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第32話 再潜行の準備



 窓から、朝日が差し込んでいた。


 目を覚ます。身体が重い。全身が鈍痛を訴えている。昨日の戦闘の疲労が、まだ残っていた。でも、動けないほどではない。


 ゆっくりと起き上がる。


 鏡に映る自分の姿を見た。髪は乱れ、顔には擦り傷が残っている。目の下に薄い隈ができていた。服は——昨日脱ぎ捨てたまま、床に転がっている。血と泥にまみれた布切れ。もう、使えない。


「……新しい装備が、必要だ」


 呟きながら、予備の服に着替える。簡素な白いシャツと黒いズボン。武器は空虚の剣だけ。腰に帯びると、少しだけ——心が落ち着いた。


 窓の外を見る。


 街は、もう動き始めていた。商人たちが店を開き、冒険者たちが行き交い、子供たちが路地を走っている。普通の、日常の光景。私がダンジョンで死闘を繰り広げている間も、この街は変わらず回り続けていた。


 深淵の入口が、遠くに見える。


 巨大な穴。世界の中心。すべてが、あそこから始まり、あそこへ還っていく。


「……行こう」


 部屋を出た。


-----


 街の武器屋は、いつもと変わらない佇まいだった。


 木造の古びた建物。看板には「鋼鉄の牙」と書かれている。ここには何度か来た。品揃えがよく、店主も腕が確かだと聞いている。


 扉を開けると、鉄の匂いが鼻をついた。


「……いらっしゃい」


 奥から、低い声が聞こえた。


 店主だ。50代ほどの男性。筋骨隆々とした体格に、無精髭。元冒険者だという噂を聞いたことがある。今は引退して、この店を営んでいるらしい。


「……装備を、見に来た」


「ああ」


 店主が、カウンターから顔を上げた。その目が、一瞬——私の顔を捉えて、少し驚いたような表情を見せた。


「……お前、確か——セリア、だったか」


「……ああ」


「100階層突破したって、噂で聞いたぞ」


 彼の声に、驚きの色が滲んでいた。


「本当なのか?」


「……ああ」


「……そうか」


 店主は、しばらく私を見つめていた。そして、小さく息をついた。


「俺も現役の頃、80階層が限界だった。100なんて、化け物の領域だ」


 彼の目が、私の腰に帯びられた剣に向けられる。


「その剣——空虚の剣か?」


「……ああ」


「……喋るのか?」


「……いや」


「……そうか」


 店主は、何か言いたげな表情をしたが、それ以上は何も言わなかった。ただ、黙って棚から防具を取り出し始めた。


「100階層を越えたなら、装備も見直した方がいい。重装備は動きづらいだろう。これはどうだ」


 差し出されたのは、黒い革でできた鎧だった。薄く、しなやかで、動きを妨げない。胸部と肩を守る最低限の防御。でも、軽い。


「……これを」


「ああ。それと、治療薬も持っていけ。100階層以降は、怪我が致命傷になる」


 彼は、小瓶を20本ほど並べた。赤い液体が入っている。傷を癒し、体力を回復させる薬だ。


「……ありがとう」


「礼はいい。金さえ払ってくれれば」


 彼は、そう言ったが——その目は、少し心配そうだった。


「なあ」


「……何だ」


「101階層から先は、別世界だと聞く。100階層で終わりじゃない。むしろ、そっからが本番だ」


 店主の声が、低く沈む。


「無理はするな。どれだけ強くても——死んだら、終わりだからな」


「……わかってる」


「……そうか」


 彼は、それ以上何も言わなかった。ただ、革鎧と治療薬を包んでくれた。代金を支払い、店を出る。


 背中に、彼の視線を感じた。


-----


 次に向かったのは、アビスだった。


 深淵管理機構——ギルドの本部。深淵の入口近くにそびえ立つ、巨大な石造りの建物。ここで冒険者たちの記録が管理され、ダンジョンへの出入りが統制されている。


 正面入口から入ると、広いホールが広がっていた。天井が高く、いくつもの受付カウンターが並んでいる。冒険者たちが行き交い、ギルド職員が忙しそうに対応している。


 奥には、帰還ポートがある。ダンジョンから戻ってきた冒険者たちが最初に現れる場所だ。昨日、私もそこから戻ってきた。


 受付に立つと、ミラがすぐに気づいた。


「セリアさん!」


 彼女が駆け寄ってくる。いつもの優しい笑顔。でも、今日は少し——安心したような表情をしていた。


「回復、されましたか?」


「……ああ」


「よかった……昨日は、本当に心配しました」


 彼女の手が、私の腕に触れる。その温もりが、心地よかった。


「100階層突破、正式に記録されました。おめでとうございます」


「……ありがとう」


