第43話 身体の記憶
翌朝、私は再びアビスへ向かった。
石畳の上を歩く。カツン、カツン……朝の静けさに、足音だけが響く。空は澄んでいて、冷たい風が頬を撫でる。街の人々が、ゆっくりと目覚め始めている。パン屋の窓からは、焼きたてのパンの香りが漂ってくる。
アビスのロビーへ。扉を押し開ける。
「おはようございます、セリアさん」
ミラが、いつもの笑顔で迎えてくれる。
「……おはよう」
私は短く答えて、カウンターに近づく。
「今日も120階層への転移石ですね」
「……ああ」
10銀貨を置く。チャリン……
「140階層まで目指されるんですか?」
ミラが、少し期待するような目で見る。
「……そのつもりだ」
「頑張ってください。応援しています」
ミラの声が、温かい。
「……ありがとう」
転移石を受け取って、帰還ポートへ向かった。
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120階層。
白い光の中——ゼノが待っていた。
「おはよう、セリア」
彼の声は、明るい。昨日とは違う。
「……おはよう」
私が答えると、ゼノが少し照れたように笑った。
「昨日はすまなかった」
彼が頭を掻く。
「少し疲れていたみたいだ。変なこと言ったか?」
「……いや」
私は首を振る。
「気にするな」
「そうか。ありがとう」
ゼノが——いつもの笑顔を見せる。
確かに、今日の彼はいつも通りだ。昨日の重苦しさは——消えている。
「……行くぞ」
私は言う。
「ああ」
二人で、136階層への階段を下り始めた。
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136階層。
開けた空間だった。岩肌が剥き出しになった広間。天井は高く、遠くから——風切り音。ヒュォォォ……
「……ワイバーンか」
ゼノが呟く。
「3体いる」
「……どこだ?」
「上だ」
ゼノが天井を見上げる。
その瞬間——3体のワイバーンが、急降下してきた。
翼竜。体長5メートル。鋭い牙と爪。翼が風を切る音——ヒュォォォ。
「剣が教えてくれた。翼の付け根が弱点だ」
ゼノが言う。
「……わかった」
私は頷く。
1体目が——私に向かってくる。爪を伸ばして——急降下。
跳んで避ける。空中で——翼の付け根を斬る。ザシュゥ——
ワイバーンが悲鳴を上げる。ギャアアア——落ちる。地面に激突する。ドシャァ——
2体目——ゼノが大剣で翼を斬り落とす。ザシュゥ——撃破。
3体目——私とゼノ、同時に襲いかかる。翼の付け根——同時に斬る。ザシュゥ——撃破。
「……はぁ」
息をつく。ゼノも、息を整える。
「完璧だったな」
ゼノが笑う。
「剣の知識——やっぱり便利だ」
「……ああ」
私は頷く。
確かに——剣の知識は、便利だ。でも——
「……奥へ」
私は言う。
ゼノが頷いて——二人で、137階層への階段を下りた。
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階段を下りながら——
私の足が、突然止まった。
「……どうした?」
ゼノが振り向く。
「……」
私は——なぜか、わかった。
「次——罠がある」
「……え?」
ゼノが驚いた顔をする。
「剣が教えてくれたのか?」
「……いや」
私は首を振る。
「わからない。でも——ある」
不思議な感覚だった。剣は何も言わない。でも——確信がある。
階段を——ゆっくり下りる。
そして——
「……ここだ」
私が立ち止まる。一段の階段——そこだけ、微妙に色が違う。
「……本当だ」
ゼノが驚く。
「落とし穴の罠だ」
彼が石を投げる。カラン——階段が崩れて、暗い穴が開く。
「……よく気づいたな」
ゼノが感心したように言う。
「剣が——」
「いや」
私は遮る。
「剣は、何も言わない」
「じゃあ——どうして?」
「……わからない」
私は答える。
でも——本当に、わからない。なぜ、私は知っていた?
