第3話 誰も信じない
宿舎へ戻る道すがら、私は街を眺めていた。
始祖の都ルミナス。
白い石造りの建物が立ち並ぶ美しい都市。石畳の道。行き交う人々。商店街には活気があり、店先には色とりどりの商品が並んでいる。パン屋からは焼きたてのパンの香りが漂い、雑貨屋では店主が客と談笑している。
だが、街の中央には――巨大な穴が口を開けていた。
ダンジョン。
直径500メートルはあろうかという、漆黒の穴。そこから冷たい風が吹き上げてくる。街の人々は、その穴を中心に生活している。ダンジョンから帰還した冒険者たちが、戦利品を運んでいる。魔物の素材。希少な鉱石。それらが街の経済を支えているのだろう。
私はふと、既視感を覚えた。
この街並み。どこかで見たことがあるような気がする。だが、思い出せない。記憶がない。ただ、心の奥底に微かな懐かしさだけが残っている。
……気のせいだろうか。
私は足を止め、街を見渡した。そして、ギルドカードを取り出す。
黒いカード。「500」という数字が、不吉に光っている。
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宿舎へ戻る前に、少し街を歩いてみることにした。
商店街を抜け、大通りへ出る。道の両脇には様々な店が並んでいた。武器屋、防具屋、薬屋、宿屋。冒険者向けの店が多い。
その中の一つ、武器屋の前で私は立ち止まった。
店先には様々な剣が並んでいる。長剣、短剣、大剣。どれも手入れが行き届いており、刃が鈍く光っている。店主らしき男が、店の奥で剣を磨いていた。
40代ほどの男。厳つい顔、筋骨隆々とした体格。だが、その手つきは丁寧で、剣を大切に扱っているのが分かる。
私が店の前に立つと、店主が顔を上げた。
「いらっしゃい。お嬢さん、冒険者かい?」
低い声。だが、敵意はない。
「ああ」
私は短く答えた。店主は私の腰に下げた剣を見て、目を細めた。
「……珍しい剣だね。見せてもらってもいいかい?」
私は剣を抜いた。漆黒の刃。装飾のない、シンプルな剣。店主はそれを受け取り、じっくりと眺める。
「これは……空虚の剣か」
「知っているのか」
「ああ。滅多に見ないがね」
店主は剣を私に返した。
「普通の剣はね、持ち主が死ぬと、その記憶と意思が剣に宿る。次の持ち主は、その記憶を共有しながら戦うんだ。儀式ってやつだ。まあ、冒険者なら誰でも知ってることだが」
彼は私の剣を見た。
「だが、空虚の剣は違う。前の持ち主の記憶が宿らない。完全に沈黙している。だから、最弱の剣と言われてる」
「……そうか」
店主は私を見た。
「だが、剣は命と一緒だ。どんな剣でも、大切に扱えばちゃんと応えてくれる。お嬢さんも、その剣を大事にしてやりな」
「ああ」
私は剣を鞘に収めた。店主は少し笑って、店の奥へ戻ろうとする。
そのとき、私は何気なくギルドカードを取り出した。
「……このカードは、本物だろうか」
店主が振り返る。私がカードを見せると、彼は受け取ってじっくりと見た。
そして――表情が変わった。
「500階層……?」
店主の声が低くなる。彼は私を見た。疑念と、わずかな怒りが混ざった目。
「お嬢さん……悪いことは言わない。そういう悪戯はやめときな」
「悪戯?」
「ギルドカードの偽造だ。人類史上、最深到達記録は450階層。それも20年前、たった一人だけだ。500階層なんて、ありえない」
店主はカードを私に返した。
「アビスに通報されたら、ただじゃ済まないよ。今すぐそのカードを捨てて、本物を手に入れることだ」
「これは本物だ。アビスオーダーで発行された」
「嘘をつくな」
店主の声が鋭くなった。
「俺は40年、この街で武器屋をやってる。冒険者を何百人と見てきた。500階層なんて、誰も到達したことがない。お嬢さんが嘘つきなのか、それとも誰かに騙されたのか知らないが……俺の店には二度と来ないでくれ」
彼は背を向けた。私は何も言わず、店を後にした。
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街の中央広場へ向かった。
噴水のある広場。ベンチがいくつか置かれ、冒険者たちが休憩している。私はその中の一つに座り、周囲を観察した。
