第19層 20階層
19階層の通路を進みながら、私は自分の異変に気づいていた。
頭痛が続いている。昨日から、ずっと。鈍い痛みが頭の奥に居座り、時折鋭く疼く。それは単なる疲労ではない。何かが解けようとしている——封じられていた何かが、少しずつ、しかし確実に表面に浮かび上がろうとしている。
「セリアさん、本当に大丈夫ですか?」
アシュの声が、やけに遠くに聞こえる。
「……大丈夫だ」
そう答えたが、自分でも嘘だとわかっている。顔色が悪いのだろう。アシュの心配そうな表情が、それを物語っている。
「でも、顔色が……」
「……進む」
私はそれだけ言って、歩き続けた。アシュは何か言いたげだったが、結局黙ってついてきてくれた。この少年は優しい。時々、その優しさが眩しすぎて、直視できなくなる。
通路は薄暗く、松明の明かりだけが私たちの影を壁に投げかけている。足音が規則正しく響く中、私の思考だけが乱れていた。何を思い出そうとしているのか。いや、何を思い出すことを恐れているのか。
その時だった。
前方から、重い足音が聞こえてきた。
5体のオーク。
大柄な身体、筋肉質な腕、そして巨大な武器。ホブゴブリンとは明らかに格が違う。アシュが息を呑む音が聞こえた。
「……下がれ」
「はい」
アシュは素直に後退する。彼は自分の限界を理解している。それも、彼の賢さだ。
私は剣を抜いた。
オークたちが咆哮を上げる。地響きのような音。そして一斉に襲いかかってきた。
私は——
剣を振るった。
その瞬間、世界が歪んだ。
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(同じ動き)
別の光景が重なる。
暗い通路。でも、ここではない。もっと深い場所。壁が黒く、空気が重く、松明の炎が不自然に揺れている場所。
私は剣を振るっている。
同じ動き。
この動き、何度もやった。
身体が覚えている。
でも、いつ?
目の前のオークの顔が、別の何かに見える。もっと大きな、もっと恐ろしい何かに。記憶の中の敵。名前も姿も思い出せないが、確かに戦った。何度も、何度も。
一体目のオークの首を斬る。
血が噴き出す。
でも、その血さえも記憶と重なる。
何度見た光景だろう。
何度繰り返した動きだろう。
また光景が変わる。
無数の——剣?
剣が、刺さっている。
地面に。壁に。天井に。
まるで墓標のように。
暗い場所。とても深い場所。
そして、誰かの声。
「セリア、左だ!」
男の声。力強く、頼もしい声。知らない声のはずなのに、心のどこかが反応する。懐かしい。温かい。信頼できる。
でも、誰?
「っ……」
私は動きを止めた。
目の前が霞む。現実と記憶の境界が曖昧になる。私はどこにいる?19階層?それとも記憶の中?
オークの剣が、頭上から振り下ろされる——
「セリアさん!」
アシュの叫び声が、私を現実に引き戻した。
反射的に身体が動く。横に跳ぶ。オークの剣が石畳に叩きつけられ、火花が散る。轟音。振動。
反撃。
剣を横に薙ぐ。オークの胸を深く斬り裂く。倒れる音。重い。
残り3体。
私は意識を集中させる。今は戦わなければならない。記憶は後だ。今、ここで死んでしまったら、何も思い出せない。
剣を構え直す。
オークたちが警戒しながら近づいてくる。さっきまでの勢いはない。仲間が二体も瞬殺されたのを見て、私の危険性を理解したのだろう。
それでも、彼らは襲いかかってきた。
私は——思考を空にする。
身体に任せる。
剣が、勝手に動く。
一体を斬る。
また一体を斬る。
最後の一体が逃げようとする。
私は追う。
剣を振るう。
背中を斬る。
すべて終わる。
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「セリアさん!」
アシュが駆け寄ってきた。
「今、動き止まりましたよね!?」
私は荒い息を整えながら、剣を鞘に収める。
「……すまない」
「大丈夫ですか!? さっき、明らかに変でした!」
アシュの顔は真剣だった。本気で心配してくれている。
「……大丈夫だ」
「嘘です!」
アシュは珍しく強い口調で言った。
「明らかにおかしいです! 一度、地上に戻りましょう!」
「……いや」
「でも! このまま進んだら危険です! さっきだって、あと少しで——」
「……もう少しだ」
私は顔を上げた。アシュの目を見る。
「もう少し?」
「……20階層」
アシュは眉をひそめる。
「20階層?」
私は頷いた。
「20階層まで行けば……何かわかる気がする」
「何かって、何がですか?」
「……記憶だ」
私は自分の頭に手を当てる。ズキズキと痛む。
「記憶が、戻ろうとしている。封じられていた何かが、解けようとしている」
アシュは困った顔をする。それでも、彼は反論しなかった。少し沈黙があって、小さく息を吐く。
「……わかりました。でも、無理はしないでください」
「……ああ」
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19階層の最深部に到着した時、私たちは階段の前に立っていた。
20階層への階段。
石造りで、古く、他の階段とは明らかに違う雰囲気を持っている。いや、本当に違うのか?それとも、私の混乱した意識がそう感じさせているだけなのか?