「……すごいな、セリア」
ゼノが笑う。
「お前の勘——鋭いんだな」
「……そうかもしれない」
私は曖昧に答える。
でも——違う。勘じゃない。
まるで——知っているような。
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137階層。
石造りの通路だった。壁には、古い文字が刻まれている。読めない文字。
遠くから——重い足音。ドシン、ドシン……
「……アイアンゴーレムだ」
ゼノが呟く。
「2体。Bランクだな」
「……どう戦う?」
私が問う。
「関節を狙おう。外殻は硬いが、関節は脆い」
ゼノが言う。
「……わかった」
通路の奥——2体のアイアンゴーレムが現れた。
体高4メートルの鉄の巨人。全身が鉄で覆われている。重い足音。ドシン、ドシン……
1体目が——拳を振り下ろす。ドゴォン——地面が砕ける。
避けて——
私の身体が——勝手に動いた。
膝の関節へ滑り込む。剣を振るう。ザシュゥ——関節が砕ける。
アイアンゴーレムが——倒れる。ドシャァ——
首の関節を斬る。ザシュゥ——撃破。
「……」
私は——自分の動きに、驚いていた。
考える前に——身体が動いた。まるで——何度も戦ったかのように。
2体目——ゼノが同じように、関節を狙って撃破する。
「……セリア」
ゼノが、私を見る。
「お前の動き——完璧だな」
「……?」
「まるで——アイアンゴーレムの弱点を、知っているみたいだった」
ゼノの言葉が——胸に突き刺さる。
「……そんなことは」
私は否定する。
でも——本当に、そうだった。
身体が——勝手に、最適な動きをした。
「……奥へ」
私は言う。
ゼノが頷いて——二人で、138階層への階段を下りた。
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階段を下りながら——ゼノが口を開いた。
「……なあ、セリア」
「……何だ?」
「剣の知識は——便利だ」
ゼノが呟く。
「でも——時々、自分の判断なのか、剣の判断なのかわからなくなる」
私は——黙る。
「例えば——さっきのワイバーン」
ゼノが続ける。
「翼の付け根を狙ったのは——俺の判断か? それとも、剣の知識か?」
「……」
「わからないんだ」
ゼノの声が、少し重い。
「……それは、危険だ」
私は言う。
「ああ。でも——まだ、大丈夫だ」
ゼノが笑う。
「今は——剣と、うまくやっている」
でも——その「今は」という言葉が、引っかかる。
いつか——「大丈夫じゃなくなる」時が来る。
「……気をつけろ」
私は言う。
「ああ。ありがとう」
ゼノが頷いて——階段を下り続けた。
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138階層。
広い通路だった。両側に石柱が並んでいる。松明が揺れている。パチパチ……
遠くから——複数の足音。カツン、カツン、カツン……
「……デスナイトだ」
ゼノが呟く。
「5体——いや、6体か」
「……厄介だな」
「ああ」
通路の奥——黒い鎧の騎士たちが現れた。
デスナイト。体高2メートル。黒い鎧、黒い剣。目は赤く光っている。
6体——一斉に、襲いかかってくる。
「セリア、右の3体!」
ゼノが叫ぶ。
「……ああ!」
私は右へ跳ぶ。
1体目——剣を振るってくる。ガキン——受け止める。そのまま——
私の身体が——また、勝手に動いた。
剣を流す。懐へ滑り込む。首を斬る。ザシュゥ——撃破。
2体目——横から斬りかかる。避けて——心臓を貫く。ザクッ——撃破。
3体目——両手で剣を振り下ろす。避けて——足を払う。ザシュ——倒れる。首を斬る。ザシュゥ——撃破。
「……はぁ、はぁ……」
息が上がる。
でも——自分の動きが、信じられなかった。
まるで——デスナイトの動きを、すべて予測していたかのように。
ゼノも——3体を撃破している。
「……すごいな、セリア」
ゼノが言う。
「お前の動き——まるで、何度も戦ったような——」
その言葉が——胸に突き刺さる。
「……」
私は——何も言えない。
なぜなら——本当に、そうだから。
まるで——何度も戦ったような。
身体が——覚えている。
「……奥へ」
私は言う。
ゼノが頷いて——二人で、139階層への階段を下りた。
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139階層。
円形の広間だった。モンスターの気配はない。
「……休むか」
ゼノが言う。
「……ああ」
二人で、壁に背中を預ける。
水を飲む。呼吸を整える。
しばらく——沈黙。
それから——ゼノが、私を見た。
「……なあ、セリア」
「……何だ?」
「お前——本当に、120階層が初めてか?」
私の胸が——ざわつく。
「……どういう意味だ?」
「お前の動き——まるで、ここを知っているみたいだ」
ゼノの目が、真剣だ。
「罠の場所も、モンスターの弱点も。まるで——何度も戦ったかのように」
「……」
「でも、空虚の剣は囁かないんだろう?」
「……ああ。何も」
私は答える。
「不思議だな」
ゼノが呟く。
「剣の知識もないのに——お前は、知っている」
その言葉が——胸の奥に、重く沈む。
なぜ——私は、知っている?
