第20層 最初の謎
20階層を進み始めて、数時間が経過していた。
通路は暗く、湿っていて、時折壁から水滴が落ちる音が響く。私とアシュは黙々と歩いていた。頭痛は相変わらず続いているが、さっきよりはマシだ。記憶の断片を思い出したことで、何かが少し楽になった気がする。
でも、それは同時に新たな苦しみでもあった。
仲間がいた。
4人の仲間。
一緒に、300階層まで行った。
でも、今はいない。
なぜ?
どこに行った?
死んだのか?
それとも——
「セリアさん、前方に何かいます」
アシュの声が、私の思考を断ち切った。
前方を見る。暗闇の中、複数の影が動いている。
「……何体だ」
「10……いえ、12体です」
アシュの声が緊張している。当然だ。12体は多い。しかも、この階層の敵はホブゴブリンやオークだ。一体一体が強い。
「……下がれ」
「で、でも!」
「下がれ。お前では無理だ」
私は剣を抜いた。
敵が近づいてくる。
8体のホブゴブリン。
4体のオーク。
彼らの目が、松明の光を反射して赤く光る。
咆哮。
地響きのような音。
そして——
一斉に襲いかかってきた。
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私は、動く。
考えるより先に、身体が動く。
一体目のホブゴブリンが剣を振り下ろす。私は横に避け、その首を斬る。血が噴き出す。倒れる音。
二体目、三体目が左右から。私は剣を横に薙ぐ。一閃。両方とも倒れる。
四体目、オーク。大きな身体。巨大な斧。振り下ろされる。私は下に潜り込む。低い姿勢から、腹を斬り上げる。オークが悲鳴を上げて倒れる。
五体目、六体目、七体目——
その瞬間、また世界が歪んだ。
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(この動き)
別の光景が重なる。
もっと暗い場所。
もっと深い場所。
私は、同じように戦っている。
でも、一人じゃない。
誰かが、一緒にいる。
「セリア、右だ!」
男の声。力強い声。
私は反射的に右を見る。
敵が——いや、違う。ここは20階層だ。目の前にいるのはホブゴブリンだ。
でも、記憶の中では——
もっと大きな、もっと恐ろしい何かがいる。
「任せろ!」
男の声が響く。
大きな剣が、敵を斬る。
私の隣で、誰かが戦っている。
背中を預けられる存在。
信頼できる仲間。
(誰?)
顔を見ようとする。
でも——
見える。
初めて、見える。
男の顔。
30代くらいか。
黒い髪。短く刈り上げている。
顔に、古い傷跡。
左の頬から顎にかけて、一本の線。
でも、その顔は——
笑っている。
戦いながら、笑っている。
「セリア、無理すんなよ!」
力強い声。
優しい声。
頼もしい声。
(あなたは——)
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「セリアさん!」
アシュの叫び声が、私を現実に引き戻した。
目の前にオークがいる。斧が振り下ろされる——
私は反射的に避ける。
そして反撃。
オークの首を斬る。
残りの敵を見る。
まだ5体いる。
私は剣を構え直す。
集中しろ。今は戦わなければ。
記憶は後だ。
私は敵に向かって走る。
一体を斬る。
また一体を斬る。
オークが斧を横に薙ぐ。私は下に潜り込む。足を斬る。オークが倒れる。首を斬る。
残り2体。
ホブゴブリンが二体、必死に襲いかかってくる。
私は——
剣を振るう。
一閃。
二体とも、倒れる。
すべて終わる。
私は荒い息をつく。
剣を鞘に収める。
「セリアさん!」
アシュが駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか!? また、動き止まりましたよね!?」
「……ああ」
私は壁に寄りかかる。
「また、記憶が……」
「記憶?」
「……顔が見えた」
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休憩。
私とアシュは、通路の脇に座っている。
「顔が見えたって……」
アシュが尋ねる。
「……仲間の一人だ」
私は目を閉じる。記憶の中の顔を思い出す。
「30代くらいの男。黒い髪。顔に傷がある。左の頬から顎にかけて」
「その人が、セリアさんの仲間?」
「……ああ。一緒に戦っていた。背中を預けられる存在だった」
私は自分の手を見る。
「力強い声の主だ。いつも私を励ましてくれた。『無理すんなよ』って、笑いながら」
アシュは黙って聞いている。
「でも……名前が思い出せない」
私は頭を抱える。
「顔は見えた。声も聞こえた。でも、名前が……」
「……思い出しますよ、きっと」
アシュが優しく言う。
「少しずつ、記憶が戻ってるんですから」
私は頷く。
そうだ。
少しずつでも、戻っている。
次は、何を思い出すのだろう。
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その夜、また記憶が蘇った。
野営。
アシュは眠っている。
私は目を閉じていたが、眠れない。
頭の中で、記憶の断片が渦巻いている。
そして——
光景が浮かぶ。
300階層。
暗い。
とても暗い。
壁が黒く、松明の光さえもほとんど届かない。
私は——
4人の仲間と、円陣を組んで座っている。
顔が見える。
一人だけだが、見える。
黒髪の男。傷のある顔。彼だけがはっきりと見える。
他の3人は、まだ影のようにぼやけている。
「……ここから先は、もっと危険になる」
黒髪の男が言う。
「300階層以降は、生還率がほぼゼロだ」
沈黙。
誰も何も言わない。
「だから——」
男は私を見る。
「セリアだけが行くべきだ」
「え?」
私は驚く。
「どういう意味?」
「お前の剣は、空虚の剣だ」
男は続ける。
「剣に支配されない唯一の存在。だから、お前だけが真実を見られる」
「でも、みんなで——」
「無理だ」
優しい声が割り込む。影のような男性。
「俺たちは、剣に支配されている。気づいていないだけで、剣の意思に従わされている」
「だから、300階層が限界だ」
女性の声。
「これ以上行ったら、俺たちは剣に飲まれる。自分を失う」
黒髪の男が言う。
「でも、お前は違う。お前なら行ける。500階層まで」
私は首を振る。
「一人で? 無理だよ、そんなの……」
「お前なら、できる」
男は笑う。
傷のある顔で、優しく笑う。
「俺たちは、お前を信じてる」
「セリア、頼んだぞ」
優しい声。
「世界を、救ってくれ」
女性の声。
「私たちの分まで、生きてくれ」
涙が出そうになる。
でも、私は——
頷いた。
「……わかった。行く。500階層まで」
黒髪の男が立ち上がる。
「じゃあ、決まりだな」
彼は私の肩に手を置く。
大きな手。温かい手。
「セリア、無理すんなよ。でも、お前なら大丈夫だ」
私は——
泣いていた。
「みんな……ありがとう」
「礼なんていらねえよ」
男は笑う。
「俺たちは、仲間だからな」
その言葉が——
胸に刺さる。
(仲間)
そうだ。
私たちは、仲間だった。
でも——
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目を開ける。
20階層の天井が見える。
涙が頬を伝っている。
私は、別れたのだ。
300階層で、仲間と別れた。
一人で、500階層に向かった。
そして——
何があったのか。
まだ、思い出せない。
でも、確かなことが一つある。
私は、仲間に送り出された。
信じられて、託された。
世界を救うために。
でも——
記憶を失った。
なぜ?