冒険者たちが談笑している。剣を腰に下げ、革鎧を身につけた者たち。彼らの会話が聞こえてくる。
「……500階層だって? 馬鹿げてる」
「アビスも何を考えてるんだ。あんな偽物を放置するなんて」
「詐欺師だろ。ギルドカードを偽造したんだ」
「いや、聞いた話じゃアビスが発行したらしいぞ」
「じゃあ、アビスが狂ったのか?」
笑い声。嘲笑。
私は無表情で聞いていた。感情が湧かない。怒りも、悲しみも。ただ、一つだけ疑問が湧く。
なぜ、これほど信じてもらえないのか。
ギルドカードは偽造不可能だとミラは言っていた。魂と紐付けられているから、と。だが、誰もそれを信じない。
……いや、信じたくないのだろう。
500階層という記録が、あまりにも現実離れしているから。
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そのとき、一人の少女が私に近づいてきた。
10歳くらいの女の子。明るい茶色の髪、大きな瞳。笑顔で私を見ている。
「お姉さん、冒険者?」
無邪気な声。私は少女を見た。
「ああ」
「かっこいい! 私もね、大きくなったら冒険者になるんだ!」
少女は目を輝かせている。私は何も言わず、ただ見つめていた。
「ねえねえ、ギルドカード見せて!」
少女が手を伸ばしてくる。私は少し躊躇したが、カードを取り出して見せた。
少女はそれを見て、目を丸くした。
「500階層!? すごい! 本当に!?」
純粋な驚き。疑いのない、まっすぐな目。
私は少し戸惑った。
初めて、信じてくれた人間。
「……ああ」
私は短く答えた。少女は興奮して飛び跳ねる。
「本当にすごい! お姉さん、英雄じゃん! ねえ、どんな魔物がいたの? 怖かった? 宝物は見つけた?」
次々と質問が飛んでくる。私は答えに困った。記憶がない。何も覚えていない。
そのとき――。
「エマ!」
女性の声。少女が振り返ると、一人の女性が駆けてきた。30代ほど。おそらく少女の母親だろう。
「エマ! 知らない人に話しかけちゃダメでしょ!」
母親が少女の手を掴む。そして、私のギルドカードを見た。
表情が硬くなる。
「あなた……噂の……」
母親は少女を強引に引き離した。
「エマ、この人に近づいちゃダメ。嘘つきなんだから」
「でも、お母さん! お姉さん、500階層に行ったんだよ!」
「そんなわけないでしょ! いいから、来なさい!」
母親は少女を引きずっていく。少女は抵抗しながら、振り返って私に手を振った。
「お姉さん、またね!」
私は無表情で見送った。
広場に、再び静寂が戻る。
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夕暮れ。
私は宿舎へ戻った。
部屋で一人、ベッドに座る。ギルドカードを手に取り、じっと見つめた。
誰も信じない。
それは理解できる。500階層という記録が、あまりにも異常だから。だが、このカードは真実を示している。私は確かに、500階層へ行ったのだ。
……だが、証明する手段がない。
記憶がない。何も覚えていない。ただ、このカードだけが、唯一の証拠だ。
「……信じてもらう必要はない」
私は静かに呟いた。
「私が知りたいのは、真実だ」
なぜ私は500階層へ行ったのか。
そこで何があったのか。
なぜ記憶を失ったのか。
答えは、ダンジョンの中にある。
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眠りにつく前、再び頭痛が襲ってきた。
激しい痛み。頭を抱え、歯を食いしばる。
暗闇の中、誰かの声が聞こえた。
「セリア……帰ってきたのか……」
知らない声。だが、どこか懐かしい。男の声だ。
「まだ、終わっていない……」
「あと7人……」
囁き。暗闇。10万本の剣。
ビジョンが脳裏に焼きつく。そして――頭痛が消えた。
私は息を整え、窓の外を見た。
遠くに見えるダンジョンの穴。漆黒の穴が、静かに口を開けている。
「答えは、あの中にある」
私は呟いた。
明日、ダンジョンへ潜ろう。
記憶を取り戻すために。真実を知るために。
――そして、私が何者なのかを、確かめるために。




