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第38話 120階層――中層の境界


朝日が、窓から差し込んでいた。


目を覚ます。身体が——軽い。昨日の治療が効いている。筋肉の痛みも、疲労も、ほとんど消えている。


ゆっくりと起き上がり、身体を動かしてみる。腕を回す、足を曲げる、首を回す。問題ない。動く。ちゃんと動く。


装備を確認する。革鎧を装着し、空虚の剣を腰に帯びる。ポーチには治療薬が29本。昨日補充したばかりだ。


「……行くぞ」


呟いて、部屋を出た。


-----


アビスへ向かう。朝の街は静かだった。商人たちがゆっくりと店を開き始め、冒険者たちがまばらに歩いている。子供たちはまだ眠っているのか、路地には姿が見えない。


アビスの入口。巨大な石造りの建物が、朝日を浴びて堂々と立っている。中に入ると、ホールにはまだ人が少ない。受付カウンターに、ミラの姿が見えた。


彼女が私に気づく。


「セリアさん」


優しい声。いつもの笑顔。でも——少し心配そうな目をしている。


「……おはよう」


私は短く挨拶した。


「もう行かれるんですね」


ミラが問いかける。


「……ああ」


「昨日、戻ってきたばかりなのに……」


彼女の声が小さくなる。心配している。それが、伝わってくる。


「……大丈夫だ」


私は答えた。


「治療を受けた。もう回復している」


ミラは少し迷うような表情をしたが——やがて、小さく頷いた。


「……わかりました」


彼女は転移石を取り出す。深層用の転移石。10銀貨。


「115階層へ、ですね」


「……ああ」


代金を支払う。チャリン……銀貨の音。


「行ってきます」


私は、そう言った。


ミラが——驚いたような表情をした。そして、微笑んだ。


「……お気をつけて」


温かい言葉。それが、胸に染みる。


私は頷いて、帰還ポートへ向かった。


-----


転移石を握りしめる。


「115階層へ」


呟いて、石を砕く。パキン——


光が私を包む。青白い光。でも——すぐには移動しない。時間がかかる。無防備なまま、光に包まれて待つ。


1分、2分、3分……


長い。でも——仕方ない。これが、中層のルールだ。


5分、7分、10分——


ようやく、世界が切り替わった。


-----


115階層。


赤い光が、私を迎えた。


血のような赤い光。壁から発せられる不気味な光。脈動している。ドクン、ドクン……まるで心臓のように。


「……ただいま」


呟く。誰に言っているのか、自分でもわからない。ただ——そう言いたかった。


重力1.5倍。身体に圧力がかかる。でも——もう慣れた。この重さも、今では当たり前だ。


奥に階段が見える。116階層への階段。


「……行くぞ」


呟いて、階段を下り始めた。


-----


116階層。


通路。狭く、暗い。もう見慣れた光景。


足音が響く。カツン、カツン……規則的なリズム。


遠くから、足音。ドシン、ドシン……


オーガが2体、現れた。体高5メートルの灰色の巨体。棍棒を握っている。


私は剣を構えた——身体が軽い。昨日とは違う。ちゃんと動く。


2体が突進してくる。地面が揺れる。ドドド……


私は冷静に観察する。1体目の動きを見極める。棍棒が振り下ろされる瞬間——横へ跳ぶ。着地。問題ない。懐へ滑り込む。膝を斬る。ザシュ——倒れる。首を斬る。ザシュゥ——1体目、撃破。


2体目が棍棒を横薙ぎに振るう。避けて——心臓を貫く。ザクッ——2体目、撃破。


短い戦闘。1分ほど。


でも——肩を掠められた。浅い傷。治療薬を取り出す。飲む。ゴクゴク……傷が塞がる。


残り——28本。


「……まだ余裕がある」


呟いて、奥へ進む。


-----


117階層。


キメラが現れた。ライオンの身体、山羊の頭、蛇の尾。三つの頭が同時に威嚇する。ガァァァ、メェェェ、シャァァ——


いつもの手順で戦う。もう——身体が覚えている。蛇の尾を狙う。剣を振るう。ザシュ——尾が斬り落とされる。山羊の頭へ飛び乗る。首を斬る。ザシュゥ——山羊の頭が垂れ下がる。最後にライオンの首。喉を貫く。ザクッ——キメラが崩れ落ちる。ドシャァ……


撃破。


今回は無傷だった。


「……慣れてきた」


呟く。Cランクモンスター。もう——脅威ではない。身体が完璧に動く。昨日の疲労もない。治療を受けて、本当に良かった。


奥へ進む。階段を下る。


-----


118階層。


通路を進むと——ミノタウロスが3体。


体高3メートル。大斧と角。昨日、苦戦した相手だ。


でも——今日は違う。


私は冷静に観察する。3体の配置、動き、呼吸。すべてを見る。


3体が突進してくる。地面が揺れる。ドドドド……


私は——動いた。横へ跳ぶ。1体目の大斧を避ける。懐へ滑り込む。足首を斬る。ザシュ——倒れる。首を斬る。ザシュゥ——1体目、撃破。


2体目と3体目が同時に襲いかかる。でも——焦らない。冷静に。2体目の大斧を剣で受け流す。ガキィン——衝撃が腕に響くが、受け止める。そのまま3体目の懐へ。心臓を貫く。ザクッ——2体目、撃破。


