表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/38

第31話 境界の向こう側



 静寂が、私を包んでいた。


 100階層——混沌の戦場と呼ばれるこの場所で、ようやく剣を下ろした。周囲には、倒したモンスターたちの残骸が散らばっている。ゴブリン、ミノタウロス、ワイバーン、ケルベロス。数えきれないほどの死体が、青白い光の中で影を落としていた。


 呼吸が、荒い。


 心臓が、まだ激しく打っている。


 身体中が悲鳴を上げていた。筋肉が痙攣し、傷口がズキズキと痛む。まだ血が滲んでいる箇所もあった。治療薬は使い果たした。残っているのは、この身体だけだ。


「……限界、か」


 呟いた声が、この広大な空間に吸い込まれていく。


 100階層は、異質だった。天井が見えないほど高く、地平線のように広がる石畳。そして、あの青白い光。まるで別世界に迷い込んだような感覚がある。重力も1.5倍。身体が重い。一歩踏み出すたびに、地面に引きずり込まれそうになる。


 それでも——私の足は、止まらなかった。


 奥に、階段が見える。


 101階層へと続く、石造りの階段。苔むした表面が、長い年月を物語っている。誰かが刻んだ足跡が、うっすらと残っていた。何百人、何千人もの冒険者たちが、ここを通り過ぎていったのだろう。


 私も、かつてここを通ったはずだ。


 2年前。


 500階層まで——。


「……進むべきか」


 足が、一歩前に出る。でも、身体が拒絶した。筋肉が悲鳴を上げる。これ以上は、危険だ。理性がそう告げている。


 でも、心が——何かを求めていた。


 リオンの声が、頭の中で響く。


『俺たちがいる。一人じゃない』


 温かい声だった。力強く、優しい声。あの声を聞いた時、私は——安心したのだと思う。一人じゃない。仲間がいる。その言葉が、どれほど心を満たしてくれたか。


 でも、今は一人だ。


 周りには、誰もいない。


 ただ、モンスターの死骸と、青白い光だけ。


「……少しだけ」


 私は、階段へと歩き始めた。


 一段、また一段。重力が身体を引き下ろそうとする。足が重い。でも、止まれなかった。何かが、私を引き寄せている。記憶か、本能か——わからない。


 階段は、緩やかに下へと続いていた。


 50段ほど下ったところで、私は立ち止まった。これ以上は無理だ。身体が、完全に限界を迎えている。視界が少しずつ霞んできた。


「……ここで、休もう」


 階段の途中、壁に背を預けて座り込む。冷たい石の感触が、火照った身体に心地よかった。空虚の剣を膝の上に置き、目を閉じる。


 呼吸を整える。


 一つ、吸って。


 一つ、吐いて。


 心拍が、ゆっくりと落ち着いていく。


 そして——記憶が、浮かんできた。


 まるで水面に落ちる雫のように、ゆっくりと、揺らぎながら。


-----


 それは、鮮明なヴィジョンだった。


 100階層。


 同じ場所。同じ青白い光。


 でも、私は——一人じゃなかった。


『……ここが、100階層か』


 リオンの声。低く、驚嘆に満ちた声。彼が隣にいる。大剣を背負い、傷だらけの顔で、この異様な光景を見つめていた。


『ここが境界か……』


 別の声が聞こえた。


 男性の声。若い。20代前半だろうか。落ち着いた、知的な響き。でも、顔は——見えない。霧がかかったように、輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。


