第36話 115階層
111階層。
階段を下りきると、また通路だった。狭く、暗く、天井が低い。101階層からずっと同じような光景が続いている。もう見慣れたはずなのに——身体が、重い。
足音が石畳に響く。カツン、カツン……その音さえ、いつもより鈍く聞こえる。
重力1.5倍。慣れたと思っていたが、疲労が溜まるほどに、その重さが増していく気がする。一歩ごとに、地面が私を引きずり込もうとする。
遠くから足音。ドシン、ドシン……地を揺らす重い足音。
現れたのはオーガ、2体。体高5メートルの灰色の巨体。右手に丸太のような棍棒を握っている。
私は剣を構えた。
「……リオンなら、どう戦っただろう」
呟く。彼の顔が頭に浮かぶ。大剣を豪快に振るう姿。力強く、迷いなく。でも私には、そんな戦い方はできない。私は速さで戦う。小さく、速く、確実に。
オーガが突進してくる。2体同時に。地面が揺れる。ドドド……振動が足の裏から伝わってくる。
私は横へ跳んだ。1体目の棍棒が振り下ろされる——ドガァン!石畳が砕け、破片が飛び散る。私はその隙に懐へ滑り込み、膝の腱を狙って剣を振るう。ザシュ——刃が肉を裂く音。オーガがバランスを崩して倒れる。首を狙って剣を振り下ろす。ザシュゥ——1体目、撃破。
2体目が棍棒を横薙ぎに振るう。風圧が頬を叩く。避けて——心臓を狙って剣を突き立てる。ザクッ——深々と。2体目、撃破。
短い戦闘。1分ほど。でも息が上がる。疲れている。明らかに、疲れている。
奥へ進む。足が重い。
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112階層。
通路を進むと、キメラが現れた。ライオンの身体、山羊の頭、蛇の尾。三つの頭が同時に威嚇する——ガァァァ、メェェェ、シャァァ——不協和音のような咆哮。
いつもの手順で戦う。蛇の尾を斬り落とす。ザシュ——地面に落ちた尾がまだ蠢いている。次に山羊の頭。背中に飛び乗り、首を狙う。ザシュゥ——山羊の頭が垂れ下がる。最後にライオンの首。喉を狙って剣を突き立てる。ザクッ——キメラが崩れ落ちる。ドシャァ……
でも、山羊の角が脇腹を掠めていた。革鎧が裂け、肉が裂ける。浅い傷だが、血が滲む。ヒリヒリと痛む。
ポーチから治療薬を取り出す。赤い液体。栓を抜いて一気に飲み干す。ゴクゴク……甘ったるい味が喉を通る。傷が塞がっていく。ジンジンと痺れるような感覚。痛みが引く。
残り——14本。
「……はぁ」
息が漏れる。疲労が身体の奥底から湧き上がってくる。肩が重い。腕が重い。剣を握る手が、微かに震えている。
でも進むしかない。奥へ。深層へ。
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113階層。
通路を進む。足音が、いつもより遅い。身体が、言うことを聞かない。
そして——ミノタウロスが、3体。
体高3メートルの巨体。大斧と巨大な角。それが、3体同時。
「……っ」
厳しい。明らかに、厳しい。
ミノタウロスが突進してくる。3体が同時に地を蹴る。ドドドドド……地鳴りのような轟音。石畳が震える。空気が震える。
私は横へ跳んだ——でも、重力1.5倍。着地が遅れる。足が地面に吸い付くような感覚。1体目の大斧が迫る。避けきれない——剣で受け止める。ガキィィン!金属の悲鳴。火花が散る。衝撃が腕に響く。押される。足が地面を滑る。靴底が石を削る音。ガリガリと耳障りな音。
「……っ!」
歯を食いしばる。全身の力を込めて押し返す。筋肉が悲鳴を上げる。ミノタウロスがよろめく——その一瞬の隙を突いて足首を斬る。ザシュ——腱が断たれる音。ミノタウロスが倒れる。ドシン——地面が揺れる。首を狙って剣を振り下ろす。ザシュゥ——1体目、撃破。
でも2体目と3体目が同時に襲いかかってきた。大斧が二つ、左右から。挟み撃ち。避けきれない——私は地面に伏せた。身体を石畳に叩きつける。背中に衝撃。息が詰まる。大斧が頭上を通過する——ヒュォォ!風圧が髪を逆立てる。
すぐに起き上がる——でも、身体が重い。疲労で動きが鈍い。2体目の懐へ滑り込む。心臓を狙って剣を突き立てる。ザクッ——深々と。ズブッ——2体目、撃破。
3体目が角を突き出してくる。巨大な角。避ける——でも、完全には避けきれない。角が肩を掠める。ビリッ——革鎧が裂ける。肉が裂ける。熱い。痛い。血が噴き出す。
「……っ!」
痛みで視界が歪む。でも止まらない。剣を振るう。全力で。3体目の首を狙う——ザシュゥゥ!刃が首を断つ。3体目、撃破。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
息が荒い。心臓が激しく打っている。鼓動が耳に響く。ドクン、ドクン、ドクン……
肩が痛い。血が流れ続けている。革鎧が血に染まる。温かい。生温かい。
ポーチから治療薬を取り出す。2本。震える手で栓を抜く。一気に飲む。ゴクゴク、ゴクゴク……喉が鳴る。2本目も飲む。傷が塞がっていく。でも疲労は消えない。身体の重さは変わらない。
残り——12本。
「……きつい」
呟く。声が掠れている。喉が渇いている。身体が、悲鳴を上げている。筋肉が痙攣している。足が震えている。
でも奥に階段が見える。114階層への階段。
「……進むしかない」
呟いて、重い足を引きずるように階段へ向かう。
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114階層。
通路を進む。一歩、また一歩。足が鉛のように重い。息が苦しい。重力1.5倍が、今までで一番重く感じる。空気が重い。まるで水の中を歩いているような感覚。
