第1話 記憶のない少女
目を覚ましたとき、私は白い部屋にいた。
簡素な机と椅子だけが置かれた、殺風景な空間。壁には何の装飾もなく、ただ冷たい石が積まれているだけだ。天井は高く、小さな窓から差し込む光が、部屋の無機質さをさらに際立たせている。
ここは、どこだ。
記憶を辿ろうとして、何もないことに気づく。昨日のことも、今朝のことも、何一つ思い出せない。いや、昨日も今朝も存在したのかすら分からない。
自分の名前は――セリア・アッシュフォード。
年齢は――17歳。
それだけは、なぜか分かる。知識として頭の中にある。でも、それ以外は何もない。空っぽだ。
体を起こそうとして、両手が拘束されていることに気づいた。いや、拘束というほど強いものではない。ただ、机に手錠で繋がれているだけだ。逃げないようにという、穏やかな拘束。
それでも、不快だった。
本能的に、私は自由を求めていた。この狭い部屋から出たかった。理由は分からない。ただ、閉じ込められることが、ひどく恐ろしかった。
窓の外を見る。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
都市の中心に、巨大な穴が開いている。
直径は数百メートルにも及ぶだろうか。円形の暗闇が、まるで世界に開いた傷のように、そこに在った。穴の周囲には、石造りの柵が設けられている。そして、その穴に向かって、無数の人々が歩いていく。
ダンジョン。
その単語が、脳裏に浮かんだ。
あの穴が、ダンジョンの入口。この世界の中心。すべての始まり。
なぜ、そんなことを知っているのだろう。記憶はないのに、知識だけが頭の中に存在している。まるで、誰かが私の脳に直接情報を書き込んだかのように。
考えている間に、扉が開いた。
入ってきたのは、若い女性だった。20代半ばくらいだろうか。短く切った栗色の髪に、機構の制服を着ている。制服――それも、なぜか分かった。深淵管理機構、通称アビスオーダーの職員が着る、灰色と黒の制服。
「目が覚めたのね」
女性は柔らかく微笑んだ。でも、その目には疲労の色が浮かんでいる。
「私はミラ。アビスの職員よ。あなたの担当になったの」
ミラと名乗った女性は、私の向かいに座った。手には、書類の束を持っている。
「手錠を外してもいいかしら。逃げたりしないわよね?」
「……どこに逃げるんですか。ここがどこかも分からないのに」
私は答えた。自分の声が、やけに冷たく聞こえた。感情が、うまく乗らない。
ミラは小さく息をついて、手錠の鍵を開けた。拘束が解かれ、手首をさする。痕は残っていない。本当に、穏やかな拘束だったのだろう。
「ここは深淵管理機構、通称アビスオーダー。始祖の都ルミナス支部よ。あなたは3日前、都の中央広場で保護された」
「3日前……」
そうだったのか。あの広場での出来事が、3日前。時間の感覚がまるでない。
「あなたのこと、色々聞かせてもらいたいの。でも、その前に」
ミラは書類の一枚を取り出した。それは、見覚えのあるカードだった。
ギルドカード。
私のギルドカード。
「これ、本当にあなたのものなの?」
「……さあ。私にも分かりません」
正直に答えた。
ミラは困ったように眉を寄せた。
「記憶喪失、本当なのね」
「はい。自分の名前と年齢は分かります。でも、それ以外は何も。どこで生まれて、どう育ったのか。家族がいるのか。友人がいたのか。何一つ、思い出せません」
淡々と語る自分がいた。本来なら、もっと動揺するべきなのかもしれない。でも、感情が湧いてこない。まるで、他人事のように自分の状況を眺めている。
ミラは書類に何かを書き込んだ。それから、私の目を真っ直ぐに見た。
「セリア・アッシュフォード。それが、あなたの名前よ」
「……知っています」
「生年月日は、エレミア歴982年7月12日。今年で17歳になる」
「それも、何となく」
「出身は、始祖の都ルミナス。この都市で生まれ、育った」
ルミナス。この響きに、何か感じるものがあった。でも、それが何なのかは分からない。
「登録日は、エレミア歴983年5月3日。つまり、1歳のとき。儀式を受けた日ね」
儀式。
その単語に、わずかに反応した。何か、重要なことのような気がした。
「儀式……とは?」
ミラは少し驚いた顔をした。
「儀式も忘れているの? ……そう。なら、説明するわ」
彼女は椅子に深く座り直した。
「この世界では、生まれた子供は必ず1年以内にダンジョンに入る儀式を受けるの。親と一緒に、ダンジョン内で24時間過ごす。その時、剣も一緒に入れる。そうすることで、剣がその子専用のものになる」
「剣……」
その単語を口にした瞬間、胸が締め付けられた。何かが、欠けている。とても大切なものが、ここにない。
「この儀式を受けないと、今後の人生でダンジョンに入ることができない。儀式を受けなかった者、失敗した者は『欠落者』と呼ばれ、市民権を失う」
ミラの声が、少し沈んだ。