『思っていたより、広いですね』


 また別の声。女性だ。柔らかく、穏やかな声。彼女の姿も、霞んでいる。ただ、声だけが、確かに響いていた。


『で、でも……すごい……』


 最後の声は、若い男性。少し震えている。緊張しているのか、興奮しているのか——判別がつかない。


 4人。


 リオンと、私と、あと3人。


 5人で、ここに立っていた。


『ここからが本番だ』


 リオンが言った。彼の大きな手が、私の肩に置かれる。温かい。力強い。


『お前の剣は特別だ、セリア。だから——』


 そこで、記憶が途切れた。


-----


 目を開ける。


 また、一人だった。


 青白い光が、変わらずそこにある。モンスターの死骸も、階段も、すべてそのまま。でも、仲間は——いない。


「……っ」


 胸が、締め付けられる。


 一人じゃなかった。確かに、一緒にいた。5人で、ここを越えた。笑い、驚き、励まし合いながら——。


 なぜ、別れたのか。


 なぜ、私だけが500階層へ行ったのか。


 答えは、まだ見えない。


「……帰ろう」


 立ち上がる。足が、少し震えていた。体力的な限界ももちろんあるが、それだけではない。心が、揺れている。


 記憶が戻るたびに、孤独が増していく。


 矛盾しているようだけれど——それが、事実だった。


 階段を上り、100階層の中央へと戻る。懐から、転移石を取り出した。深層用の転移石。10銀貨と引き換えに手に入れたものだ。


 石を握りしめる。


「地上へ」


 呟いた瞬間、光が私を包んだ。


-----


 世界が、切り替わる。


 青白い光から、オレンジ色の灯りへ。重力1.5倍の世界から、普通の世界へ。静寂から、人々の喧騒へ。


 アビスの帰還ポート。


 ここは、ダンジョンから戻ってきた冒険者たちが最初に立つ場所だ。広いホールには、何人もの冒険者が行き交っている。ギルド職員が受付をし、医療班が怪我人を手当てしている。


 私が姿を現すと、周囲の視線が集中した。


 服はボロボロで、血に染まっている。髪も乱れ、顔には泥と返り血がこびりついていた。満身創痍——そんな言葉が、ぴったりだった。


「セリアさん!」


 聞き慣れた声が、響いた。


 ミラだった。


 茶色のセミロングを揺らしながら、彼女が駆け寄ってくる。いつもの優しい表情が、今は心配と安堵で歪んでいた。


「無事で……よかった」


 彼女の手が、私の腕に触れる。温かい。人の温もり。それだけで、少し——心が和らいだ。


「……ああ」


 短く答える。


 ミラは、私の全身を確認するように見回した。そして、ギルドカードを差し出す。


「活動履歴、確認させてください」


「……わかった」


 カードを手渡す。


 ミラが魔道具にかざすと、画面に文字が浮かび上がった。彼女の目が、大きく見開かれる。


「100階層……突破、したんですね」


 彼女の声が、震えていた。


「……ああ」


「100階層……」


 ミラは、しばらく画面を見つめていた。その表情は、複雑だった。驚き、感動、そして——少しの悲しみ。


「兄もここを越えて、150階層まで行ったんです」


 静かに、彼女が呟く。


「兄は、よく言っていました。100階層は『世界が変わる場所』だって。ルールが変わる。常識が通じなくなる。だから、本当の冒険者だけが越えられる——」


 彼女の目が、潤んでいた。


「セリアさんは、越えたんですね」


「……運が、良かっただけだ」


 私は、そう答えた。


 でも、ミラは首を横に振った。


「運だけじゃ、無理です。私、知ってます。100階層で引き返した冒険者を、何人も見てきました。みんな、命からがら逃げ帰ってきた。それでも——セリアさんは、越えた」


 彼女の手が、私の手を握る。


「すごい、です」


 その言葉が、胸に染みた。


 ありがとう——そう言いたかったけれど、声が出なかった。ただ、小さく頷くことしかできなかった。


-----


 宿に戻った時には、もう夜だった。


 部屋に入り、ベッドに倒れ込む。全身が、鉛のように重い。シャワーも浴びずに、そのまま横になった。


 天井を、ぼんやりと眺める。


 リオンの声が、また聞こえる気がした。


『俺たちがいる』


 でも、いない。


 もう、誰もいない。


 リオンの顔が、思い出せない。声と言葉だけが、記憶の中に残っている。他の3人も同じだ。声は聞こえるのに、姿が見えない。名前も、わからない。


「……また、会えるだろうか」


 呟いた言葉が、静かな部屋に溶けていく。


 答えは、ない。


 ただ、眠気が——少しずつ、私を包んでいった。


 目を閉じる。


 暗闇の中で、また——記憶の断片が、揺らいでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