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第30話 100階層――第一境界



夜明け前、私は目を覚ました。


窓の外は、まだ暗い。街に点在する松明の灯りだけが、闇の中で低く息をするように揺れている。


今日——


100階層へ行く。


私は身体を起こし、装備を確認した。剣を鞘から抜く。刃が月光を捉え、青白く光る。漆黒の刃。何も映さない、空虚な剣。


刃を指で撫でる。冷たい金属の感触。


「……行くぞ」


呟き、剣を鞘に収めた。鞘が小さく鳴る。


-----


早朝のギルドは、まだ人が少なかった。


足音が石の床に響く。靴底が石を叩くたび、空間に音が広がっていく。


受付カウンターに立つ女性は、いつもの受付嬢ではない。夜勤の職員だろう。眠そうな目をこすりながら、私を見た。


「転移石を」


「どちらへ?」


「90階層」


彼女は少し目を覚ました様子で、私を見つめた。息を呑む音が、静かに聞こえた。


「……セリアさん、ですね」


「ああ」


「100階層へ?」


「……そのつもりだ」


彼女は、何か言いたそうな表情をした。


でも——何も言わなかった。


ただ、転移石を差し出し——


「お気をつけて」


そう言った。声が、少し震えていた。


私は転移石を受け取り、ダンジョンへ向かった。


-----


90階層の帰還ポイント。


石造りの広間。松明の明かりが、壁に影を落としている。炎が呼吸をするように揺らめく。パチ、パチと小さく音を立てる。


私は、そこで深く息を吸った。


100階層。


第一境界。


何が待っているのか——


わからない。


でも——


進むしかない。


私は剣を抜いた。刃が空気を切る。研ぎ澄まされた刃。一片の曇りもない。光が刃を滑り、消える。


「……行くぞ」


呟き、階段へ向かった。


足音が、石の階段に響く。一歩、また一歩。音が深淵へ吸い込まれていく。


-----


99階層から100階層へ続く階段。


それは——異様に長かった。


一段、また一段。


下りるほどに、空気が変わっていく。


濃密に。


重く。


まるで水の中へ潜っていくような感覚。音が遠くなる。世界が、静かに沈んでいく。


呼吸が、苦しくなる。


耳鳴りがする。キィーンと高い音が、頭の中で響く。


身体が——重い。


重力が、増している。


一歩ごとに、圧力がかかる。足音が鈍く、重く響く。


「……っ」


足が、鉛のように重い。


でも——止まらない。


進む。


一段、また一段。


靴底が石を叩く音。呼吸の音。心臓の鼓動。


それだけが、世界に存在する音だった。


どれだけ下りたのか。


時間の感覚が、狂う。


10分か。


30分か。


わからない。


ただ——


下り続ける。


空気が淡く震え、記憶が目を覚ます——ような感覚。


そして——


ついに——


階段が、終わった。


目の前に——


巨大な門があった。


石造りの、古びた門。高さ10メートルはある。門には古代文字が刻まれている。読めない。でも——何となく、わかる。


「境界」


そう——書いてある気がした。


私は、門を押した。


重い。


全身の力を込めて、押す。


ゴゴゴ……と低い音が響く。地面が低く唸る。


ゆっくりと——門が、開いた。


金属が軋む。ギィィと長く、耳障りな音。


そして——


光が、溢れ出した。


青白い、冷たい光。


私は——


一歩、踏み出した。


靴底が石を踏む。カツン——と音が響き、そして——


消えた。


音が、空間に飲み込まれた。


100階層へ——


-----


息を——


呑んだ。


広い。


桁違いに、広い。


世界が音を忘れていた。


これまでの階層とは——次元が、違う。


天井は——見えない。遥か上方にあるはずだが、青白い光に霞んで見えない。


壁も——ない。


地平線まで続いているような、果てしない空間。


まるで——


地下世界。


いや——


別世界だ。


光源が、わからない。


松明は持っているが——それ以上に、空間全体が青白く光っている。光が、呼吸のように揺れていた。


月明かり。


そう——


満月の夜のような、冷たい光。


幻想的で——


不気味だ。


一歩、踏み出す。


足音が——響かない。


「……っ」


重い。


身体に、圧力がかかる。


重力が——1.5倍になっている。


呼吸が、苦しい。空気が、喉を通るたびにゴロゴロと音を立てる。


でも——


動ける。


慣れなければ。


静寂——ではない。


遠くから、音が聞こえる。


咆哮。雲の奥で光が低く鳴るような、遠い音。


叫び声。


地を揺らす、足音。ドン、ドンと大地が震える。


戦いの音。


無数の——


モンスターの、気配。


そして——


私は、目を疑った。


地平線の彼方まで——


無数のモンスターがいた。


ゴブリン。


オーク。


トロール。


ミノタウロス。


そして——


空を飛ぶ、ワイバーン。翼が風を切る音が、遠くから聞こえる。