「……あれだ」
私は階段に向かった。アシュは心配そうについてくる。
階段の前に立つ。下を覗き込む。暗い。深い。何かが待っている気がする。恐ろしい何かが。でも、同時に——答えが。
私は一段降りた。
また一段。
頭痛が強くなる。ズキン、ズキンと脈打つように痛む。
(来るな)
声?
誰の声だ?
(まだ早い)
男の声。知らない声。でも、どこかで聞いた気がする。
(戻れ)
でも、私は進む。降り続ける。
(セリア——)
その声には、悲しみが混じっていた。
私は——誰かを、裏切っているのだろうか?
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階段を降りきった。
20階層。
足を踏み入れた瞬間、何かが変わった気がした。いや、本当に変わったのか?空気が重い気がする。壁の色が暗い気がする。でも、それは錯覚かもしれない。記憶の混乱が、私の感覚を狂わせているのかもしれない。
「……ここが、20階層」
アシュが小さく呟く。
「何か……違いますね」
私は周りを見回す。本当に違うのか?それとも、アシュも私の不安を感じ取って、そう思い込んでいるだけなのか?
「……ああ」
そう答えた瞬間、頭痛が爆発した。
「っ……!」
膝をつく。視界が歪む。床が揺れる。いや、揺れているのは私の意識だ。
「セリアさん!!」
アシュの声が遠い。遠く、遠く離れていく。
視界が暗くなる。
意識が——
落ちる。
深く、深く。
暗闇の中へ。
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暗闇。
でも、少しずつ光が見えてくる。
ぼんやりとした光。松明の光?いや、違う。もっと柔らかい、温かい光。
どこ?
ここは、どこ?
光景が浮かび上がる。
石造りの通路。でも、19階層でも20階層でもない。もっと深い場所。壁が黒く、天井が高く、空気が重い場所。
私は——
誰かと一緒にいる。
4人の影が見える。
男が3人。女が1人。
顔は見えない。影のように、輪郭だけがぼやけている。でも、そこに確かに人がいる。
「セリア、大丈夫か?」
男の声。力強く、頼もしい声。
私は——知っている。この声を知っている。でも、誰?
「……大丈夫」
私の声。でも、こんな会話をした記憶はない。いや、忘れているだけ?封じられているだけ?
「無理するな。お前は頑張りすぎる」
別の男の声。優しく、穏やかな声。まるで兄のような。いや、兄?この人は——
「セリア、休憩しようよ。ここまで来ただけで十分すごいんだから」
女の声。心配そうで、温かい声。姉妹のような。友達のような。
私は笑っている。
笑顔で答えている。
「……みんな、ありがとう。でも、大丈夫。まだ行ける」
胸が温かい。
この感覚——
仲間。
私には、仲間がいた。
一人じゃなかった。
孤独じゃなかった。
でも、今は——
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光景が変わる。
暗い場所。さらに深い場所。
壁が完全に黒い。空気が重く、呼吸するだけで疲れる。
「……ここは?」
私が尋ねる。声が震えている。
「300階層だ」
力強い声が答える。さっきと同じ声。
「300……」
私は周りを見回す。暗すぎて、ほとんど何も見えない。松明の光さえも、数メートル先で闇に吸い込まれる。
「まだ、200階層も残ってる」
私が呟く。絶望的な数字だ。
「……行けるのか?」
「行くしかない」
優しい声が答える。でも、その声には決意が込められている。
「世界のために」
女の声。
「……世界?」
私は尋ねる。世界?何を言っているんだ?
