第42話 囁きの深化
翌朝、私は再びアビスへ向かった。
石畳を踏む足音が、朝の静寂を破る。カツン、カツン……規則的なリズム。空気は冷たく、肌を刺すように澄んでいる。街はまだ眠りから覚めたばかりで、通りを行き交う人影もまばらだ。朝日が建物の隙間から差し込んで、長い影を地面に落としている。
アビスのロビーへ。扉を押し開ける。ギィ……重い音。
受付カウンターには、ミラがいつもの笑顔で立っていた。
「おはようございます、セリアさん」
明るい声。朝の光が、彼女の髪を照らしている。
「……おはよう」
私は短く答えて、カウンターに近づく。
「今日も120階層への転移石ですね」
ミラが手慣れた様子で、転移石を取り出す。
「……ああ」
10銀貨を置く。チャリン……
「135階層まで到達されたんですよね。すごいです」
ミラが、少し目を輝かせる。
「……まだ、先は長い」
私は答える。
「でも——必ず、辿り着く」
ミラが——少しだけ、表情を曇らせた。でもすぐに笑顔を取り戻す。
「お気をつけて。応援しています」
「……ありがとう」
私は転移石を受け取って、帰還ポートへ向かった。
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120階層。
白い光が、私を迎えた。
円形の広間。静謐な空間。中央の転移装置が青白く光っている。そして——その近くに、ゼノの姿があった。
「……おはよう」
私が声をかける。
ゼノが振り向く。でも——何か、違う。
彼の表情が、いつもより硬い。目が——少し、虚ろだ。
「……ああ。おはよう」
ゼノの声が、低く響く。
「……大丈夫か?」
私は問う。
「ああ。問題ない」
彼は短く答えた。でも——剣を握る手が、少し震えている気がする。
「……行くぞ」
私は言う。
「ああ」
二人で、131階層への階段へ向かった。
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131階層への階段を下りる。
カツン、カツン……足音が暗闇に響く。冷たい空気が、肌に纏わりつく。
ゼノが——突然、立ち止まった。
「……どうした?」
私が問う。
ゼノが——剣を見つめている。じっと、まるで何かの声を聞いているかのように。
「……天井に、ガーゴイルが7体」
彼の声が、低く、冷たい。
「広間に入った瞬間、襲ってくる」
「……剣が?」
「ああ」
ゼノが頷く。
「剣が——教えてくれた」
私は——頷く。でも、胸の奥に小さな違和感がある。
昨日までの「教えてくれた」は——もっと自然だった。でも今日の彼の声は——まるで、剣の言葉をそのまま反復しているかのようだ。
「……気をつけよう」
私は言う。
「ああ」
階段を下り続ける。
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131階層。
広い空間だった。円形の広間。天井は高く——暗い。石柱が林立している。
ゼノが天井を見上げる。
「……来るぞ」
その瞬間——
バサッ、バサッ、バサッ——
天井から——ガーゴイルが7体、降ってきた。
石の翼。灰色の身体。鋭い爪。それぞれが、剣や斧を握っている。
ゼノの言った通りだった。
「セリア、右の3体!」
ゼノが叫ぶ。
「……わかった!」
私は右へ跳ぶ。3体のガーゴイルが襲いかかる。
1体目——剣を振るってくる。ガキン——受け止める。火花が散る。そのまま押し込んで——懐へ滑り込む。首を斬る。ザシュゥ——撃破。石の身体が、地面に崩れ落ちる。ゴロゴロ……
2体目——空中から急降下。爪が伸びる。避けて——背後から首を斬る。ザシュゥ——撃破。
3体目——斧を振り下ろす。ドゴォン——地面が砕ける。跳んで避けて——空中で斬る。ザシュゥ——撃破。
ゼノの方を見る——彼も、4体を撃破している。でも——動きが、異様だった。
まるで——何度も戦ったかのように。無駄がない。迷いがない。ガーゴイルの攻撃を、すべて予測している。
「……はぁ」
息をつく。ゼノも、息を整える。
「……完璧だったな」
ゼノが呟く。
「剣が——すべて教えてくれた」
その言葉が——胸に引っかかる。
「……奥へ」
私は言う。
ゼノが頷いて——二人で、132階層への階段へ向かった。
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132階層。
通路を進むと——遠くから、低い唸り声。グルルル……
「……ケルベロスか」
私が呟く。
「ああ。3体いる」
ゼノが答える。
