第29話 ミラの告白
翌朝、私はギルドで大量の食料と水を購入していた。
乾パン、干し肉、水筒五本分の水。それらを革製の大きな袋に詰め込む。
「長期滞在ですか?」
受付嬢が訊いてきた。
「……ああ」
「どちらまで?」
「100階層まで、一気に行く」
受付嬢は目を丸くした。
「一気に……ですか?」
「ああ」
もう何度も地上と往復したくない。疲労が溜まる。一気に進んだほうが、効率的だ。
私は転移石を受け取り、ダンジョンへ向かった。
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90階層の帰還ポイント。
石造りの広間。松明の明かりが、壁に影を落としている。
私はここを拠点とすることにした。
持参した毛布を床に敷き、簡易的な寝床を作る。食料と水を壁際に並べる。剣を磨き、装備を確認する。
準備は整った。
「……行くぞ」
呟き、私は91階層への階段を下りた。
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96階層で、ヒュドラと遭遇した。
三つの首を持つ竜。それぞれの口から炎、毒、氷を吐き出す。鱗は鋼のように硬く、尾は鞭のようにしなる。
一つの首を切り落としても、すぐに再生する。
どうやって倒す——
私は冷静に観察した。
三つの首が動くたび、胴体の中央に一瞬だけ隙が生まれる。
そこだ。
炎を避け、毒の霧をかいくぐり、氷の槍を躱す。
踏み込む。
胴体の中央——心臓がある場所へ、剣を突き立てた。
深く。
確実に。
ヒュドラが悲鳴を上げる。三つの首が痙攣し、やがて動きを止めた。
静寂。
私は剣を引き抜き、その場に膝をついた。呼吸が荒い。全身が汗に濡れている。
「……っ」
限界だ。
帰還ポイントへ戻る。
夜、冷たい石の床で横になる。毛布一枚では、寒さが身体に染み込んでくる。でも——眠らなければ。
明日も、戦う。
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97階層で、巨大ゴーレムと対峙した。
岩で出来た巨人。高さ5メートル。一歩踏み出すたびに地面が揺れる。
拳が振り下ろされる。
避ける。
地面に穴が開く。
また拳。
また避ける。
反撃——剣を振るう。
刃が岩に当たり、火花が散る。でも傷一つつかない。
「……硬い」
どこに弱点がある。
ゴーレムの動きを見る。
胸の中央に、赤く光る核がある。
あれだ。
私は拳の一撃をギリギリで避け、ゴーレムの腕を駆け上がった。
肩へ。
胸へ。
核へ——
剣を突き刺す。
核が砕け散る。
ゴーレムが崩れ落ちた。轟音。砂煙が舞い上がる。
私は地面に降り立ち——そのまま倒れ込んだ。
疲労困憊。
もう——動けない。
でも、帰らなければ。
私は這うようにして、帰還ポイントへ戻った。
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98階層で、古竜の幼体が現れた。
まだ若い竜。でも——強い。
炎を吐き、爪で襲い、翼で風を起こす。
空中戦。
またか。
私は地形を利用した。石柱の影に隠れ、タイミングを計る。
竜が急降下してくる。
今だ。
石柱を蹴り、跳躍する。
竜の背中に飛び乗り、首の付け根に剣を突き立てた。
竜が暴れる。
振り落とされそうになる。
でも——離さない。
剣を深く、さらに深く。
竜の動きが鈍る。
やがて——墜落した。
私も地面に叩きつけられる。
痛い。
全身が痛い。
回復薬を取り出し、傷に塗る。肩の傷、腕の裂傷、脚の打撲。
「……あと、一つ」
呟く。
あと一つで、100階層。
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99階層で、キメラと遭遇した。
獅子の身体、山羊の頭、蛇の尾。三つの生物が融合した魔獣。
獅子が咆哮し、山羊が角で突進し、蛇が毒牙で噛みつく。
30分の死闘。
私は何度も攻撃を躱し、何度も反撃した。
獅子の前脚を斬る。
山羊の角を叩き折る。
蛇の首を切り落とす。
そして——
獅子の心臓を、貫いた。
キメラが倒れる。
私も——倒れた。
もう——限界だ。
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その夜、帰還ポイントで横になりながら、私は考えた。
明日、100階層へ行く。
第一境界。
でも——その前に。
「……一度、地上へ戻ろう」
呟く。
装備の確認。回復薬の補充。
そして——
ミラに、会いたかった。
なぜかはわからない。
ただ——100階層の前に、誰かと話したかった。
私は転移石を取り出し、砕いた。
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地上に戻ると、夕暮れ時だった。
オレンジ色の空。街には松明が灯り始めている。
私はギルドへ向かい、素材を売却した。ヒュドラ、ゴーレム、古竜、キメラの素材。合わせて金貨40枚。Bランクモンスターは、やはり高価だ。
金を受け取り、帰ろうとした時——
「セリアさん」
声が聞こえた。
振り返ると、ミラがいた。
息を切らしている。走ってきたのか。
「少し、お時間ありますか」
ミラの表情は、真剣だった。