「ああ。すべてが、500階層にある」
力強い声が答える。
「真実が。剣の秘密が。世界の運命が。だから、俺たちは行く。何があっても」
「でも、危険だ」
優しい声が言う。その声は、どこか怯えている。
「ここから先は、誰も帰ってこない。300階層以降の生還率は、ほぼゼロだ」
「それでも、行くの?」
女の声が尋ねる。
私は——
答える。
「……行く。私が、行かなければならない」
「なぜ?」
「……空虚の剣だから」
沈黙。
3人が、私を見ている。顔は見えないのに、視線を感じる。
「セリア……」
力強い声が、少し震える。
その先が——
途切れる。
光景が揺れる。
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また、光景が変わる。
誰かが、私の前に立っている。
男だ。大きな影。顔は見えない。でも、この人は——
「セリア」
力強い声。さっきと同じ声。
「お前の剣は特別だ」
「……特別?」
私は自分の剣を見る。空虚の剣。漆黒の刃。
「空虚の剣。何も宿っていない剣。前の持ち主の記憶もない。意思もない。ただ、空っぽなだけ」
「……ああ」
「だから——」
男は私の肩に手を置く。温かい手。大きな手。
「誰にも侵されない。剣に支配されない。お前だけが、自由だ」
「……」
「他のみんなは、剣に支配されている。気づいていないだけで、剣の意思に従わされている。でも、お前は違う」
「私は……」
「お前だけが、真実を見られる。お前だけが、剣の支配から逃れられる」
男の声が、力強く響く。
「だから、お前が行くんだ。500階層に。お前が、世界を救う」
「私が……世界を……?」
その瞬間——
光景が激しく揺れた。
頭痛。
激しい、耐えがたい頭痛。
まるで頭の中で何かが爆発したような。
記憶が途切れる。
光景が崩れる。
暗闇に落ちる。
深く、深く、深く——
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「セリアさん!!」
アシュの声が聞こえる。
必死の声。
私は目を開けた。石の天井が見える。20階層だ。現実だ。
「大丈夫ですか!?」
アシュが私を支えている。顔が青ざめている。泣きそうな顔だ。
「……ああ」
私はゆっくり立ち上がる。身体が重い。頭がまだ痛い。でも、さっきよりはマシだ。
「今、何があったんですか!? 倒れて、呼びかけても反応しなくて……」
「どれくらい?」
「5分……いや、もっとかもしれません……」
アシュは震えている。本当に心配してくれたのだ。
「……すまない」
私は壁に寄りかかる。呼吸を整える。
「……記憶だ」
「記憶?」
私は頷く。
「……思い出した。少しだけ」
私は自分の手を見る。震えている。
「私には、仲間がいた」
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アシュも隣に座った。二人とも、しばらく黙っている。
私は口を開く。
「……4人。私には、4人の仲間がいた」
アシュは息を呑む音を立てた。
「男が3人、女が1人。一緒に、深層を目指していた」
「……どこまで?」
「……300階層まで」
「300階層……」
アシュは信じられないという顔をする。当然だ。300階層など、伝説の領域だ。
「それで……その人たちは、今?」
私は首を振った。
「……わからない。記憶が、断片的なんだ。顔も見えない。名前も思い出せない。でも、確かにいた。温かい声。優しい言葉。一緒に戦った記憶」
アシュは黙って聞いている。
「そして……私は、500階層に行った」
「一人で?」
「……わからない。でも、行った」
私は剣を見る。空虚の剣。
「何のために?」
「……真実のため」
私は少し考える。記憶の断片を繋ぎ合わせる。
「空虚の剣は、特別だと。誰にも侵されないと。剣に支配されないと。だから、私が行くべきだと」
「誰が、そう言ったんですか?」
「……仲間の一人。男の声。力強い声」
私は目を閉じる。
「私だけが、真実を見られる。私だけが、自由だ。だから、500階層に行って、世界を救う。そう、言われた」
「世界を……救う?」
「……ああ」
でも、と私は続ける。
「……何があったのか、思い出せない。500階層で、何を見たのか。なぜ、記憶を失ったのか。仲間はどうなったのか。わからない」
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アシュは深く考え込んでいる。
「でも……なぜ、記憶を失ったんですか?」
「……わからない」
「500階層で、何かあったんですか? 何か、恐ろしいことが?」
「……」
私は答えられない。思い出せないのだ。ただ、暗闇と、無数の剣と、誰かの声だけ。
「でも、一つだけわかった」
「何ですか?」
私は立ち上がる。
「……私は、500階層に行った。それは、事実だ。ギルドカードの記録は、嘘じゃない」
アシュも立ち上がる。
「じゃあ、どうして誰も信じないんですか? なぜみんな、詐欺だって言うんですか?」
「……わからない。でも」
私は通路を見る。暗い通路。深層への道。
「進めば、わかる。もっと深層に行けば、記憶が戻る。そして、真実がわかる」
アシュは頷く。
「……わかりました。僕も、ついていきます」
「……ああ」
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私たちは20階層を進み始めた。
通路は暗く、松明の明かりだけが道を照らしている。足音が響く。私の頭の中は、まだ混乱している。
仲間がいた。
4人の仲間。
一緒に、300階層まで行った。
でも、今はいない。
なぜ?
何があった?
そして、私は500階層に行った。
空虚の剣だから。
誰にも侵されないから。
真実を見られるから。
世界を救うため。
でも——
記憶を失った。
仲間を失った。
すべてを失った。
なぜ?
答えは、まだ遠い。
でも、確実に近づいている。
記憶が、少しずつ戻ってきている。
次は、何を思い出すのだろう。
仲間の顔?
名前?
それとも——
500階層で、何があったのか。
私が、何を見たのか。
なぜ、記憶を封じられたのか。
すべての答えが、深層にある。
私は、進む。
真実へ。
過去へ。
自分自身へ。
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20階層。
記憶の扉が開いた。
少女は、自分の過去を知り始めた。
仲間がいたこと。
一緒に戦ったこと。
深層を目指したこと。
そして、空虚の剣の意味。
それが特別な剣であること。
誰にも侵されない、自由な剣。
だから、彼女が選ばれた。
500階層に行くために。
世界を救うために。
でも、何があったのか。
まだ、わからない。
記憶は断片的で、真実は遠い。
それでも、彼女は進む。
一歩ずつ、確実に。
深層へ。
暗闇の中へ。
答えを求めて。