「欠落者は職に就けず、結婚も許されない。都市の外縁部、灰色区に隔離される。そこは……地獄よ。犯罪と貧困が支配する場所」
彼女は目を伏せた。
「儀式の失敗率は約5%。20人に1人は欠落者になる。そして、欠落者の平均寿命は35歳。過酷な環境で、多くが若くして死んでいく」
私は黙って聞いていた。知識として、それらの情報が頭の中に浮かんできた。でも、実感は湧かない。
「でも、あなたは違う。あなたは儀式を受けた。そして、剣を得た」
ミラは私を見つめた。
「問題は、その剣が今、あなたの手元にないこと。そして――」
彼女は書類の一枚を指差した。
「ギルドカードに記録された、この数字」
そこには、こう書かれていた。
```
最高到達階層:500
```
500。
その数字を見た瞬間、また頭痛が走った。鋭い痛みに、思わず頭を押さえる。
「っ……!」
「大丈夫!?」
ミラが立ち上がる。でも、痛みはすぐに引いた。ただ、頭の奥に何かが引っかかっている感覚だけが残った。
「……平気です」
「無理しないで。あなた、3日前も同じように倒れたのよ」
そうだったのか。
私は深呼吸をして、顔を上げた。
「500階層……それは、何を意味するんですか」
ミラは、複雑な表情をした。
「それが、問題なの」
彼女は椅子に座り直した。
「人類史上、最高到達階層は450階層。それは20年前、『終焉を謳う者』と呼ばれた男が記録したもの。それ以降、誰も450階層を超えていない」
「つまり、500階層は――」
「あり得ない記録よ。だから、アビスの上層部は混乱している。あなたのギルドカードが本物であることは確認済み。偽造は不可能。でも、500階層到達なんて信じられない」
ミラは額に手を当てた。
「しかも、あなたは2年前に消息を絶っている。当時15歳。200階層を目指していた有望な冒険者だったそうよ。それが突然消えて、2年後に記憶を失って帰ってきた。ギルドカードには500階層到達の記録」
彼女は私を見た。
「セリア、本当に何も覚えていないの? 2年間、どこにいたの? 何をしていたの? どうやって500階層に到達したの?」
質問が矢継ぎ早に投げかけられる。
でも、答えられない。
「……分かりません。本当に、何も」
ミラは深いため息をついた。
「そう。なら、仕方ないわね」
彼女は書類を閉じた。
「とりあえず、今日はここまで。次は、剣のテストをするわ」
「剣の……テスト?」
「ええ。あなたの剣が本当にあなたのものなのか確認する。そして、剣があなたに何を語るのか聞く」
剣が語る。
その意味が、分からなかった。
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別室に案内された。
そこは広い訓練場のような場所だった。床には魔法陣が描かれ、壁には無数の剣が掛けられている。部屋の中央に、机が一つ。その上に、黒い剣が置かれていた。
私の剣。
それを見た瞬間、体が勝手に動いた。駆け寄り、剣を手に取る。柄を握った瞬間、安堵感が全身を包んだ。
ああ、これだ。
これが、私のもの。
これがあれば、大丈夫。
理由は分からない。でも、確信していた。
「……落ち着いたようね」
背後から声がした。振り返ると、老人が立っていた。白髪に白い髭。アビスの制服を着ているが、胸には複数の勲章が輝いている。
「私は検査官のオルドヴィン。君の剣を調べさせてもらう」
低く、威厳のある声だった。
「剣を抜きなさい」
言われるままに、鞘から剣を抜いた。漆黒の刀身が現れる。光を反射せず、まるで闇そのものを固めたような色。装飾は一切ない。ただ、静かにそこに在る。
オルドヴィンは剣を見つめた。その目が、わずかに見開かれる。
「……漆黒か。珍しい」
彼は私に近づいた。
「剣を握り、目を閉じなさい。そして、剣に問いかけるのだ」
「問いかける……?」
「剣は必ず答える。それが、この世界の法則だ」
オルドヴィンは厳かに言った。
「剣には、前の持ち主の記憶と意思が宿っている。死者の魂が、剣という形で継承されている。だから、剣に問いかければ、彼らは答える。経験を、知識を、技を教えてくれる」
死者の魂。
その言葉に、何か引っかかるものがあった。でも、それが何なのか分からない。
「やってみなさい」
私は目を閉じた。
剣を両手で握る。意識を集中させる。
――剣よ、聞こえますか。
心の中で問いかけた。
――あなたは、誰ですか。
沈黙。
――私に、何を教えてくれますか。
沈黙。
――答えてください。
完全な、沈黙。
何も聞こえない。何も感じない。まるで、空っぽの器に語りかけているかのような、虚無感だけがあった。
目を開けた。
「……何も、聞こえません」
オルドヴィンの表情が変わった。
「何も、だと?」
「はい。完全に、沈黙しています」
老人は数歩後ずさった。その顔には、明確な衝撃が浮かんでいた。
「まさか……空虚の剣、だと?」
「空虚の剣……?」
ミラが横から説明した。
「前の持ち主の記憶が宿っていない剣。全体の1%未満しか存在しない、超希少種よ」