「それと——」
彼が剣を見つめる。
「火炎ブレスが来る。5秒後だ」
「……5秒後?」
私は問い返す。
「ああ。剣が——教えてくれた」
その瞬間——
ゴォォォォ——
通路の奥から、火炎が噴き出してきた。
でも——私たちは既に、壁に身を隠していた。ゼノの指示通り、5秒前に。
火炎が、通路を焼き尽くす。壁が赤く染まる。熱気が、肌を焼く。
それが——止む。
「……今だ!」
ゼノが叫んで、飛び出す。私も続く。
通路の奥——3体のケルベロスが待ち構えていた。
3つの頭を持つ黒い犬。体高3メートル。牙が光る。
ゼノが1体目へ突進する。大剣を振るう。中央の首を斬る。ザシュゥ——撃破。
私は2体目と3体目へ。
2体目——左右の首が噛みつく。避けて——中央の首を斬る。ザシュゥ——撃破。
3体目——火炎ブレスを吐く。ゴォ——跳んで避ける。空中で首を斬る。ザシュゥ——撃破。
「……はぁ、はぁ……」
息が上がる。でも——無傷だった。
ゼノの予告が、完璧だったから。
「……まるで、未来を見ているみたいだ」
私は呟く。
ゼノが——静かに答える。
「剣が——覚えているんだ」
「……誰の記憶だ?」
私は問う。
ゼノが——首を振る。
「わからない。でも——前の持ち主が、ここを通ったんだろう」
彼の声が——少し、遠い。
「……奥へ」
私は言う。
ゼノが頷いて——二人で、133階層への階段を下りた。
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階段を下りながら——ゼノが、口を開いた。
「……なあ、セリア」
「……何だ?」
「お前の剣は——何も言わないのか?」
ゼノの声が、暗闇に響く。
「……ああ。何も」
私は答える。
「囁きも、知識も。何もない」
ゼノが——少し、羨ましそうな表情をする。
「……それは、いいことだ」
「……なぜ?」
私は問う。
ゼノが——剣を見つめる。
「最近——囁きが、強くなった」
彼の声が、重い。
「『もっと深く』『早く』『止まるな』……ずっと、耳元で囁いている」
私は——黙る。
「知識は便利だ。でも——代償がある」
ゼノが呟く。
「剣が——俺を、深層へ引きずっていく」
その言葉が——胸に突き刺さる。
「……なぜ、剣は知っている?」
私は問う。
「……前の持ち主の記憶——だと思う」
ゼノが答える。
「でも——ここまで正確なのは……」
彼の表情が、少し曇る。
「……異常だ」
沈黙。
それから——ゼノが、静かに言った。
「……セリア。もし俺が——変だったら」
「……?」
「止めてくれ」
彼の目が、真剣だった。
「……わかった」
私は頷く。
「……ありがとう」
ゼノが——少しだけ、笑った。
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133階層。
薄暗い通路だった。壁が湿っている。ポタリ、ポタリ……水滴が落ちる音。
遠くから——重い足音。ズシン、ズシン……
「……何だ?」
私が呟く。
「ドラゴンゾンビだ」
ゼノが答える。
「1体。Bランク」
「……厄介だな」
「ああ」
通路の奥——巨大な影が現れた。
ドラゴンゾンビ。体長10メートルの腐った竜。骨が露出している。緑色の腐肉。目は空洞だが——動いている。
グルルル……低い唸り声。
「……どう戦う?」
私が問う。
ゼノが——剣を見つめる。
「左の首筋に弱点がある」
彼の声が——また、あの冷たい響き。
「そこを狙えば——一撃だ」
「……剣が?」
「ああ」
私は——頷く。でも、違和感が強まる。
ドラゴンゾンビが——咆哮する。ゴォォォォ——通路が震える。
突進してくる。ズシン、ズシン——
「セリア、右から!」
ゼノが叫ぶ。
「……ああ!」
私は右へ跳ぶ。ゼノは左へ。
ドラゴンゾンビが——私に向かってくる。口を開ける。毒液を吐く。ドロッ——
避けて——側面へ回る。左の首筋——そこに、小さな傷がある。
「……ここか」
剣を振るう。ザシュゥゥ——深く斬り込む。
ドラゴンゾンビが——悲鳴を上げる。ギャァァァァ——
そして——崩れ落ちた。ドシャァ——
「……一撃、だった」
私は呟く。
ゼノが——頷く。
「剣が——教えてくれた通りだ」
彼の声が——まるで、感情がない。
「……治療薬」
私が差し出す。ゼノが——手を振る。
「俺は無傷だ。お前が使え」
私の腕に——浅い傷。毒液が掠めた。
治療薬を飲む。ゴクゴク……傷が塞がる。
残り——18本。
「……奥へ」
私は言う。
ゼノが頷いて——二人で、134階層への階段を下りた。