そしてバジリスクが現れた。大蛇。体長8メートル。緑色の毒々しい鱗。そして——石化の目。
私は目を見ないように戦った。視線を足元に落とす。気配だけで動く。身体が覚えている。剣を振るう。首を狙う——ザシュゥ!一撃。撃破。
でも目が少し光った。黄色い光。視界の端に映った。身体が硬直する——足先が石になっていく感覚。じわじわと、冷たく。
治療薬を取り出す。震える手で。飲む。ゴクゴク……石化が解ける。足先の感覚が戻る。
残り——11本。
「……このままでは」
呟く。不安が胸を締め付ける。治療薬が——半分近くを使った。120階層まで——あと何階層ある?あと何回戦わなければならない?持つだろうか。
でも——
「……リオン」
名前を呟く。彼の顔が頭に浮かぶ。傷のある顔。優しい目。力強い声。
「お前の剣は特別だ」
「だから——自由だ」
その言葉が心に響く。温かく。力強く。
「……あなたに、会いたい」
呟く。声が震える。でもその想いが——私を支える。前へ。深層へ。真実へ。
「……生きていてほしい」
また呟く。
「……どこかで、生きていてほしい」
祈るように。
でも——答えはない。
ただ、静寂だけが——私を包む。
奥に階段が見える。115階層への階段。
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階段を下る。
長い階段だった。150段ほど。一段、また一段。足音が下方へ吸い込まれていく。カツン、カツン……その音が、遠く感じる。
身体が重い。疲労困憊。呼吸が苦しい。心臓が痛いほど激しく打っている。足が震えている。もう限界だ。でも——止まらない。止まれない。
下り続ける。一段、また一段。数を数える。50段、100段、150段——
階段の終わり。
115階層。
私は息を呑んだ。
広い。
桁違いに広い。100階層に似ている。地平線まで続くような広大な空間。天井は見えない。果てしない石畳が、どこまでも続いている。
でも——
光が違う。
100階層は青白い光だった。冷たく、静かな光。
でもここは——
赤い。
「……何だ、この光は」
呟く。声が、広い空間に吸い込まれる。
壁から赤い光が発せられている。血のような赤。不気味な赤。そしてそれが——脈動していた。
ドクン、ドクン……
まるで心臓のように。生き物のように。光が強く、弱く、を繰り返す。呼吸しているように。
重力1.5倍は相変わらず。でもこの光が——不安を掻き立てる。まるで何かが——私を見ているような。
私はその場に座り込んだ。もう限界だ。足が、もう動かない。
呼吸を整える。一つ、吸って。一つ、吐いて。心拍がゆっくりと落ち着いていく。でも完全には落ち着かない。ドクン、ドクン……まだ速い。
ポーチから治療薬を取り出す。残りを確認する。
11本。
半分近くを使った。このペースでは——120階層まで持たないかもしれない。いや、持たないだろう。
不安が胸を締め付ける。喉が渇く。手が震える。
でもリオンのことを思い出す。彼の顔。彼の声。
「お前の剣は特別だ」
「空虚の剣」
「だから——自由だ」
その言葉が心に深く響く。温かく、力強く。
「……リオン」
呟く。
「……あなたは今、どこに」
問いかける。答えはない。
「……生きているのか」
また問いかける。
「……それとも、もう——」
言葉が途切れる。死んだのか。もう会えないのか。
「……いや」
首を振る。考えたくない。でも可能性はある。300階層で別れた。それから——何があったのか。
「……必ず、真実を知る」
呟く。決意を新たにする。
「……そして、あなたに会う」
立ち上がる。足が震えていた。でも立てる。まだ立てる。
その時——
赤い光が強く脈動した。
「……っ?」
壁全体が赤く光る。激しく。ドクン、ドクン、ドクン!まるで心臓が暴走しているように。光が脈打つ。空間全体が震えているような感覚。
そして——
声が聞こえた気がした。
囁き。低い囁き。耳元で囁かれているような——でも、どこから聞こえるのかわからない。
「……深く……」
「……っ!」
私は剣を構えた。周囲を見渡す。でも誰もいない。モンスターもいない。ただ赤い光だけが脈動している。
「……もっと深く……」
また囁き。今度ははっきりと聞こえた。男の声。女の声。それとも——複数の声が重なっているような。
「……っ!」
剣を握る手に力を込める。全身に力を込める。でも——
声は止まった。
赤い光も元に戻る。ゆっくりと脈動する。ドクン、ドクン……穏やかに。
静寂が戻る。
「……何だった?」
呟く。幻聴か。疲労で頭がおかしくなったのか。それとも——この階層の何かか。
剣の囁き——なのか。
でも私の剣は沈黙している。空虚の剣。何も囁かない。
じゃああの声は何だったのか。
答えはわからない。
「……気のせいか」
そう結論づける。でも胸の奥に不安が残る。拭えない不安。
「……この階層は、何かがある」
呟く。確信めいたものがある。115階層。赤い光。脈動。囁き。何かが——ここにある。何かが——私を呼んでいる。
奥に階段が見える。116階層への階段。
「……行くか」
呟いて、階段へ向かう。足音が広い空間に響く。カツン、カツン……反響する。
赤い光が背中を照らす。不気味な光。血のような光。でも私は進む。前へ。深層へ。
「……120階層まで、あと少しだ」
呟く。
足音が階段に響く。カツン、カツン……下へ。さらに深く。真実へ——。リオンへ——。
赤い光が私を見送るように脈動していた。ドクン、ドクン……まるで生き物のように。まるで何かが——私を待っているように。




