが首を振る。
「剣は『行け』『もっと深く』って言うんです。でも——身体が、ついていかない」
その言葉が——胸に突き刺さる。
剣は——先へ行けと囁く。
でも、身体が——限界。
「……無理をするな」
私は言う。
「……はい」
アシュが頷く。
沈黙。
噴水の音だけが——静かに響いている。
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その時——
「おう、セリアじゃないか」
声がした。
振り向くと——ゼノが立っていた。
「……ゼノ」
私が答える。
ゼノが笑顔で近づいてきて——アシュに気づく。
「お前——低層で見かけたことあるな」
「……!」
アシュが驚いて、立ち上がる。
「ゼノさん……!」
「ん? 俺を知ってるのか?」
ゼノが少し驚いたような顔をする。
「はい! Bランク冒険者のゼノさんですよね」
アシュの声が、興奮している。
「200階層まで到達された——有名な方です」
「ああ、そうか」
ゼノが少し照れたように笑う。
「そんな大層なもんじゃないけどな」
「……こいつは、アシュ」
私が紹介する。
「元パーティメンバーだ」
「へえ、そうなのか」
ゼノが興味深そうに、アシュを見る。
「低層で——セリアと一緒にいるの、見かけたことあったな」
「はい。その頃、セリアさんに鍛えてもらってました」
アシュが答える。
「なるほどな」
ゼノが頷いて——ベンチに座る。
「俺も座っていいか?」
「……ああ」
私は頷く。
アシュも、座り直す。
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「それで——今はどこまで行ってるんだ?」
ゼノがアシュに問う。
「100階層です。それ以上は——」
アシュが言いよどむ。
「……身体が動かなくなるんです」
ゼノが——じっと、アシュを見る。
「剣の囁きは?」
「『もっと深く』『先へ』って——ずっと言ってます」
アシュが答える。
「……なるほどな」
ゼノが腕を組む。
「剣は先へ行けと言うのに、身体がついていかない」
「……はい」
アシュが頷く。
「それは——厄介だな」
ゼノが呟く。
沈黙。
それから——ゼノが、静かに言った。
「……なあ、アシュ」
「はい?」
「俺たちと——一緒に来ないか?」
私は——驚いて、ゼノを見る。
「……ゼノ」
「元パーティメンバーなんだろ?」
ゼノが私を見る。
「……ああ」
「なら——また、一緒に行けばいい」
ゼノが笑う。
「120階層まで来られれば、俺たちと合流できる」
でも——アシュが首を振る。
「……無理です」
「なぜ?」
「100階層から先——身体が動かないんです」
アシュの声が、震える。
「剣は『行け』って言う。でも——身体が、拒否するんです」
ゼノが——少し考えるような表情をする。
「……それは、身体の限界か」
「……多分」
アシュが頷く。
「剣は——前の持ち主が100階層以上に行ったことがないんだと思います」
私は——その言葉に、ハッとする。
「……どういうことだ?」
「剣には——前の持ち主の記憶があるって聞きました」
アシュが言う。
「でも、俺の剣——100階層以上の記憶がないんです」
「だから——『行け』『もっと深く』って」
アシュの声が、苦しそうだ。
「初めての階層に——行きたがってるんです」
ゼノが——頷く。
「……そういうことか」
「でも、俺の身体は——ついていかない」
アシュが拳を握りしめる。
「剣は行きたがる。でも——俺が、足を引っ張ってる」
その言葉が——重く、空気に沈む。
私は——何も言えない。
「……アシュ」
私が口を開く。
アシュが——私を見る。
「無理をするな」
私は言う。
「100階層——それは、立派だ」
「……でも」
「それ以上は、危険だ」
私の声が——厳しくなる。
「剣の囁きに従って——身体が追いつかないまま進めば」
「……死ぬ」
その言葉が——アシュの顔から、血の気を奪う。
「……はい」
アシュが——小さく頷く。
ゼノが——私とアシュを、交互に見る。
「……そうだな」
ゼノが頷く。
「無理は禁物だ」
「100階層——それでも、十分すごいことだぞ」
ゼノが、アシュの肩を叩く。
「……ありがとうございます」
アシュが——少しだけ、笑った。
でも——その目は、暗い。
沈黙。
それから——アシュが、静かに言った。
「……セリアさん」
「……何だ?」
「深く——行ってください」
アシュの目が、真剣だ。
「私の分まで——見てきてほしい」
「俺が行けない場所を——」
その言葉が——胸に突き刺さる。
「……わかった」
私は頷く。
「必ず——辿り着く」
アシュが——少しだけ、笑った。
「ありがとうございます」
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ゼノが立ち上がる。
「じゃあ——行くか、セリア」
「……ああ」
私も立ち上がる。
アシュも——立ち上がる。
「二人とも、気をつけてください」
「……ああ」
私は頷く。
「アシュも——無理をするな」
「……はい」
アシュが頷く。
でも——その目は、どこか遠い。
私とゼノは——アビスへ向かった。
アシュの姿が——背後で、小さくなっていく。
