第31話 境界の向こう側
静寂が、私を包んでいた。
100階層——混沌の戦場と呼ばれるこの場所で、ようやく剣を下ろした。周囲には、倒したモンスターたちの残骸が散らばっている。ゴブリン、ミノタウロス、ワイバーン、ケルベロス。数えきれないほどの死体が、青白い光の中で影を落としていた。
呼吸が、荒い。
心臓が、まだ激しく打っている。
身体中が悲鳴を上げていた。筋肉が痙攣し、傷口がズキズキと痛む。まだ血が滲んでいる箇所もあった。治療薬は使い果たした。残っているのは、この身体だけだ。
「……限界、か」
呟いた声が、この広大な空間に吸い込まれていく。
100階層は、異質だった。天井が見えないほど高く、地平線のように広がる石畳。そして、あの青白い光。まるで別世界に迷い込んだような感覚がある。重力も1.5倍。身体が重い。一歩踏み出すたびに、地面に引きずり込まれそうになる。
それでも——私の足は、止まらなかった。
奥に、階段が見える。
101階層へと続く、石造りの階段。苔むした表面が、長い年月を物語っている。誰かが刻んだ足跡が、うっすらと残っていた。何百人、何千人もの冒険者たちが、ここを通り過ぎていったのだろう。
私も、かつてここを通ったはずだ。
2年前。
500階層まで——。
「……進むべきか」
足が、一歩前に出る。でも、身体が拒絶した。筋肉が悲鳴を上げる。これ以上は、危険だ。理性がそう告げている。
でも、心が——何かを求めていた。
リオンの声が、頭の中で響く。
『俺たちがいる。一人じゃない』
温かい声だった。力強く、優しい声。あの声を聞いた時、私は——安心したのだと思う。一人じゃない。仲間がいる。その言葉が、どれほど心を満たしてくれたか。
でも、今は一人だ。
周りには、誰もいない。
ただ、モンスターの死骸と、青白い光だけ。
「……少しだけ」
私は、階段へと歩き始めた。
一段、また一段。重力が身体を引き下ろそうとする。足が重い。でも、止まれなかった。何かが、私を引き寄せている。記憶か、本能か——わからない。
階段は、緩やかに下へと続いていた。
50段ほど下ったところで、私は立ち止まった。これ以上は無理だ。身体が、完全に限界を迎えている。視界が少しずつ霞んできた。
「……ここで、休もう」
階段の途中、壁に背を預けて座り込む。冷たい石の感触が、火照った身体に心地よかった。空虚の剣を膝の上に置き、目を閉じる。
呼吸を整える。
一つ、吸って。
一つ、吐いて。
心拍が、ゆっくりと落ち着いていく。
そして——記憶が、浮かんできた。
まるで水面に落ちる雫のように、ゆっくりと、揺らぎながら。
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それは、鮮明なヴィジョンだった。
100階層。
同じ場所。同じ青白い光。
でも、私は——一人じゃなかった。
『……ここが、100階層か』
リオンの声。低く、驚嘆に満ちた声。彼が隣にいる。大剣を背負い、傷だらけの顔で、この異様な光景を見つめていた。
『ここが境界か……』
別の声が聞こえた。
男性の声。若い。20代前半だろうか。落ち着いた、知的な響き。でも、顔は——見えない。霧がかかったように、輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。
『思っていたより、広いですね』
また別の声。女性だ。柔らかく、穏やかな声。彼女の姿も、霞んでいる。ただ、声だけが、確かに響いていた。
『で、でも……すごい……』
最後の声は、若い男性。少し震えている。緊張しているのか、興奮しているのか——判別がつかない。
4人。
リオンと、私と、あと3人。
5人で、ここに立っていた。
『ここからが本番だ』
リオンが言った。彼の大きな手が、私の肩に置かれる。温かい。力強い。
『お前の剣は特別だ、セリア。だから——』
そこで、記憶が途切れた。
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目を開ける。
