第2話 500階層の記録
一睡もできなかった。
宿舎のベッドに横たわり、天井を見つめ続けた。昨夜のビジョンが頭から離れない。10万本の剣。暗闇に突き立てられた、無数の墓標。そして、あの囁き。
――あと7人。
誰が、何を数えているのか。私は何を見たのか。
夜明けの光が窓から差し込む頃、私はようやく身体を起こした。鏡に映る自分の顔を見る。青白い肌。感情の薄い瞳。見覚えのない顔だ。
セリア・アッシュフォード。
ギルドカードに刻まれた名前。ミラはそれが私の名だと言った。だが、本当にそうなのだろうか。この名前を呼ばれても、心が反応しない。まるで他人の名前を聞いているようだ。
……考えても仕方ない。
私は顔を洗い、昨日と同じ黒いコートを羽織った。今日はギルドカードの正式な再発行手続きがある。ミラがそう言っていた。
本物と判断されたカードを、なぜ再発行するのか。その理由は聞いていない。
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アビスオーダー本部の受付ホールは、想像以上に広大だった。
大理石の床が朝日を反射して輝いている。天井は見上げるほど高く、巨大なシャンデリアが吊るされていた。ホールには既に多くの冒険者たちがいる。剣を腰に下げ、革鎧を身につけた者たち。彼らは受付窓口に並び、依頼書を確認し、仲間と談笑している。
ミラが私を窓口へと案内する。
「セリアさん、こちらです」
柔らかな声。昨日と変わらない、優しい笑顔。だが、その笑顔の奥に少しだけ不安が見える。私のことを心配しているのだろう。
窓口へ向かう途中、周囲の視線を感じた。
冒険者たちが、私を見ている。好奇の目。疑いの目。そして――嘲笑。
「……あれが、例の」
「500階層から帰ってきたって? 嘘だろ」
「どうせ詐欺師だよ。ギルドカードを偽造したんだ」
ひそひそと交わされる囁き。私は無視した。感情が湧かない。怒りも、悲しみも。ただ淡々と、足を進める。
ミラが申し訳なさそうに振り返る。
「すみません……噂が、広まってしまって」
「構わない」
私は短く答えた。
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ギルドカード発行室は、ホールの奥にあった。
扉を開けると、魔導具が並ぶ部屋が現れる。壁には複雑な魔法陣が刻まれ、中央には水晶のような球体が浮かんでいた。部屋の奥には机があり、一人の男が座っている。
「失礼します。ギルドカード再発行の件で」
ミラが声をかけると、男が顔を上げた。
30代ほどの男。短く刈り込まれた髪、几帳面そうな顔立ち。眼鏡の奥の瞳が、私を値踏みするように見る。
「ああ、例の……セリア・アッシュフォードさんですね。私は発行担当官のルーカスです」
彼は立ち上がり、淡々とした口調で続けた。
「手続きを始めます。まず、現在お持ちのギルドカードを提出してください」
私はコートのポケットから、黒いカードを取り出した。ルーカスがそれを受け取り、魔導具にかざす。すると、カードが微かに光を放った。
「……なるほど。確かに本物ですね。魂の紋章が刻まれている」
ルーカスは眉をひそめた。
「ですが、念のため再発行します。記録の精度を上げるため、より詳細なデータを取得する必要があるので」
彼は私に椅子を勧めた。私が座ると、ルーカスは中央の水晶球を操作し始める。
「では、基本情報の登録から。名前はセリア・アッシュフォード。年齢は17歳。剣の適性は……」
彼が私の剣を見る。腰に下げた、漆黒の剣。
「空虚の剣、ですね」
「ああ」
私は頷いた。ルーカスは何も言わず、水晶球に手をかざす。すると、球体が淡い光を放ち始めた。
「それでは、記録の読み取りを開始します。少し時間がかかりますが、動かないでください」
光が強くなる。私の全身を包み込むような、暖かい光。
そして――。
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突然、水晶球が激しく明滅した。
ルーカスの表情が凍りつく。
「何……これは……」
光が溢れ出す。部屋全体が眩い光に包まれた。魔法陣が脈打つように光り、水晶球が悲鳴のような音を立てる。
ミラが驚いて声を上げる。
「ルーカスさん、何が!」
「わかりません! 記録が……異常です!」
ルーカスが慌てて水晶球を操作する。やがて光が収まり、部屋に静寂が戻った。彼の手には、新しいギルドカードが握られていた。
