第21話 50階層
20階層に到達してから、1ヶ月が経った。
私とアシュは、ほぼ毎日ダンジョンに潜っている。21階層、25階層、30階層、35階層……順調に、階層を進んでいる。
でも、私は意識的にペースを落としていた。
記憶がない今、焦るべきではない。一つ一つ、確かめながら進む。それに、アシュの成長を待つ意味もある。
彼は確実に強くなっている。剣に導かれながら、少しずつ、確実に。
今日は49階層。目標は、50階層到達だ。
「セリアさん、少し休憩しませんか?」
アシュが息を切らせながら、そう言った。彼の額には汗が滲んでいる。剣を握る手も、少し震えていた。
「……ああ」
私は頷き、近くの壁に背を預けた。松明の明かりが、石造りの通路を照らしている。湿った空気が、肺に重く入り込んでくる。
49階層。Dランクモンスターの領域。オーガやトロールが徘徊する、中級者でも油断できない場所。
でも、私にとっては——
「……簡単すぎる」
思わず、呟いていた。
「え?」
アシュが驚いたように顔を上げる。
「……いや、何でもない」
私は首を横に振った。でも、心の中では確信していた。
簡単すぎる。この階層は、私にとってあまりにも簡単だ。
さっきも、オーガが3体同時に襲いかかってきた。普通なら死を覚悟する状況だ。でも私の身体は、まるで訓練でもするように、淡々と動いた。
一体目の腕を切り落とし、二体目の喉を突き刺し、三体目の頭を真っ二つにする。
5秒。いや、もっと短かったかもしれない。
アシュは、ただ呆然と見ているだけだった。
「セリアさんは……本当にすごいです」
彼は尊敬の眼差しで言った。でも、その声には少しだけ、恐れも混じっていた。
私は、何も言えなかった。
すごい? 違う。これは、すごいんじゃない。
異常なんだ。
身体が勝手に動く。考える前に、剣が敵を斬っている。恐怖も、迷いも、何もない。
まるで、機械のように。
「……私は、本当に人間なのか?」
心の中で、そう呟いた。
答えは返ってこない。当然だ。私の剣は、何も言わない。空虚の剣。何も宿っていない剣。
アシュの剣は、彼に語りかける。戦い方を教え、励まし、導く。
でも私の剣は、ただ沈黙している。
孤独だ。
この1ヶ月、アシュと一緒に旅をしてきた。彼は成長している。最初は10階層でゴブリンに苦戦していたのに、今では30階層のホブゴブリンを一人で倒せるようになった。
「剣が教えてくれるんです」
彼は嬉しそうに言った。
「こう動けって、こう避けろって。声じゃなくて、思考として浮かんでくるんです」
それが普通なんだと、私は知っている。この世界では、剣が喋るのが当たり前。剣に導かれるのが、当たり前。
でも私は、違う。
私の剣は、何も言わない。
だから、私は一人だ。
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「そろそろ行きましょうか」
アシュが立ち上がった。彼の顔には、決意の色が浮かんでいる。
「50階層まで、あと少しです」
「……ああ」
私も立ち上がり、剣を握り直した。空虚の剣。漆黒の刃が、松明の光を反射している。
通路を進む。石の床に、私たちの足音が響く。
50階層。
なぜか、その数字に引っかかるものがあった。身体が、何かを思い出そうとしている。でも、記憶は霧の中だ。
「……っ」
一瞬、頭に鋭い痛みが走った。
「セリアさん?」
「……大丈夫だ」
私は首を振り、歩き続けた。
そして——
「誰かいる」
前方に、人影が見えた。
松明の明かりの中に、一人の男が立っている。40代くらいだろうか。いや——傷が多すぎて、年齢がわからない。顔には無数の傷跡があり、右目の上には深い裂傷の痕が残っている。
筋肉質な身体。ボロボロの鎧。腰には、年季の入った剣。
ベテラン冒険者だ。
「……珍しいな」
男は低い声で言った。
「こんな低層で、若い冒険者に会うとは」
低層?
