第18層 セリア「私の剣は、何も言わない」
私は一人、ギルドにいた。
アシュは宿で休んでいる。15階層での戦闘で疲れているはずだ。
報告書を提出すると、受付嬢が困った顔をした。
「セリアさん、15階層到達おめでとうございます」
「……ああ」
受付嬢は少し間を置いてから、言いづらそうに口を開く。
「あの……剣との相性、大丈夫ですか?」
私は眉をひそめる。
「……どういう意味だ」
「いえ、その……」
受付嬢は視線を逸らす。
「剣の声は……聞こえていますか?」
沈黙。
私は答えない。
受付嬢は私の表情を窺うように見て、小さく息を吐いた。
「やっぱり……聞こえないんですね」
「それで15階層まで行けるなんて……すごいです」
その「すごい」という言葉。
本心ではない。
本当は「異常」と言いたいのだろう。
私にはわかる。
この世界で、剣の声が聞こえないということが、どれほど異常なことか。
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「セリアさん」
背後から、柔らかい声がした。
振り向くと、ミラがいた。
アビスの職員服を着た、優しい印象の女性。茶色のセミロングの髪が、光を受けて柔らかく揺れている。
「……ミラ」
「お久しぶりです」
ミラは微笑む。
いつも、この人は微笑んでいる。
私を疑わず、最初から信じてくれた、唯一の人。
「少し、お時間いいですか?」
「……ああ」
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ギルドの奥、面談室。
ミラが二つのカップを持ってきた。湯気が立ち上る。
「お茶、どうぞ」
「……ありがとう」
カップを両手で包む。温かい。
ミラは私の向かいに座った。
「15階層まで行かれたんですね」
「……ああ」
「すごいです。順調ですね」
ミラの言葉に、棘はない。
本当に、そう思っているらしい。
「……周りは、そう思っていない」
「え?」
「剣の声が聞こえない。それで冒険者をやっているのは、異常だと」
ミラは少し困ったように眉を下げる。
「……そういう声、ありますね」
「……ああ」
「でも」
ミラは真剣な顔で私を見た。
「私は思いません」
「セリアさんは、セリアさんのやり方で戦っている」
「それでちゃんと結果を出している」
「異常なんかじゃないです」
私は何も言えなかった。
この人は、いつもそうだ。
最初から、私を信じてくれた。
疑わず、優しく接してくれた。
唯一の、味方。
「……ありがとう」
小さく、そう言った。
ミラは優しく微笑む。
「いえ。私、セリアさんを応援してますから」
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少し沈黙があって、私は尋ねた。
「ミラの兄は……剣の声、聞こえていたのか」
ミラは少し驚いたように目を見開く。
「……はい」
「よく話していました」
ミラは遠い目をする。
「『剣が厳しい』って、笑いながら」
「兄は、剣に導かれて強くなりました」
「前の持ち主の記憶を受け継いで」
「技術も、知識も、戦い方も」
「それで、150階層まで行けた」
ミラの声が、少し震える。
「……でも、死んだ」
「……ああ」
ミラは静かに頷いた。
「剣の声が聞こえても、死ぬ時は死ぬんです」
「だから、セリアさんが剣の声を聞けなくても」
「それは、弱いということじゃないです」
私はミラを見る。
この人は、本気でそう思っている。
兄を失った悲しみを抱えながらも。
私を、励ましてくれている。
「……ありがとう」
「いえ」
ミラは微笑む。
「セリアさんは、頑張ってます」
「私には、それがわかります」
「だから……無事で帰ってきてくださいね」
「……努力する」
ミラは小さく笑った。
「それだけで十分です」
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ギルドを出る。
ロビーでは、冒険者たちが思い思いに過ごしている。
装備を整える者。
仲間と談笑する者。
報告書を書く者。
そして——
私を見る者。
ヒソヒソと話す声が聞こえる。
「あいつ、セリアだろ?」
「500階層到達って記録のやつ」
「詐欺だって噂じゃん」
「でも、15階層まで行ってるらしいぞ」
「剣の声、聞こえないんだってさ」
「マジで? それで冒険者やってんの?」
「欠落者じゃないのか?」
私は無視して、街へ出た。
扉を閉める音が、やけに大きく響いた。
……剣の声が聞こえない。
それが、どれほど異常か。
この世界では、誰もが知っている。
剣は導いてくれる。
前の持ち主の記憶を教えてくれる。
戦い方を。
