第37話 地上への帰還
116階層。
階段を下りると、また通路だった。狭く、暗い。もう何度も見た光景。
足が重い。一歩踏み出すたびに、地面が私を引きずり込もうとする。重力1.5倍。身体が、もう慣れることを拒否している。
遠くから足音。ドシン、ドシン……
オーガだ。1体。
体高5メートルの灰色の巨体。棍棒を握っている。
私は剣を構えた。でも——手が震えている。疲労で、筋肉が言うことを聞かない。
オーガが突進してくる。地面が揺れる。
私は横へ跳んだ——着地が遅れる。足が地面に吸い付く。オーガの棍棒が振り下ろされる——避ける。ギリギリで。
懐へ滑り込む。膝を斬る。ザシュ——オーガが倒れる。首を斬る。ザシュゥ——撃破。
「……はぁ、はぁ……」
息が上がる。たった1体なのに。
奥へ進む。足を引きずるように。
-----
117階層。
キメラが現れた。ライオン、山羊、蛇。三つの頭。
いつもの手順で戦う。蛇の尾を斬る。ザシュ——山羊の頭を斬る。ザシュゥ——ライオンの首を貫く。ザクッ——
撃破。
でも爪が腕を掠めた。浅い傷。でも血が滲む。
治療薬を取り出す。飲む。ゴクゴク……傷が塞がる。
残り——10本。
「……はぁ」
息が漏れる。身体が悲鳴を上げている。
奥へ。階段へ。
-----
118階層。
ミノタウロスが2体。
大斧と角。体高3メートル。
私は剣を構えた——でも、身体が重い。動きが鈍い。
2体が突進してくる。地面が揺れる。ドドド……
避ける——でも、完全には避けきれない。1体目の大斧が肩を掠める。ビリッ——革鎧が裂ける。肉が裂ける。
「……っ!」
痛みで視界が歪む。でも止まらない。1体目の足首を斬る。ザシュ——倒れる。首を斬る。ザシュゥ——
2体目が角を突き出してくる——避けて、心臓を貫く。ザクッ——撃破。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
息が荒い。肩が痛い。血が流れている。
治療薬を取り出す。飲む。ゴクゴク……
残り——9本。
「……もう限界だ」
呟く。身体が、もう動かない。足が震えている。視界が霞んでいる。
奥に階段が見える。119階層への階段。
でも——
「……120階層まで行けば、すぐに帰れる」
呟く。120階層。転移装置がある。そこからなら、瞬時に地上へ帰れる。
「……でも、もう無理だ」
正直に認める。あと2階層——無理だ。もう戦えない。
「……ここから帰ろう」
呟いて、階段を——上り始めた。
-----
階段を上る。
一段、また一段。
下りるより——上る方が、きつい。足が重い。息が苦しい。心臓が痛いほど激しく打っている。
117階層。
116階層。
115階層。
ようやく——115階層の広間に戻った。
赤い光が、相変わらず脈動している。ドクン、ドクン……不気味な光。でも今は——それすら、気にならない。
私はポーチから転移石を取り出した。
青い石。深層用の転移石。10銀貨と引き換えに手に入れたもの。
「……地上へ」
呟いて、石を握りしめた。
パキン——
石が砕ける。
その瞬間——光が私を包んだ。
青白い光。転移の光。
でも——すぐには移動しない。
光に包まれたまま——待つ。
1分。
2分。
3分——
「……長い」
呟く。無防備だ。今、モンスターに襲われたら——逃げられない。戦えない。
でも——幸い、何も起こらない。
5分。
7分。
10分——
ようやく——
世界が、切り替わった。
-----
アビスの帰還ポート。
広いホール。魔法陣が床に描かれている。ここに——私は戻ってきた。
「……っ」
足が、崩れる。
地面に膝をつく。
疲労困憊。もう——立っていられない。
「セリアさん!」
聞き慣れた声。
ミラだった。
茶色のセミロングを揺らしながら、彼女が駆け寄ってくる。
「無事で……」
彼女の手が、私の肩に触れる。温かい。
「……ああ」
短く答える。声が掠れている。
「ギルドカード、確認させてください」
ミラが端末を取り出す。私はカードを手渡す。
彼女が端末にかざすと——画面に文字が浮かび上がる。
ミラの目が、大きく見開かれた。
「115階層……」
彼女の声が震える。
周囲のギルド職員たちも気づく。ざわつく。
「115階層だって?」
「たった数日で15階層も……」
「本物だ……」
囁き声が、ホールに広がる。
ミラが私を見る。心配そうな目。
「セリアさん、医療室へ行きましょう」
「……ああ」
彼女に支えられながら、立ち上がる。足が震える。でも——歩ける。
医療室へ向かう。
-----
医療室。
白い壁。白いベッド。消毒液の匂い。
私はベッドに横になった。
医師が診察する。50代ほどの男性。眼鏡をかけている。
「……無茶をしすぎです」
彼が言った。厳しい口調。
「身体が悲鳴を上げている。筋肉が損傷している。疲労が蓄積しすぎている」
私は——何も答えない。
「せめて数日は休んでください」
医師が続ける。
「このままでは、取り返しのつかないことになりますよ」
「……大丈夫だ」
私は、短く答えた。
医師はため息をついた。
「……わかりました。治療はします。でも——」
彼は私を見た。心配そうな目。
「無理はしないでくださいね」