49階層を、低層と呼ぶのか。この男は——
「護衛依頼でな」
男は面倒そうに続けた。
「金持ちの息子を50階層まで連れてくる依頼だ。親の金で無理やり記録を作りたいとか抜かしやがった」
男は鼻で笑った。
「まあ、報酬は悪くなかったが……退屈だった。依頼主はさっき地上に戻したところだ」
男の視線が、私たちを値踏みするように見つめてくる。
「あんたたち、どこまで行くつもりだ?」
「……50階層」
私は短く答えた。
「50階層か。まあ、妥当だな」
男は腕を組んだ。
「それ以上は、無理だろう。お前ら、まだFランクかEランクだろう?」
「僕はFランクです」
アシュが緊張した声で答えた。
「セリアさんは……」
「……ランク表示エラー」
私が言うと、男の目つきが変わった。
「エラー? ……ああ、お前か」
男は興味深そうに私を見た。
「噂で聞いたぞ。500階層到達を自称する、詐欺師の小娘」
心臓が、ぎゅっと締め付けられた。
詐欺師。
その言葉は、もう慣れた。でも、やはり痛い。
「200階層まで行った。ゼノって名前だ」
男——ゼノは、そう名乗った。
200階層到達者。
その言葉に、私の身体が反応した。
記憶の奥底で、何かが動く。
「……」
私はゼノの顔を見つめた。傷だらけの顔。右目の上の深い傷。
……見たことがある。
いや——似ている?
この傷の配置、この顔の輪郭。
でも、違う気もする。
「……どうした?」
ゼノが眉をひそめた。
「そんな顔で見るな。気味が悪い」
「……いや」
私は視線を逸らした。でも、心の中では混乱していた。
この男を、知っているのか?
それとも、似ている誰かを知っているのか?
記憶が、曖昧すぎる。
「お前が本当に500階層に行ったかどうか、俺は知らん」
ゼノは冷たく言った。
「だが、一つだけ言っておく。深層は、お前が思っているほど甘くない」
「……」
「100階層を超えたら、世界が変わる。200階層を超えたら、人間が変わる。300階層を超えたら——」
ゼノは言葉を切った。
「……もう、戻れなくなる」
その声には、何か深い後悔が滲んでいた。
「まあ、お前には関係ない話だがな」
ゼノはそう言い、私たちの横を通り過ぎようとした。
その時——
「……待て」
私は思わず、声をかけていた。
ゼノが振り返る。
「……何だ?」
「……あなたは」
言葉が、出てこない。
聞きたいことがある。でも、何を聞けばいいのかわからない。
ゼノは不機嫌そうに私を見つめていた。
「……私を、知らないか」
私はそう尋ねた。
ゼノは少し驚いたような顔をした。
「知らん。今日初めて会った」
即答だった。
「なぜだ?」
「……いや」
私は首を横に振った。
知らない。彼は私を知らない。
……なら、私の勘違いか?
それとも——
「……もう一度、会える」
私はそう言った。
「……と、思う」
「はあ?」
ゼノは呆れたように首を振った。
「お前、何を言ってるんだ」
「……わからない」
私は正直に答えた。
「でも、そんな気がする」
ゼノはしばらく私を見つめていたが、やがて肩をすくめた。
「……まあ、深層に行けば、また会うかもな」
そう言い残し、ゼノは去っていった。
アシュは緊張した表情で、ゼノの背中を見送っている。
私は——
「……戻れなくなる、か」
その言葉が、心に引っかかった。
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ゼノとの遭遇から10分後、私たちは50階層の入口に到達した。
大きな石のアーチ。そこに刻まれた文字——「50」。
「着きました……」
アシュが息を呑んだ。
「50階層です、セリアさん」
「……ああ」
私は一歩、アーチをくぐった。
その瞬間——
「っ……!」
記憶が、押し寄せてきた。
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*『50階層、突破おめでとう、セリア!』*
*明るい声。男の声。笑っている。*
*『お前、本当に強くなったな』*
*『まだまだこれからだぞ』*
*『次は100階層だ』*
*仲間たち。4人の影。*
*前よりも、はっきり見える。*
*でも、まだ顔は曖昧だ。ぼやけている。*
*……一人だけ、少しはっきりと——*
*傷だらけの顔。右目の上の深い傷。*
*笑っている。優しく笑っている。*
*『俺たちがついてる。安心しろ』*
*……似ている。*
*ゼノに、似ている。*
*でも——*
*もっと若い?*
*いや、わからない。傷が多すぎて、年齢が判別できない。*
*同じ人物なのか?*
*それとも——*
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「……っ」
視界が揺れる。膝が、ガクッと折れた。
「セリアさん!」
アシュが駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか!? セリアさん!」
「……大丈夫だ」
私は立ち上がった。でも、心臓がバクバクと音を立てている。
あの記憶の中の男。
ゼノに似ている。
でも、同じ人物なのか?
