第39話 再会と契約
アビスのロビーは、夕暮れ時の柔らかな光に満ちていた。
私は壁際の長椅子に座り、ポーチの中身を確認していた。治療薬の瓶が、カチャカチャと音を立てる。一本、二本、三本……数える。
25本。
「……まだ、余裕がある」
呟く。でも——このままでは、足りなくなる。
120階層までの戦闘を思い返す。オーガ、キメラ、ミノタウロス、バジリスク。Cランクモンスターたち。もう——身体が慣れた。動きを覚えた。でも、それでも傷を負う。それでも治療薬を使う。
121階層以降は——もっと強い。もっと速い。もっと危険だ。
「……一人では、無理だ」
その結論が、胸の奥で静かに形を成す。
記憶がフラッシュバックする——
広い空間。4人の人影。
リオンの声——「連携だ。一人じゃない」
誰かの笑い声。誰かの足音。剣が交差する音。
4人で——一緒に戦っていた。
私は、一人じゃなかった。
「……仲間が、必要だ」
呟く。その言葉が、ロビーの空気に溶けていく。
ロビーには、冒険者たちがまばらに座っている。ギルド職員が受付で書類を処理している。水の音。足音。話し声。すべてが、遠い世界の出来事のように聞こえる。
顔を上げる——そして、見つけた。
黒いマントを羽織った男。40代。短く刈り上げた髪。鋭い目つき。
ゼノだった。
彼はカウンターで何かを受け取っていた。ギルド職員と短く言葉を交わし、振り向く——そして、私と目が合った。
一瞬。
彼の目が、わずかに見開かれる。驚き。それから——小さく笑った。
私は立ち上がり、彼に近づく。足音が石床を叩く。カツン、カツン……規則的なリズム。
「……久しぶりだな」
私が先に声をかけた。
ゼノが——少し驚いたような表情をした。それから、いつもの冷静な顔に戻る。
「よう、生きてたか」
彼の声は、低く、落ち着いている。でも——その奥に、安堵のような何かが混じっている気がした。
「……ああ」
私は短く答えた。
「120階層まで行ったらしいな」
ゼノが言う。
「噂になってる。17歳の少女が、単独で120階層到達。しかも——2週間足らずで」
「……そうか」
私は感情を込めずに答える。噂になっていることに、驚きはない。ただ——どうでもいい。
ゼノが私を見る。その目が——何かを探るように、私を観察している。
「……少し、話がしたい」
私は言った。
ゼノが——少し間を置いてから、頷いた。
「いいだろう」
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ギルドの奥にある休憩室。
小さな部屋だった。木製のテーブルと椅子が二つ。窓からは、夕日が差し込んでいる。オレンジ色の光が、部屋を優しく照らしている。
私たちは向かい合って座った。
ゼノがマントを脱ぎ、椅子の背もたれにかける。彼の腕には、古い傷跡がいくつも走っている。戦いの痕。長年の経験。
「……で、話って何だ?」
ゼノが先に口を開いた。
私は——少し迷った。何から話せばいいのか。でも——結論は、一つだ。
「……一緒に、潜らないか」
ゼノの目が——わずかに見開かれた。
「……パーティを組む、ってことか?」
「……ああ」
私は頷いた。
ゼノは——少し黙った。それから、深く息をついた。
「……なぜ俺を選ぶ?」
彼の声が、低く響く。
「お前なら、もっと若い冒険者を誘った方がいい。俺は——もう、限界が見えてる」
「……限界?」
私は問い返す。
ゼノが——少し視線を逸らした。窓の外を見る。夕日が、彼の顔を照らしている。
「……俺は、200階層まで行った」
彼が語り始める。
「3年前。パーティは3人だった。俺と、前衛がもう一人、後衛が一人」
私は黙って聞く。
「200階層で——Aランクモンスターに遭遇した。エルダードラゴン。体長30メートルの古代竜だ」