 ミラは、端末を操作して、画面を見せてくれた。


 そこには、「100階層突破者リスト」と書かれていた。名前が、ずらりと並んでいる。その中に——私の名前があった。


**セリア・アッシュフォード 17歳 到達日:本日**


 他の名前を見る。ほとんどが、30代以上だ。最年少でも25歳。私が、圧倒的に若い。


「すごいですね……最年少記録です」


 ミラが、感嘆の声を上げた。


 でも、私には——あまり実感がなかった。ただ、進んだだけだ。身体が覚えていた道を、辿っただけ。


「セリア・アッシュフォード」


 背後から、声がかかった。


 振り返ると、見覚えのある男が立っていた。


 ガレス。Cランク冒険者。第28話で模擬戦をした相手だ。筋肉質な体格に、短く刈り込まれた髪。顔には、いくつもの傷跡がある。


「よくやったな」


 彼が、腕を組んで言った。


「100階層突破——本物だったってわけだ」


「……ああ」


「俺も、100階層には何度か行った。地獄だぞ、あそこは」


 彼の目が、真剣だった。


「お前、これから101階層に行くつもりだろ?」


「……ああ」


「なら、少し話させろ」


 ガレスは、私をホールの隅——人通りの少ない柱の陰へと連れて行った。


「101階層から先は、さらに厳しくなる」


 彼が、低い声で言った。


「Cランクのモンスターが主体だ。ミノタウロス、キメラ、バジリスク——どれも一筋縄じゃいかない。しかも、重力1.5倍はそのまま続く」


「……わかった」


「それに、転移石の効果が弱まる」


 その言葉に、私は少し驚いた。


「弱まる……?」


「ああ。100階層までは一瞬で帰れたが、101階層以降は時間がかかる。数分——場合によっては10分以上かかることもある。その間、無防備だ」


 それは、致命的だった。


 転移中に襲われたら——逃げられない。


「それと、単独行動は推奨されない。普通は、パーティを組む。でも——」


 ガレスは、私を見た。


「お前は一人で行くんだろ?」


「……ああ」


「そうか」


 彼は、ため息をついた。


「無茶するやつだ。でも——お前なら、大丈夫だろうな」


「……どうして、そう思う」


「直感だ」


 ガレスは、笑った。


「お前には、何かがある。他の冒険者とは違う——何かが」


 彼の言葉の意味が、わからなかった。でも、それ以上は聞かなかった。


「気をつけろよ、セリア。無理はするな」


「……ああ」


 ガレスは、軽く肩を叩いて、去っていった。


-----


 ミラのところへ戻ると、彼女が心配そうな顔をしていた。


「セリアさん、本当に一人で行かれるんですか?」


「……ああ」


「……そうですか」


 彼女は、何か言いたげだった。でも、それ以上は言わなかった。ただ、小さく——こう呟いた。


「アシュさん、最近見かけませんね」


 その名前に、私の胸が少し痛んだ。


「……修行中、だろうか」


「かもしれません。でも——」


 ミラの表情が、曇る。


「剣の囁きが強まっていたんですよね。大丈夫でしょうか……」


「……わからない」


 私にも、わからなかった。


 アシュは、優しい少年だ。でも、剣の声に引きずられやすい。それが——心配だった。


「……また、会えるだろう」


 そう言って、私はアビスを後にした。


-----


 夕暮れの街を、ゆっくりと歩いた。


 オレンジ色の光が、建物を染めている。商店が閉まり始め、灯りが灯る。人々が家路につき、笑い声が響く。温かい、日常の光景。


 私は、何のために深層を目指すのか。


 記憶を取り戻すため?


 仲間を探すため?


 それとも——ただ、前に進むため?


 答えは、出なかった。


 ただ、足が——深淵へと向かっている。それだけが、確かだった。


-----


 宿に戻り、部屋で剣を見つめた。


 空虚の剣。


 漆黒の刃。何も宿っていない剣。


 他の冒険者たちは、剣と対話している。前の持ち主の声を聞き、導かれている。でも、私には——それがない。


「……自由、か」


 リオンの言葉を、思い出す。


『お前の剣は特別だ。だから——自由だ』


 自由。


 導きがないということは、縛られていないということ。誰の意思にも、支配されていない。


 それが——私の強さなのかもしれない。


「……明日、また進もう」


 窓の外を見る。


 深淵の入口が、闇の中で口を開けていた。巨大な穴。底の見えない深淵。


 風が、深淵の匂いを運んできた。


 石と、血と、静寂の匂い。


 私を、待っている。


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