治療が始まる。魔法陣のような装置が身体をスキャンする。光が身体を包む。筋肉の損傷が修復されていく。痛みが引いていく。
30分ほどで、治療が終わった。
「これで、とりあえずは大丈夫です」
医師が言った。
「でも、休息は必要ですよ」
「……わかった」
私は、ベッドから起き上がった。
ドアがノックされる。
「入れ」
医師が言う。
ドアが開く——ミラだった。
「セリアさん、大丈夫ですか?」
彼女が近づいてくる。
「……ああ」
私は頷いた。
医師が部屋を出る。「ゆっくり話してください」と言い残して。
ミラが椅子に座る。私の隣。
「セリアさん、本当に大丈夫ですか?」
彼女が問いかける。優しい声。
「……ああ」
「無理はしないでくださいね」
「……ありがとう、ミラ」
その言葉に、ミラが少し驚いた表情をした。
「……セリアさん、私の名前……」
「……ああ」
私は頷いた。
「……いつも、ありがとう」
ミラの目が潤んだ。でも——笑顔だった。
「……どういたしまして」
静寂。
でも——温かい静寂。
そして——
「……そういえば」
私は、問いかけた。
「アシュさん、見ませんでしたか?」
-----
ミラの表情が、少し曇った。
「アシュさんなら……」
彼女が言葉を選ぶように、ゆっくりと話す。
「3日前に、100階層へ挑戦しました」
「……100階層?」
私は驚いた。
アシュが——100階層へ。
「はい。Eランクに昇格してから、ずっと修行していたんです」
ミラが続ける。
「60階層から地上に戻って、毎日ダンジョンへ通っていました」
「真面目に、一生懸命に」
「……そうか」
私は呟いた。
アシュらしい。真面目で、努力家の彼らしい。
「でも……」
ミラの声が、小さくなる。
「……でも?」
私は促す。
「失敗したそうです」
ミラが言った。
「重傷を負って、帰還しました」
「今は自宅で療養中だと……」
「……っ」
胸が、締め付けられる。
アシュが——重傷。
「大丈夫なのか」
私は問いかける。
「命に別状はないそうです」
ミラが答える。
「でも……」
「……でも?」
「剣が、強く囁いていたそうです」
ミラの声が、さらに小さくなる。
「『もっと深く』と」
「……剣が」
私は呟いた。
115階層で聞いた、あの囁き。
「もっと深く……」
同じ言葉。
「セリアさん」
ミラが私を見た。
「剣が囁くのは……危険なことなんですか?」
彼女の目が、不安そうに揺れている。
「……わからない」
私は正直に答えた。
「……でも、普通じゃない気がする」
ミラは黙った。
不安そうな表情。
「……この世界では、剣が囁くのは普通だ」
私は続けた。
「……みんな、剣に導かれている」
「……でも」
「……強すぎる囁きは——」
言葉が途切れる。
答えが、わからない。
でも——
不安だけが、残る。
-----
医療室を出た。
ミラが案内してくれた。ギルドの薬品庫へ。
「治療薬、補充しますか?」
「……ああ」
カウンターで治療薬を購入する。20本。
代金を支払う。チャリン……銀貨の音。
ポーチにしまう。
残り9本 + 新規20本 = 29本。
「……これで、しばらくは大丈夫だ」
呟く。
ミラが私を見た。
「また行かれるんですね」
「……ああ」
「いつ?」
「……明日」
その言葉に、ミラの目が大きく見開かれた。
「え、明日?」
「休まなくていいんですか?」
「……時間がない」
私は答えた。
「時間……?」
ミラが問いかける。
「……何かが、待っている気がする」
私は窓の外を見た。
深淵の入口が見える。巨大な穴。底の見えない深淵。
「……120階層まで」
「……そして、その先へ」
ミラは何も言わなかった。
ただ——心配そうな顔で、私を見ていた。
-----
宿に戻った。
部屋に入る。ベッドに座る。
静寂。
窓の外から、街の音が聞こえる。人々の話し声。子供の笑い声。馬車の車輪の音。
日常の音。
でも——私には、遠く感じる。
空虚の剣を見る。
腰に帯びられた、漆黒の刃。
「……剣が囁く」
呟く。
「……みんな、剣に導かれている」
「……でも、私の剣は——」
沈黙している。
何も教えてくれない。
何も導いてくれない。
「……だから自由だと、リオンは言った」
彼の声が、頭の中で響く。
「お前の剣は特別だ」
「空虚の剣」
「だから——自由だ」
「……でも、孤独だ」
呟く。
導きがないということは——
一人で決めなければならないということ。
一人で戦わなければならないということ。
窓の外を見る。
深淵の入口が、闇の中で口を開けている。
「……明日、また行く」
呟く。
「……120階層まで」
「……そして、真実を——」
ベッドに横になる。
目を閉じる。
リオンの顔が浮かぶ。傷のある顔。優しい目。
アシュの顔が浮かぶ。茶髪の少年。真面目な目。
「……待っていてくれ」
呟く。
「……リオン」
「……アシュ」
「……必ず、真実を知る」
「……そして——」
意識が、遠のいていく。
疲労が、私を眠りへと誘う。
深い、深い眠りへ——。
夢の中で——
赤い光が、脈動していた。
ドクン、ドクン……
まるで心臓のように。
そして——
囁きが、聞こえた。
「……もっと深く……」
「……もっと……」
「……深く……」