私は——振り返らなかった。
振り返れば——何か、言ってしまいそうだから。
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アビスのロビー。
ミラが、いつもの笑顔で迎えてくれる。
「おはようございます、セリアさん、ゼノさん」
「……おはよう」
私は答える。
転移石を購入する。120階層へ。
「今日も——頑張ってください」
ミラの声が、背中を押してくれる。
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120階層。
白い光の中——私とゼノは、141階層への階段を下り始めた。
「……なあ、セリア」
ゼノが口を開く。
「……何だ?」
「アシュのこと——心配か?」
私は——少し考えて、頷く。
「……ああ」
「剣の囁きが——強まっている」
「……そうだな」
ゼノが頷く。
「しかも——『行け』って囁くのは、厄介だ」
「……なぜ?」
「『戻れ』なら——まだ、安全だ」
ゼノが言う。
「でも『行け』は——危険だ」
「……」
「身体が追いつかないのに——剣が先へ行けと囁き続ける」
ゼノの声が、重い。
「それに——従えば」
「……死ぬ」
私は呟く。
「ああ」
ゼノが頷く。
「だから——無理をしなければいいが」
その言葉が——胸に重く響く。
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141階層。
薄暗い通路だった。壁が湿っている。ポタリ、ポタリ……水滴が落ちる音。
遠くから——足音。ズシン、ズシン……
「……トロールだ」
ゼノが呟く。
「3体——いや、4体か」
「……わかった」
私は頷く。
でも——頭の中は、アシュのことでいっぱいだった。
剣の囁き。
『もっと深く』『先へ』『止まるな』
それに——従えば。
トロールが——現れた。
体高6メートルの灰色の巨体。棍棒を握っている。4体。
「セリア、右の2体!」
ゼノが叫ぶ。
「……ああ!」
私は右へ跳ぶ。
でも——動きが、鈍い。
1体目——棍棒が振り下ろされる。ドゴォン——避けるのが、遅れる。
掠める。腕に——浅い傷。
「……っ」
痛みが走る。
集中しろ——
私は自分に言い聞かせる。
1体目——膝を斬る。ザシュ——倒れる。首を斬る。ザシュゥ——撃破。
2体目——棍棒が横から来る。避けて——心臓を貫く。ザクッ——撃破。
「……はぁ、はぁ……」
息が上がる。
ゼノも——2体を撃破している。
「……大丈夫か?」
ゼノが心配そうに見る。
「……ああ」
私は頷く。
「治療薬を」
ゼノが差し出す。
「……ありがとう」
飲む。ゴクゴク……傷が塞がる。
残り——17本。
「……集中できてないな」
ゼノが言う。
「……すまない」
私は頭を下げる。
「謝ることじゃない」
ゼノが笑う。
「アシュのこと——気になるんだろ?」
「……ああ」
私は頷く。
「俺も——少し、心配だ」
ゼノが呟く。
「あの目——何か、決意しているような」
その言葉が——胸に突き刺さる。
決意——
まさか。
「……奥へ」
私は言う。
ゼノが頷いて——二人で、142階層への階段を下りた。
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142階層——ガーゴイル5体。
143階層——ワイバーン3体。
144階層——デスナイト6体。
戦闘は続いた。
でも——私の頭は、アシュのことでいっぱいだった。
『もっと深く』
剣の囁き。
それに——従えば。
身体が——追いつかなければ。
145階層。
広い空間——転移装置があった。青白い光。150階層への中継地点。
「……今日は、ここまでにしよう」
ゼノが言う。
「……ああ」
私は頷く。
二人で、転移石を使って——地上へ帰還した。
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アビスのロビー。夕暮れの光。
ミラに報告する。
「145階層まで到達しました」
「すごいです! お疲れ様でした」
ミラが笑顔で答える。
私は——ロビーを見回す。
アシュの姿は——ない。
「……ミラ」
私が問う。
「はい?」
「アシュは——来たか?」
ミラが——少し考える。
「ああ、アシュさんなら——さっき、100階層へ行かれました」
その言葉が——胸に突き刺さる。
100階層——
「……そうか」
私は頷く。
不安が——募る。
ゼノと別れて——私は、宿へ戻った。
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夜。宿の部屋。
一人、ベッドに横になる。
窓の外——月が、静かに輝いている。
「……アシュ」
呟く。
「剣の囁きが——強まっている」
『もっと深く』『先へ』『止まるな』
剣は——初めての階層に、行きたがっている。
「でも——身体が、追いつかない」
呟く。
「それでも——無理をすれば」
不安が、胸の中で渦巻く。
「……嫌な予感がする」
呟く。
「まるで——何か、起こりそうな」
月を見上げる。
静かな、冷たい光。
「……アシュ。無理をするな」
呟く。
でも——その言葉は、届かない。
夜が——静かに、過ぎていった。