低層のモンスターと、高ランクのモンスターが——


混在している。


戦っている。


食い合っている。


まるで——


混沌だ。


「……これが」


呟く。


「100階層か」


声が、空間に吸い込まれて消える。


-----


気づかれた。


ゴブリンの群れが——こちらを見た。


甲高い鳴き声。キィキィと耳障りな音。


20体以上。


そして——


オークが5体。低く唸る声。ゴロゴロと喉を鳴らす。


さらに後方に、トロールが2体。ドシン、ドシンと地面を踏みしめる音。


合計、30体近い。


「……来るか」


私は、剣を構えた。


刃が空気を震わせる。


そして——


走った。


足音が地面を叩く。一歩ごとに、重力に逆らう。


一瞬で、ゴブリン3体の首を刎ねる。


シュッ——


刃が空気を裂く。


振り返り様に、さらに4体。


血が舞う。ザシュ、ザシュと肉を裂く音。


オークが斧を振り下ろしてくる。風圧が肌を切り裂く。


避けて——首を斬る。


ドサッと巨体が倒れる。地面が揺れる。


もう一体のオーク。


胸を貫く。


ザクッ——


剣が肋骨を砕く音。


トロールが拳を振るう。空気が裂けたような感覚が走る。


躱して——膝を斬る。


崩れ落ちたトロールの首を、落とす。


ズシャッ——


頭部が地面に転がる。


動きは——止まらない。


ゴブリンが群がってくる。


剣を振るう。


一閃。


シュバッ——


5体が倒れる。


また振るう。


また倒れる。


10秒——


30体近いモンスターが——


全て、倒れた。


世界が息を止めた。


「……はぁ」


息が、少し上がる。呼吸だけが、確かな存在だった。


重力のせいだ。


でも——


まだ動ける。


遠くから——


地響き。


ドドドドド……


大地が震える。


ミノタウロスの群れが、こちらへ突進してくる。


5体。


Cランクモンスターが、5体同時。


蹄が地面を叩く。ドン、ドン、ドン——


「……上等だ」


私は、構えた。


一体目が、突進してくる。


鼻息が荒い。フゴォッと熱い息。


タイミングを計り——


横へ跳ぶ。


振り返り様に、首を斬る。


ザン——


刃が首を断つ。


巨体が崩れ落ちる。ズシン——地面が揺れる。


二体目、三体目が同時に襲いかかる。


剣を振るう。


一体の角を斬り落とし——ガキィン、金属音——もう一体の胸を貫く。


ザシュッ——


四体目が、背後から。


足音が近づく。


「っ!」


振り向き——


剣で受け止める。


ガギィィィン——


鋼が火花を散らすように軋む。


力と力のぶつかり合い。


重力で、押し負けそうになる。


でも——


「……負けるか!」


全身の力を込めて、押し返す。


力がぶつかり、地がたわむ。


ミノタウロスがよろめく。


その隙に、首を刎ねる。


ザシャッ——


五体目——


最後の一体が、遠くから突進してくる。


地響きが近づく。ドドドド……


私は——


走った。


迎撃。


正面衝突。


すれ違いざまに——


剣を振るう。


シュバァッ——


空気が裂ける。


ミノタウロスの胴が、横一文字に裂ける。


ザシュゥゥ——


崩れ落ちる。


ドシャァァ——


「……っ、はぁ、はぁ」


呼吸が、荒い。ゼェ、ゼェと喉が鳴る。


汗が、全身を濡らしている。滴が地面に落ちる。ポタ、ポタと音を立てる。


疲労が——溜まってきた。


でも——


「……まだだ」


気配。


また——来る。


空から——


影が降りてくる。


風を切る音。ヒュゥゥゥ……


巨大な翼。


ワイバーン。


Bランクモンスター。


翼が空気を叩く。バサッ、バサッと重い音。


そして——


地上には——


三つ首の獣。


ケルベロス。


これも、Bランク。


三つの喉が低く唸る。ゴロゴロゴロ……


同時に——2体。


「……本気で、行くぞ」


呟く。


声が震える。


もう——余裕はない。


全力で、戦う。


-----


ワイバーンが、急降下してくる。


風を切る音。ヒュゥゥゥゥン——


風圧が肌を叩く。


ケルベロスが、三つの口から炎を吐く。


ゴォォォッ——


熱波が押し寄せる。熱が、空気を歪ませた。


私は——


ケルベロスへ向かって走った。


炎を躱す。


熱気が、頬を焦がす。ジリジリと肌が焼ける。


懐に潜り込む。


中央の首へ——


剣を突き立てる。


深く。


一気に。


ザシュッ——


心臓を、貫く。


ケルベロスが——絶命する。


グルル……と喉が鳴り、止まる。


その瞬間——


背後から気配。風が渦を巻く。


ワイバーンだ。


爪が——私を掴もうとする。


「っ!」


転がって避ける。


地面を転がる。ゴロゴロと身体が転がる音。


立ち上がる。


ワイバーンが通り過ぎる。ヒュォォォ——


すぐに旋回して、戻ってくる。翼が風を切る。


今度は——炎を吐く。


ゴォォォッ——


避ける。


地面が焼ける。ジュゥゥゥ——


熱が、肌を刺す。


ワイバーンが、また急降下してくる。