ゼノの声が、重くなる。
「苦戦した。死にかけた。でも——何とか撃破した」
彼が拳を握る。その手が、わずかに震えている。
「でも——その後だ。仲間の一人が——おかしくなった」
「……おかしく?」
「ああ。剣の声に、囚われた」
私の胸が——ざわつく。
「『もっと深く』——そう言い続けた。剣がそう囁いてるって。止めても、聞かなかった」
ゼノが顔を上げる。その目には——後悔が滲んでいる。
「俺は——見捨てた。もう一人の仲間と一緒に、地上へ逃げた。あいつを——置いて」
沈黙。
「……それ以来、俺は200階層以上に潜ってない」
ゼノが言う。
「ギルドの依頼も、180階層までのものしか受けない」
「……なぜ?」
私は問う。
ゼノが——少し笑った。自嘲的な笑い。
「怖いんだ」
彼の声が、静かに響く。
「剣の声が——常に響くんだ。『もっと深く』と。でも——不思議なことに、剣は深層の情報を知っている」
私は——息を呑む。
「まるで——何度も行ったことがあるかのように。200階層の構造、モンスターの配置、危険な場所。すべて、剣が教えてくれた」
ゼノが私を見る。
「深く潜るほど——その声が強くなる。200階層を超えると——抗えなくなりそうで、怖い」
彼の言葉が、胸に突き刺さる。
「……なぜ剣は、深層へ誘うんだ?」
ゼノが問う。答えを求めるように。
私は——答えられない。わからない。でも——
「……私の剣は、何も言わない」
私は言った。
ゼノが——驚いたような顔をする。
「空虚の剣か」
「……ああ」
私は頷く。
「何も教えてくれない。だから——すべて自分で確かめた。120階層まで、すべて」
ゼノが——少し考え込むような表情をする。
「……それは、不利だな」
「……でも、自由だ」
私は答えた。
ゼノが——じっと私を見る。その目が——何かを探るように。
記憶が——フラッシュバックする。
誰かの声——「剣が囁く」
誰かの苦しそうな顔——「もっと深く……」
リオンの声——「お前の剣は特別だ。自由だ」
「……一緒に、潜らないか」
私は繰り返した。
「一人では無理だ。121階層以降は。お前が——必要だ」
ゼノが——驚いたような顔をする。
「……お前、俺みたいな奴と?」
「……ああ」
私は頷く。
「お前は経験がある。200階層まで行った。戦い方を知っている。剣の声を——知っている」
ゼノが黙る。
「……でも、俺は弱い」
彼が言う。
「剣の声に——抗えないかもしれない」
「……なら、私が止める」
私は答えた。
ゼノが——目を見開く。
「……私の剣は囁かない。だから——お前が剣の声に従いそうになったら、私が止める」
ゼノが——少し笑った。でも——それは、安堵の笑みだった。
「……お前は、変わってるな」
「……そうか」
私は感情を込めずに答える。
ゼノが——深く息をついた。それから——ゆっくりと頷いた。
「……わかった」
彼が言う。
「怖いが——お前となら、もう一度、深層へ行ける気がする」
私の胸が——少し、温かくなる。
「明日、120階層で落ち合おう」
ゼノが言う。
「……わかった」
私は頷いた。
ゼノが立ち上がる。マントを羽織る。
「じゃあな。明日——待ってる」
彼が部屋を出ていく。足音が遠ざかる。
私は——一人、椅子に座ったまま。
夕日が、もう沈みかけている。部屋が——薄暗くなっていく。
「……剣が、深層を知っている」
呟く。
「……まるで、何度も行ったことがあるかのように」
なぜ?
「……剣が、人を深層へ誘う」
なぜ?
答えは——わからない。でも——きっと、深層に真実がある。
リオンたちとの記憶。4人の仲間。連携。そして——別れ。
「……今度は、ゼノと」
呟く。
新しい仲間。新しいパーティ。
「……行こう。真実を——確かめに」
立ち上がる。部屋を出る。
夜が——静かに訪れていた。