黒いカード。
ルーカスはそれを見つめ、息を呑んだ。
「これは……前例がない……」
彼がカードを私に見せる。そこには、信じられない情報が刻まれていた。
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**ギルドカード**
**氏名**:セリア・アッシュフォード
**年齢**:17歳
**剣の名**:空虚
**適性ランク**:測定不能
**最深到達階層**:500階層
**討伐記録**:エラー
**滞在日数**:エラー
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沈黙。
ルーカスが呆然とカードを見つめている。ミラも言葉を失っている。
私は淡々とカードを受け取った。黒い表面。そこに刻まれた「500」という数字が、不吉に光っている。
「……エラー?」
私が呟くと、ルーカスが震える声で答えた。
「討伐記録と滞在日数が、読み取れないんです。こんなこと、初めてだ……」
彼は額の汗を拭い、深呼吸をした。
「それに、適性ランクが測定不能。これも異常です。通常、どんな剣でもランクは測定できる。E、D、C……最高でもS。だが、あなたの剣は……測定の範囲外だ」
彼は私を見た。疑念と恐怖が混ざった目。
「本当に、500階層へ行ったんですか?」
「……わからない」
私は答えた。
「記憶がない。ただ、目覚めたら地上にいた」
ルーカスは何も言わず、部屋の奥の通信機に手を伸ばした。
「上層部に報告します。少々お待ちを」
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数分後。
扉が開き、見慣れた人物が入ってきた。
オルドヴィン。
昨日、私を検査した厳格な老人。彼は部屋に入るなり、鋭い視線を私に向けた。
「セリア・アッシュフォード。話を聞いた」
彼はルーカスからギルドカードを受け取り、じっくりと見つめる。
「500階層。討伐記録エラー。滞在日数エラー……」
彼は私を見た。
「君は本当に、500階層へ行ったのか?」
「……記憶がありません」
「記憶がない、か」
オルドヴィンは鼻を鳴らした。
「だが、記録は嘘をつかない。このカードは君の魂と紐付けられている。偽造は不可能だ」
彼はカードを私に返した。
「正式に発行する。だが、君は監視対象だ。定期的に報告を求める。いいな?」
「……わかりました」
私は頷いた。オルドヴィンは何も言わず、部屋を出て行った。
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ホールへ戻ると、周囲の視線が一層冷たくなっていた。
ギルドカードを手に、私は立ち尽くす。冒険者たちが遠巻きに私を見ている。ひそひそと囁き合う声。
「500階層だって」
「嘘つきが」
「どうせ詐欺だろ」
嘲笑。軽蔑。疑念。
私は何も感じなかった。ただ、淡々とカードを見つめる。
ミラが心配そうに声をかけてくる。
「セリアさん……大丈夫ですか?」
「ああ」
# 修正:第2層ラスト部分
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そのとき、人混みの中から一人の男が近づいてきた。初老の冒険者。傷だらけの顔、白髪混じりの髪。だが、その目は鋭い。
「嬢ちゃん」
彼は低い声で言った。
「忠告しておく。そのカードを、見せびらかすな」
「……?」
私は彼を見上げた。男は周囲を警戒するように視線を巡らせ、声を潜める。
「人類史上、最深到達記録は450階層だ。20年前、たった一人だけ到達した冒険者がいた」
彼は私のギルドカードを見た。
「500階層なんて、ありえない。誰も信じやしない。だが……」
彼は言葉を切り、私の目を見つめた。
「もし本当なら、嬢ちゃんは危険だ。20年前のあの冒険者も、記録を証明した直後に……」
彼は言葉を濁し、踵を返した。
「気をつけな」
それだけ言い残して、男は人混みに消えていった。
私は彼の背中を見送り、再びギルドカードを見つめた。
黒い表面に、「500」という数字が脈打つように光っている。
450階層を超える記録。誰も到達したことのない深さ。
20年前の冒険者は、何があったというのだろう。
――その答えを、私はまだ知らない。