剣は何も言わない。でも——身体が、覚えている。
「……わからない」
私は呟く。
「でも——確かに、身体が動く」
ゼノが——じっと私を見る。
「……もしかしたら」
「……?」
「お前の剣——本当は、囁いているんじゃないか?」
「いや」
私は首を振る。
「何も聞こえない。本当に——何も」
「……そうか」
ゼノが頷く。
沈黙。
それから——私が口を開いた。
「……ただ、身体が——勝手に動く」
「勝手に?」
「ああ。考える前に——最適な動きを、している」
ゼノが——少し驚いたような顔をする。
「……それは、すごいな」
「……でも、怖い」
私は呟く。
「なぜ——身体が、覚えているのか」
ゼノが——何も言わない。
ただ——じっと、私を見ている。
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140階層。
広い空間だった。円形の闘技場。赤い光が満ちている。
そして——中央に、巨大な影。
キマイラロード。
ライオンの身体。山羊の頭。蛇の尾。体長8メートル。Bランク上位のボス級モンスター。
「……来たか」
ゼノが呟く。
キマイラロードが——咆哮する。ガォォォォ——空間が震える。
「……どう戦う?」
私が問う。
「蛇の尾が一番危険だ」
ゼノが言う。
「毒がある。まずそれを斬り落とす」
「……わかった」
キマイラロードが——突進してくる。ズシン、ズシン——
蛇の尾が——伸びる。毒牙が光る。
「今だ!」
ゼノが叫ぶ。
私は——跳ぶ。
そして——
身体が——勝手に動いた。
空中で回転して——蛇の尾を斬り落とす。ザシュゥ——
キマイラロードが——悲鳴を上げる。ギャアアア——
ゼノが——ライオンの首を斬る。ザシュゥ——
私が——山羊の頭を貫く。ザクッ——
キマイラロードが——倒れる。ドシャァァァ——
「……はぁ、はぁ……」
息が上がる。
でも——勝った。
そして——私は、自分の動きを——信じられなかった。
まるで——この戦い方を、知っていたかのように。
「……セリア」
ゼノが、私を見る。
「お前——やっぱり、すごいな」
「……」
私は——何も言えない。
身体が——覚えている。
でも——記憶には、ない。
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140階層の奥——転移装置があった。
青白い光。150階層への中継地点。
「……順調だな」
ゼノが言う。
「……ああ」
私は頷く。
二人で、転移石を使って——地上へ帰還した。
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アビスのロビー。夕暮れの光。
ミラに報告する。
「140階層まで到達しました」
「すごいです! 本当に順調ですね」
ミラが笑顔で答える。
「明日も——頼む」
ゼノが言う。
「……ああ」
私は答える。
ゼノが——去っていく。いつもの笑顔で。
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夜。宿の部屋。
一人、ベッドに横になる。
「……なぜ、身体が覚えている?」
呟く。
「剣は何も言わない。でも——」
空虚の剣を見つめる。
「まるで、何度も戦ったような——」
記憶には、ない。
でも、身体が——知っている。
「……記憶にはない」
呟く。
「でも、身体が——」
窓の外——月が、静かに輝いている。
不安と疑問が——胸の中で渦巻く。
「……150階層」
呟く。
「そこに——答えがあるはずだ」
目を閉じる。
でも——眠れない。
身体の記憶が——私を、不安にさせる。
夜が——静かに、過ぎていった。