また、一人だった。
青白い光が、変わらずそこにある。モンスターの死骸も、階段も、すべてそのまま。でも、仲間は——いない。
「……っ」
胸が、締め付けられる。
一人じゃなかった。確かに、一緒にいた。5人で、ここを越えた。笑い、驚き、励まし合いながら——。
なぜ、別れたのか。
なぜ、私だけが500階層へ行ったのか。
答えは、まだ見えない。
「……帰ろう」
立ち上がる。足が、少し震えていた。体力的な限界ももちろんあるが、それだけではない。心が、揺れている。
記憶が戻るたびに、孤独が増していく。
矛盾しているようだけれど——それが、事実だった。
階段を上り、100階層の中央へと戻る。懐から、転移石を取り出した。深層用の転移石。10銀貨と引き換えに手に入れたものだ。
石を握りしめる。
「地上へ」
呟いた瞬間、光が私を包んだ。
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世界が、切り替わる。
青白い光から、オレンジ色の灯りへ。重力1.5倍の世界から、普通の世界へ。静寂から、人々の喧騒へ。
アビスの帰還ポート。
ここは、ダンジョンから戻ってきた冒険者たちが最初に立つ場所だ。広いホールには、何人もの冒険者が行き交っている。ギルド職員が受付をし、医療班が怪我人を手当てしている。
私が姿を現すと、周囲の視線が集中した。
服はボロボロで、血に染まっている。髪も乱れ、顔には泥と返り血がこびりついていた。満身創痍——そんな言葉が、ぴったりだった。
「セリアさん!」
聞き慣れた声が、響いた。
ミラだった。
茶色のセミロングを揺らしながら、彼女が駆け寄ってくる。いつもの優しい表情が、今は心配と安堵で歪んでいた。
「無事で……よかった」
彼女の手が、私の腕に触れる。温かい。人の温もり。それだけで、少し——心が和らいだ。
「……ああ」
短く答える。
ミラは、私の全身を確認するように見回した。そして、ギルドカードを差し出す。
「活動履歴、確認させてください」
「……わかった」
カードを手渡す。
ミラが魔道具にかざすと、画面に文字が浮かび上がった。彼女の目が、大きく見開かれる。
「100階層……突破、したんですね」
彼女の声が、震えていた。
「……ああ」
「100階層……」
ミラは、しばらく画面を見つめていた。その表情は、複雑だった。驚き、感動、そして——少しの悲しみ。
「兄もここを越えて、150階層まで行ったんです」
静かに、彼女が呟く。
「兄は、よく言っていました。100階層は『世界が変わる場所』だって。ルールが変わる。常識が通じなくなる。だから、本当の冒険者だけが越えられる——」
彼女の目が、潤んでいた。
「セリアさんは、越えたんですね」
「……運が、良かっただけだ」
私は、そう答えた。
でも、ミラは首を横に振った。
「運だけじゃ、無理です。私、知ってます。100階層で引き返した冒険者を、何人も見てきました。みんな、命からがら逃げ帰ってきた。それでも——セリアさんは、越えた」
彼女の手が、私の手を握る。
「すごい、です」
その言葉が、胸に染みた。
ありがとう——そう言いたかったけれど、声が出なかった。ただ、小さく頷くことしかできなかった。
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宿に戻った時には、もう夜だった。
部屋に入り、ベッドに倒れ込む。全身が、鉛のように重い。シャワーも浴びずに、そのまま横になった。
天井を、ぼんやりと眺める。
リオンの声が、また聞こえる気がした。
『俺たちがいる』
でも、いない。
もう、誰もいない。
リオンの顔が、思い出せない。声と言葉だけが、記憶の中に残っている。他の3人も同じだ。声は聞こえるのに、姿が見えない。名前も、わからない。
「……また、会えるだろうか」
呟いた言葉が、静かな部屋に溶けていく。
答えは、ない。
ただ、眠気が——少しずつ、私を包んでいった。
目を閉じる。
暗闇の中で、また——記憶の断片が、揺らいでいた。