彼女は複雑な表情をした。
「空虚の剣は、経験も知識も引き継げない。だから、最弱の剣と呼ばれている。普通の冒険者なら、50階層にすら到達できないと言われているわ」
「最弱……」
私は剣を見つめた。
この黒い剣が、最弱。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、これでいいと思った。
オルドヴィンは深い溜息をついた。
「だが、その最弱の剣で500階層到達とは……矛盾している。あり得ない」
彼は私を睨んだ。
「本当に500階層に到達したのか? それとも、何か細工をしたのか?」
「……知りません。記憶がないんです」
「記憶がない、か。都合のいい言い訳だな」
オルドヴィンの声が冷たくなった。
「君を信用するには、証拠が足りない。500階層到達など、おとぎ話に過ぎん」
彼は踵を返した。
「ミラ、この娘を監視下に置け。自由行動は許可するが、都市の外に出ることは禁ずる。そして、定期的に報告させろ」
「了解しました」
オルドヴィンは部屋を出ていった。
残されたのは、私とミラだけ。
ミラは申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。オルドヴィン検査官は厳しい人なの。でも、悪い人じゃないわ」
「……構いません」
私は剣を鞘に収めた。
「それより、ここから出られるんですか」
「ええ。宿舎を用意してあるわ。そこで生活してもらう。明日からは、自由に行動していいわよ。ただし、都市の外に出ることだけは禁止」
ミラは微笑んだ。
「何か困ったことがあったら、いつでも連絡して。私が力になるから」
「……ありがとうございます」
お礼を言うと、ミラは少し驚いた顔をした。
「あなた、感情が薄いように見えるけど、ちゃんと感謝の気持ちは持っているのね」
「そう……ですか?」
「ええ。きっと、記憶が戻れば感情も戻ってくるわよ」
そう言って、彼女は私を宿舎へ案内した。
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夜。
アビスが用意した宿舎は、質素だが清潔だった。ベッドと机、それに小さな窓がある。窓からは、あの巨大な穴――ダンジョンの入口が見えた。
ベッドに座り、剣を膝の上に置く。
漆黒の刀身。
沈黙する剣。
空虚の剣。
最弱だと言われた。でも、これが私の剣だ。
柄に手を置く。冷たい感触。何も語らない。ただ、そこに在る。
「……お前は、本当に何も教えてくれないのか」
囁くように問いかける。
答えは、ない。
でも、それでいいのかもしれない。
もし剣が答えたら、私は私でいられなくなる気がした。死者の記憶に支配されて、自分を失ってしまう気がした。
空虚だからこそ、私は私でいられる。
そう思うと、少しだけ安心した。
窓の外を見る。ダンジョンの穴が、暗闇の中で口を開けている。無数の人々が、今もあの中に潜っているのだろう。剣を握りしめて、モンスターと戦い、資源を採取し、深層を目指している。
私も、あそこに入ったのだろうか。
500階層まで。
2年間かけて。
でも、覚えていない。
何も。
ただ、時折蘇る断片的なビジョンだけが、私が何かを見たという証拠だった。
目を閉じると、また見えた。
無数の剣が刺さった光景。
10万本以上の剣。
すべて、人間だったもの。
そして、囁き。
*あと7人*。
*あと7人で、世界は終わる*。
頭が痛い。激痛が走り、額を押さえる。呼吸が乱れる。心臓が跳ねる。
でも、耐えた。
少しずつ、痛みが引いていく。
荒い息を整えながら、窓の外を見つめた。
ダンジョン。
答えは、あそこにある。
私が誰で、何をしたのか。
なぜ、この剣は沈黙しているのか。
なぜ、記憶を失ったのか。
「あと7人」とは、何を意味するのか。
すべての答えが、あの奥底にある。
ならば、行くしかない。
もう一度、潜るしかない。
500階層まで。
今度は、記憶を取り戻すために。
私は立ち上がり、剣を腰に下げた。
鏡に映る自分を見る。
黒髪。
灰色の瞳。
17歳の少女。
セリア・アッシュフォード。
記憶を失った、500階層到達者。
――いや、違う。
私は、まだ何者でもない。
これから、自分が何者なのかを見つけに行くのだ。
剣と共に。
この沈黙する、空虚の剣と共に。
「……明日から、始めよう」
呟いた。
誰に向けてでもない。
自分自身に向けて。
世界は私を信じない。
アビスは私を疑っている。
人々は私を詐欺師だと嘲笑うだろう。
でも、構わない。
私は私の真実を見つける。
たとえ、それがどんなに残酷なものであっても。
窓の外、ダンジョンの穴が暗闇の中で静かに口を開けていた。
まるで、私を待っているかのように。
まるで、私を呼んでいるかのように。
――おいで、と。
――真実は、ここにある、と。
私は窓を閉め、ベッドに横たわった。
明日から、すべてが始まる。
記憶のない少女の、逆行の旅が。