500階層で、何があったのか?
そして、仲間は?
彼らは、今どこにいるのか?
300階層で、私を待っているのか?
それとも——
答えは、まだわからない。
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翌朝。
私たちは地上に戻ることにした。
補給が必要だったのと、私の状態が心配だったからだ。
地上に出ると、久しぶりの太陽の光が眩しかった。
「セリアさん」
ギルドの前で、ミラが待っていた。
「お帰りなさい」
彼女は微笑む。いつもの優しい笑顔。
「……ただいま」
「20階層まで到達されたんですね」
「……ああ」
ミラは私をじっと見る。
「何か……思い出したんですね」
私は驚いて、ミラを見る。
「……なぜわかる?」
「顔を見ればわかります」
ミラは優しく笑う。
「悲しそうな顔、してますから」
私は何も言えなかった。
ミラは続ける。
「無理しないでください。ゆっくりでいいんです」
「……ありがとう」
ミラは頷いて、ギルドの中に案内してくれた。
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ギルドのロビーは、いつものように賑わっていた。
冒険者たちが談笑し、受付嬢が忙しそうに働いている。
でも、私が入ると——
少し、静かになった。
みんなが、私を見る。
「あれ、セリアだ」
「20階層到達したんだって」
「マジで?」
「ああ、記録に残ってる」
「……本物なのか?」
ヒソヒソと話す声。
でも、さっきまでとは違う。
敵意や嘲笑ではなく——
興味と、少しの尊敬。
「本当に500階層行ったのかもな」
「だって、20階層まで行けるんだぜ」
「しかも剣の声聞こえないのに」
「化け物だよ、あいつ」
化け物。
その言葉に、少し胸が痛む。
でも——
認められ始めている。
少しずつだが、信じられ始めている。
私は、報告書を提出し、報酬を受け取り、ギルドを後にした。
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宿に戻る途中、私は空を見上げた。
青い空。
白い雲。
穏やかな風。
でも、私の心は穏やかではなかった。
仲間がいた。
一緒に戦った。
300階層まで、一緒に行った。
でも、別れた。
私だけが、先に進んだ。
そして——
記憶を失った。
なぜ?
500階層で、何があったのか?
仲間は、今どこにいるのか?
生きているのか?
死んでいるのか?
それとも、まだ300階層で私を待っているのか?
答えは、深層にある。
もっと深く行かなければ。
もっと記憶を取り戻さなければ。
真実を知らなければ。
私は——
決意した。
30階層へ。
いや、それ以上へ。
どこまでも、進む。
記憶を取り戻すために。
真実を知るために。
そして——
仲間に、答えるために。
託された使命を、果たすために。
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宿の部屋。
一人、剣を見つめる。
空虚の剣。
何も宿っていない剣。
だから、私は選ばれた。
剣に支配されないから。
真実を見られるから。
でも、それは——
孤独でもあった。
仲間は、剣に支配されていた。
だから、300階層が限界だった。
でも、私は違った。
だから、一人で進んだ。
そして——
何があったのか。
まだ、わからない。
でも、確実に近づいている。
記憶が、少しずつ戻っている。
次は、何を思い出すのだろう。
仲間の名前?
他の仲間の顔?
それとも——
500階層の真実?
答えは、深層にある。
私は、進む。
どこまでも。
真実へ。
過去へ。
自分自身へ。
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**第1章 完**
20階層。
記憶の扉が、さらに開いた。
少女は、仲間の顔を思い出した。
一緒に戦った男。
信頼できる存在。
背中を預けられる仲間。
そして、300階層での別れ。
彼らは、彼女を送り出した。
一人で、500階層へ。
世界を救うために。
でも、何があったのか。
まだ、わからない。
記憶は、まだ断片的。
真実は、まだ遠い。
それでも、彼女は進む。
託された使命を果たすために。
仲間の想いに応えるために。
そして——
自分自身の真実を知るために。
次章、さらなる深層へ。
記憶と真実が、彼女を待っている。
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