それとも別人なのか?
……わからない。
記憶が曖昧すぎる。
「……くそ」
思わず、呟いていた。
「セリアさん……?」
アシュが不安そうに見ている。
「……何でもない」
私は剣を握り直した。
50階層。ここから、中層が始まる。
「行くぞ、アシュ」
「は、はい!」
私は通路へと足を踏み入れた。
石の質感が、少しだけ変わった気がする。空気も、微かに重い。でも、決定的な変化は100階層からだと聞いている。
通路を進むと、すぐに気配を感じた。
「……来る」
「え?」
アシュが剣を構える。
影が動いた。
3体のトロール。Dランクモンスター。身長3メートルを超える巨体が、私たちに向かって突進してくる。
「セリアさん!」
アシュが叫ぶ。
でも、私の身体はすでに動いていた。
一歩踏み込み、最初のトロールの足を斬る。巨体が傾いた瞬間、首を切り落とす。返す刀で二体目の腹を切り裂き、三体目の頭を真っ二つにする。
7秒。
すべて終わる。
「……」
アシュは、また呆然としている。
「す、すごい……」
でも、私は違和感を覚えていた。
……少し、遅い?
いや、気のせいか。
「……進むぞ」
私は前を向いた。
通路の奥に、また影が見える。
今度は5体。Dランクモンスターの群れだ。
アシュは緊張している。
でも、私は——
「……任せろ」
剣を構え、走り出した。
5体のトロール。普通の冒険者なら、逃げるしかない状況。
でも、私の身体は知っている。
この程度なら——
一体目に斬りかかる。首を切り落とす。二体目が横から殴りかかってきた。避ける——
「……っ」
避けきれなかった。
腕が、かすった。
痛みが走る。
……なに?
三体目が前から襲いかかる。剣で受け止める。重い。
……重い?
四体目、五体目が同時に飛びかかってくる。
身体を捻り、一体の腹を斬る。でも、もう一体の攻撃が——
「セリアさん!」
アシュが割り込んできた。彼の剣が、トロールの腕を弾く。
「……っ」
私は体勢を立て直し、残りの2体を斬った。
20秒。
長い。
明らかに、長かった。
「はあ……はあ……」
息が、上がっている。
汗が、額を伝う。
疲労を、感じる。
「セリアさん、大丈夫ですか?」
アシュが心配そうに駆け寄ってくる。
「……ああ」
私は頷いた。
でも、心の中では理解していた。
50階層。
ここから、何かが変わり始めている。
身体が重い。動きが鈍い。疲労が蓄積する。
……これが、中層か。
「セリアさん、少し休憩しましょう」
「……ああ」
私は壁に背を預けた。
深く息を吐く。
……変だ。
49階層までは、こんなことなかった。
50階層に入った瞬間、何かが変わった。
微かだが、確実に。
空気が重い。身体が重い。剣が重い。
「……これが、中層」
呟く。
50階層でこれなら、100階層では? 200階層では?
そして——300階層、500階層では?
「……進むしかない」
私は立ち上がった。
アシュが不安そうに見ている。
「セリアさん……本当に、大丈夫ですか?」
「……大丈夫だ」
私は前を向いた。
でも、心の隅で、ゼノの言葉が響いていた。
*『300階層を超えたら……もう、戻れなくなる』*
戻れなくなる。
その意味を、私はまだ知らない。
でも、いつか知ることになるだろう。
深層で。
真実の場所で——
そして、私は歩き続けた。
暗闇の中へ。
記憶の底へ。
答えを求めて——