爪が、光を反射する。


風圧が、髪を逆立てる。


「……今だ!」


私は——跳躍した。


足が地面を蹴る。ダンッ——


空気が裂ける。


ワイバーンの背中に、飛び乗る。


翼を掴む。鱗が手に食い込む。


首の付け根へ——


剣を突き刺す。


ザクッ——


深く。


さらに深く。


ズブッ——


ワイバーンが、悲鳴を上げる。


ギャアアアアッ——


金属の悲鳴が、夜を貫く。


制御を失い——


墜落する。


風が逆流する。ゴォォォ——


地面に激突。


ドガァァァン——


轟音。


崩れた石片が、時間を刻むように転がる。カラカラカラ……


私は転がり落ち——


何とか、着地した。


「……っ」


膝をつく。


限界だ。


全身が、痛い。


呼吸が、荒い。ゼェ、ゼェ、ゼェ……


でも——


勝った。


ようやく——


静寂が、戻った。


沈黙が、声よりも雄弁に語る。


周囲に、モンスターの気配はない。


私は、その場に座り込んだ。


「……これが」


呟く。


「100階層か」


低ランクから高ランクまで——


無秩序に、出現する。


混沌の、戦場。


これが——


第一境界の、脅威。


-----


その時——


頭に、激痛が走った。


「っ!」


視界が——歪む。


世界が揺れる。


記憶が——


蘇ってくる。


記憶が、まるで水面に落ちるように揺らぐ。


同じ場所。


100階層。


青白い光。


でも——


私は、一人ではなかった。


「セリア、すごいな」


声が聞こえた。


力強い、男の声。


振り返ると——


男がいた。


30代。黒髪。顔に傷がある。筋骨隆々とした身体。背中に大剣を背負っている。


「……リオン」


名前が、自然に出た。


音ではなく、意味だけが響いた。


「ああ。100階層、突破したな」


リオンは笑った。


豪快に、嬉しそうに。


「混沌の戦場——なんて呼ばれてるらしいぞ、ここ」


「……混沌?」


「全ランクのモンスターが出る。ダンジョンのルールが、ここで変わるんだ」


リオンは周囲を見回した。


「でも、お前ならな」


「……」


「セリア、お前の剣は特別だ」


リオンが、私の剣を見た。


「何も囁かない」


「……ああ」


「だから、お前は自由だ」


リオンは、優しく微笑んだ。


「俺の剣は、いつも囁く。『もっと強く』『もっと深く』ってな」


彼は自分の大剣を見た。


「正直——うるさい時もある」


少し、苦笑した。


「でも、お前の剣は黙ってる」


「……」


「だから——孤独なんだろうな」


リオンの表情が、曇った。


「剣に導かれることもない」


「剣に励まされることもない」


「全部、自分で決めなきゃいけない」


「……」


私は、何も言えなかった。


リオンは——


私の肩に、手を置いた。


大きく、温かい手。


「大丈夫だ」


力強く。


「俺たちがいる」


「一人じゃない」


その言葉が——


温かかった。


胸の奥が、静かに脈打つ。


「……ありがとう、リオン」


私は——


そう言った気がする。


リオンは、また笑った。


「さあ、行くぞ」


「まだ400階層もある」


「先は長いぜ」


そう言って——


リオンは歩き出した。


足音が、確かに響いた。


私も——


後に続いた。


一人じゃない。


そう——


信じていた。


視界が——白く染まる。


光が消える瞬間、音もまた消えた。


記憶が——途切れた。


「……っ」


私は、現実に戻った。


100階層。


倒れたモンスターの遺体。


静寂。


風さえも、この場所を避けている。


そして——


孤独。


「……リオン」


呟く。


仲間の、名前。


一人——思い出した。


力強く、優しかった男。


でも——


他の三人は、まだ。


そして——


なぜ、別れたのか。


300階層で、何があったのか。


それも——


まだ、わからない。


-----


私は、立ち上がった。


関節が軋む。ギシッ……


素材を採取する。


ワイバーン、ケルベロス、ミノタウロス——


ポーチに詰め込む。ガサガサと布が擦れる音。


そして——


「……戻ろう」


呟く。


声が、空間に消える。


今日は、限界だ。


100階層を——


突破した。


それで、十分だ。


私は90階層の帰還ポイントへ戻り、転移石を砕いた。


パキン——


青白い光に包まれる。


地上へ——


第一境界。


100階層。


混沌の戦場。


ここから先が——


本当の、ダンジョンだ。


次は——120階層。


そして——


真実へ。


リオン。


他の三人。


300階層。


500階層。


すべての答えが——


深層にある。


私は、目を閉じた。


「……待ってろ」


小さく、呟いた。


必ず——


思い出す。


そして——


真実に、辿り着く。



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