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134階層。
広い空間だった。円形の広間。中央に——転移装置はない。でも、モンスターの気配もない。
「……休むか」
ゼノが言う。
「……ああ」
二人で、壁に背中を預ける。冷たい石の感触。
水を飲む。呼吸を整える。
しばらく——沈黙。
それから——ゼノが、剣を握りしめたまま黙り込んだ。じっと、剣を見つめている。
「……大丈夫か?」
私は問う。
ゼノが——ゆっくりと顔を上げる。
「……剣が、ずっと囁いている」
彼の声が、震えている。
「『もっと深く』『早く』『止まるな』……」
「……」
「頭の中が——剣の声で、いっぱいだ」
ゼノが額を押さえる。
「知識も——次から次へと流れ込んでくる。135階層のこと、140階層のこと、150階層のこと……」
私は——何も言えない。
「……セリア。もし俺が——」
ゼノが、私を見る。
「もし俺が——変だったら、止めてくれ」
「……わかった」
私は頷く。
「……すまない」
ゼノが——少しだけ、笑った。でもその笑顔は——どこか、虚ろだった。
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135階層。
広い空間だった。闘技場のような円形の広間。直径50メートル。天井は高く、赤い光が満ちている。
そして——中央に、巨大な影。
ミノタウロス・ロード。
体高5メートルの牛頭人身。黄金の角。全身に黒い毛。両手に大斧。Bランクのボス級モンスター。
「……来たか」
ゼノが呟く。
ミノタウロス・ロードが——咆哮する。モォォォォ——空間が震える。
「……どう戦う?」
私が問う。
ゼノが——剣を見つめる。そして——
「剣が——戦い方を教えてくれる」
彼の声が——冷たい。感情がない。
「まず、左足を狙う。次に右角。最後に心臓」
「……わかった」
ミノタウロス・ロードが——突進してくる。ズシン、ズシン——
「今だ!」
ゼノが叫んで——左へ跳ぶ。私も跳ぶ。
ゼノが——左足に斬りつける。ザシュゥ——深い傷。
ミノタウロス・ロードが——よろめく。
「右角!」
ゼノが叫ぶ。
私が——跳んで、右角を斬る。ガキィン——硬い。でも——ヒビが入る。
ミノタウロス・ロードが——怒りの咆哮。モォォォォ——
大斧を振り回す。ブンッ——風が唸る。
避けて——
「心臓!」
ゼノと私——同時に、心臓を貫く。ザクッ——
ミノタウロス・ロードが——動きを止める。
そして——倒れた。ドシャァァァ——
「……はぁ、はぁ……」
息が上がる。でも——勝った。
ゼノの指示が——完璧だったから。
でも——ゼノの表情が、虚ろだった。まるで——自分の意思で戦っていないかのように。
「……ゼノ?」
私が呼びかける。
ゼノが——ハッと我に返る。
「……ああ。すまない」
彼が額を押さえる。
「剣が——俺を、導いていた」
その言葉が——胸に重く響く。
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135階層の奥——転移装置があった。
青白い光。150階層への中継地点。
「……ここで、一度戻ろう」
ゼノが言う。
「……ああ」
私は頷く。
二人で、転移石を使って——地上へ帰還した。
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アビスのロビー。夕暮れ時の光が、窓から差し込んでいる。
ミラに報告する。
「135階層まで到達しました」
「すごいです! 順調ですね」
ミラが笑顔で答える。
でも——私の胸は、重い。
ゼノが——去っていく。足音が遠ざかる。
「明日も——頼む」
彼の声が、ロビーに響く。
「……ああ」
私は答える。
ゼノの背中が——少し、小さく見えた。
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夜。宿の部屋。
一人、ベッドに横になる。
窓の外——月が、静かに輝いている。
「……剣の知識は、便利だ」
呟く。
「でも——ゼノは、囚われている」
剣が——彼を支配し始めている。
「私の剣は——何も言わない」
空虚の剣を見つめる。
「……それが、幸運なのかもしれない」
沈黙の剣。
知識も、囁きも、何もない。
だから——私は、自由だ。
「……150階層」
呟く。
「そこに——真実があるはずだ」
月を見上げる。
「……必ず、辿り着く」
目を閉じる。
夜が——静かに、過ぎていった。