残り1体。最後のミノタウロスが角を突き出してくる。避けて——首を斬る。ザシュゥ——3体目、撃破。


「……はぁ、はぁ……」


息が少し上がる。でも——昨日よりずっと楽だった。経験が活きている。身体が、戦い方を覚えている。


でも肩と腕に傷。治療薬を2本使う。ゴクゴク、ゴクゴク……傷が塞がる。


残り——26本。


奥へ進む。


-----


119階層。


通路を進むと、バジリスクが2体現れた。大蛇。体長8メートル。緑色の鱗。そして——石化の目。


私は目を見ないように戦った。視線を足元に落とす。気配だけで動く。


1体目——剣を振るう。首を狙う。ザシュゥ——一撃。撃破。


2体目——でも、目が光った。視界の端に映る。黄色い光。身体が少し硬直する——足先が石になりかける。


でも——すぐに首を斬る。ザシュゥ——2体目、撃破。


治療薬を取り出す。石化を解く。飲む。ゴクゴク……足先の感覚が戻る。


残り——25本。


「……はぁ」


息をつく。119階層。


奥に——階段が見える。


「……あと1階層」


呟く。


「……120階層だ」


胸が高鳴る。ようやく——ようやく、そこまで来た。


階段へ向かう。


-----


階段を下り始める。


長い階段だった。いつもより長い。100段、150段、200段——数えるのをやめた。ただ、下り続ける。


一段、また一段。足音が石を叩く。カツン、カツン……その音が、下方へ吸い込まれていく。


下るほどに——空気が変わっていく。


赤い光が、徐々に消えていく。壁から発せられていた血のような赤い光が、薄れていく。脈動も、弱まっていく。


代わりに——


白い光が、現れ始める。


淡い白い光。青白くもなく、赤くもなく——ただ、白い。柔らかい光。優しい光。


「……何だ、この光は」


呟く。不気味さはない。むしろ——落ち着く。まるで月明かりのような、穏やかな光。


階段を下り続ける。白い光が、どんどん強くなっていく。そして——


階段の終わり。


目の前に——


巨大な門があった。


-----


石造りの門。


高さ15メートルはある。幅は10メートル。表面には、無数の古代文字が刻まれている。複雑な模様と文字が絡み合って、門全体を覆い尽くしている。


門は——半開きになっている。隙間から、白い光が溢れ出している。


私は——門を押した。


両手で。全身の力を込めて。


ゴゴゴゴゴ……


低い音が響く。地面が震える。門が——動く。重い。とても重い。でも——動く。


ギィィィィ……


金属の軋み。耳障りな音。でも——門は開いていく。


光が——溢れ出す。


白い光。まばゆい光。


私は——一歩、踏み出した。


-----


120階層。


息を——呑んだ。


広い。


桁違いに広い。100階層よりも、115階層よりも——広い。


円形の空間。直径50メートルはある。天井は25メートル。壁一面に、古代文字が刻まれている。それらが——白く光っている。


白い光が、空間全体を満たしている。


淡く、優しい光。不気味さは、まったくない。むしろ——神秘的だ。まるで聖域のような、清らかな雰囲気。


重力1.5倍は——相変わらず。でも——この光の中では、その重さすら心地よく感じる。


そして——


中央に——


台座があった。


円形の台座。直径5メートル。表面には、魔法陣のような複雑な模様が刻まれている。それが——青白く光っている。白い光とは、少し違う色。


「……これが、転移装置か」


呟く。


近づく。足音が、広間に響く。カツン、カツン……反響する。


台座の前に立つ。表面を見る。


古代文字が刻まれている。三つの言葉。


「地上へ」


「100階層へ」


「120階層へ」


選択できるようになっている。手を置けば——選んだ場所へ、瞬時に転移できる。


「……便利だ」


呟く。これがあれば——もう、10分も待つ必要はない。ここから地上へ、瞬時に帰れる。


周囲を見渡す。


広間の奥に——階段が見える。121階層への階段。下へと続く石造りの階段。


でも——今は、ここで休もう。


台座の近くに座り込む。背中を台座に預ける。冷たい石の感触。


「……120階層、か」


呟く。


「……ようやく、ここまで来た」


胸に——達成感がある。100階層から、ここまで。長かった。戦い続けた。苦しかった。でも——辿り着いた。


白い光が、優しく私を包む。静寂。水滴の音もない。ただ——静寂。でも——不気味ではない。むしろ——落ち着く。


「……ここは、安全な場所なのか」


呟く。そんな気がする。モンスターの気配もない。ただ——静寂と、白い光だけ。


呼吸を整える。一つ、吸って。一つ、吐いて。心拍がゆっくりと落ち着いていく。


ポーチから治療薬を取り出す。残りを確認する。


25本。


まだ——十分にある。


「……まだ、大丈夫だ」


呟く。


リオンのことを考える。彼の顔。彼の声。


「……120階層まで来た」


呟く。


「……あなたも、ここを通ったのか」


答えはない。でも——きっと、通ったはずだ。リオンたちは、300階層まで行った。だから——ここも、通ったはずだ。


「……次は、150階層だ」


呟く。決意を新たにする。


「……その先に、何があるのか」


真実が——待っている。記憶が——待っている。仲間が——待っている。


立ち上がる。足に力を込める。


「……今日は、ここまでにしよう」


呟いて、転移装置へ向かう。


台座に手を置く。表面が——温かい。不思議な温もり。


「地上へ」


呟く。


その瞬間——


光が溢れた。青白い光。転移の光。


そして——


瞬時に——


世界が、切り替わった。


アビスの帰還ポート。


私は——戻ってきた。


120階層から——地上へ。


「……便利だ」


呟いて、小さく笑った。

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