「……ああ」
私は頷いた。
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ミラの執務室。
簡素な机と椅子。書類が積まれた棚。窓から差し込む夕日が、部屋を赤く染めている。
ミラは紅茶を淹れてくれた。
でも——彼女は、カップを持つ手が震えていた。
「……どうした」
私は訊いた。
ミラは、しばらく黙っていた。
そして——
「私の兄のこと、話してもいいですか」
口を開いた。
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兄の名は、リアム。
5年前、25歳だった。Bランク冒険者で、150階層まで到達した経験者。
「優しい兄でした」
ミラは、遠い目をして語った。
「いつも私を気にかけてくれて、ダンジョンから帰ってくると、必ず土産を買ってきてくれました」
綺麗な石。珍しい花。深層でしか取れない鉱石。
「『ミラ、これ見てくれ』って、嬉しそうに見せてくれました」
ミラは微笑んだ。
でも——その笑みは、すぐに消えた。
「ある日、変わったんです」
140階層に到達した後。
兄の目つきが、変わった。
鋭く。
何かに取り憑かれたように。
「深層への執着が強くなりました。毎日ダンジョンに潜って、夜遅くまで帰ってこない日もありました」
心配するミラに、兄は言った。
「剣が、呼んでいる」
「……」
私は、息を呑んだ。
「剣が、『もっと深く』と囁くんだって」
ミラの声が、震えた。
「私は不安でした。でも——止められませんでした」
なぜなら——
「剣を信じることは、この世界では普通だから」
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5年前のあの日。
朝、兄は早く目を覚ました。
「今日、150階層へ行く」
準備をする兄を見て、ミラは言った。
「休んだほうがいいんじゃない? 昨日も潜ってたでしょう」
「大丈夫だ」
兄は笑った。
「剣が守ってくれる」
剣の柄を撫でながら。
「信じてるんだ。この剣を」
ミラは——止められなかった。
「……気をつけてね」
それしか、言えなかった。
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兄は、帰ってこなかった。
1日待った。
2日待った。
3日経っても、帰ってこない。
1週間後、ギルドが捜索隊を派遣した。
そして——
「遺体は、見つかりませんでした」
ミラは、涙を堪えながら言った。
「ただ——剣だけが」
150階層の入口に。
血に塗れた剣が、残されていた。
兄の剣。
「その剣は、今——」
ミラの声が、震えた。
「別の冒険者が、使っています」
「……」
私は、何も言えなかった。
兄の剣が、見知らぬ誰かに使われている。
それは——普通のことだ。
この世界では。
剣は受け継がれる。儀式を経て、新しい持ち主へ。
でも、ミラにとっては——
「二度と、兄に会えないんです」
ミラは、涙を堪えながら言った。
「剣は残っても——兄は、もう」
彼女の声が、途切れた。
涙が、頬を伝っていた。
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私は、何も言えなかった。
ただ——ミラの涙を、見つめていた。
人を失う、ということ。
二度と会えない、ということ。
それがどれほど辛いのか——
私には、わからない。
記憶がないから。
でも——
ミラの涙が、教えてくれる。
「お願いです、セリアさん」
ミラは顔を上げた。
目が赤い。
「剣を、信じすぎないでください」
彼女の声は、必死だった。
「剣は——人を、深層へ誘うんです」
「兄も、そうでした」
「最初は優しかった剣が——いつの間にか、兄を支配していました」
支配。
その言葉が、胸に刺さる。
「アシュさんも——」
ミラは言葉を詰まらせた。
「同じ目をしています」
「兄と、同じ——」
私は——何も言えなかった。
「100階層は、危険です」
ミラは続けた。
「多くの人が、そこで変わってしまいます」
「生きて、帰ってきてください」
「お願いです」
私は、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう、ミラ」
それだけ言うのが、精一杯だった。
「私は、大丈夫だ」
そう言いながら——
自信は、なかった。
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夜。
宿の部屋で、私はベッドに横になっていた。
ミラの言葉が、頭を巡る。
「剣が人を誘う」
兄の死。
アシュの目。
そして——
私は、剣を手に取った。
空虚の剣。
何も宿っていない剣。
何も囁かない剣。
「……お前は」
呟く。
「なぜ、黙っている」
応えは、ない。
ただ——
冷たい金属の感触だけが、手に残る。
他の剣は、喋る。
導く。
支配する。
でも、私の剣は——
何もしない。
それが——良いことなのか。
悪いことなのか。
わからない。
明日、100階層へ行く。
第一境界。
何が待っているのか——
わからない。
でも——
進むしかない。
私は、剣を鞘に収めた。
そして、目を閉じた。
明日——
100階層へ。