危険の予兆を。
最適な判断を。
それが、「普通」。
でも、私には何もない。
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街を歩く。
始祖の都ルミナス。
最も古い都市。
石畳の道。
商店が並ぶ通り。
人々の賑わい。
私は、人々を観察する。
**剣を磨く冒険者:**
広場のベンチに座って、剣を磨いている若い男。
彼は剣に話しかけている。
「ああ、わかってるよ」
「もっと鍛えろって言いたいんだろ?」
笑顔で剣に語りかける。
剣は答えない。
当たり前だ。
でも、男は何かを「感じている」。
剣の思考を。
それが、この世界の常識。
**訓練する冒険者:**
広場の隅で、若い女性が剣の訓練をしている。
動きが滑らか。
一つ一つの動作に無駄がない。
「そうか、こう動けばいいのか」
彼女は呟く。
誰に話しているのか。
剣だ。
剣が教えている。
前の持ち主の記憶が、技術を伝えている。
**親子:**
噴水の前で、親子が立っている。
子供——10歳くらいの男の子——が剣を握りしめている。
「お父さん、剣が喋った!」
「そうか、良かったな」
父親は優しく頭を撫でる。
「優しい声だよ! 『一緒に頑張ろう』って!」
子供は嬉しそうに笑っている。
それを見る父親も、嬉しそうだ。
みんな、剣と共にいる。
剣と対話し、剣に導かれ、剣に感謝している。
それが、この世界の「普通」。
それが、「人間」。
でも、私には——
何もない。
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武器屋に立ち寄った。
剣の手入れ用品を買うため。
扉を開けると、鐘の音が鳴る。
「いらっしゃい……」
店主が顔を上げて、私を見る。
そして、顔をしかめた。
「……あんた、セリアだろ?」
「……ああ」
店主は50代くらいの男。髭を生やし、腕には無数の傷跡がある。元冒険者だろうか。
「噂は聞いてる。剣の声が聞こえないとか」
「……」
店主は首を振った。
「よくそれで冒険者やってられるな」
「剣の導きなしで、どうやって戦ってるんだ?」
「……自分で、考える」
「自分で?」
店主は目を見開いた。
「そんなの、不可能だろ」
「敵の動きを予測して、最適な動きを選んで」
「それを一瞬で判断するなんて」
「人間には無理だ」
店主は腕を組む。
「だから、剣が導いてくれるんだ」
「前の持ち主の経験と記憶が、俺たちを助けてくれる」
「それが、この世界のシステムだ」
店主は私を見る。
「あんた、本当に人間か?」
私は何も答えなかった。
答えられなかった。
手入れ用品を黙って買い、店を出た。
扉を閉める音が、やけに冷たく響いた。
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宿の部屋。
一人、剣を見つめている。
空虚の剣。
漆黒の刃。
シンプルな柄。
何の装飾もない。
そして——
何も語らない。
なぜ、私は強いのか。
剣の導きなしで、なぜ戦えるのか。
店主の言う通り、人間には不可能なはずだ。
一瞬で敵の動きを予測し、最適な動きを選ぶ。
複数の敵を同時に相手にする。
背後からの攻撃を、気配だけで察知する。
それを、剣の助けなしに。
でも、私はできる。
なぜ?
……身体が、覚えている。
記憶はなくても、身体は覚えている。
でも、それは——
おかしい。
私は500階層に行ったと言われている。
ギルドカードに、そう記録されている。
でも、覚えていない。
記憶がない。
なのに、身体は覚えている。
戦い方を。
敵の動きを。
危険の予兆を。
矛盾している。
私は、誰なんだ。
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夕食。
宿の食堂で、アシュと向かい合う。
他の宿泊客たちが、テーブルを囲んで食事をしている。笑い声が響く。
「セリアさん、今日どうしてたんですか?」
「……街を、見ていた」
「街?」
「……この世界のことを、知りたかった」
アシュは首を傾げる。
「セリアさん、記憶がないんでしたよね」
「……ああ」
「だから……この世界のこと、わからないんですか?」
「……わからない」
私は剣を見る。腰に下げたまま。
「みんな、剣と話している」
「剣に導かれている」
「それが、普通だと知った」
アシュは頷く。
「そうですね。みんな、そうです」
「僕も、剣に助けてもらってます」
「でも、私には聞こえない」
「……」
「なぜだと思う」
アシュは困ったように眉を寄せる。
「わかりません……でも」
「もしかしたら、セリアさんの剣は特別なのかも」
「特別?」
「はい。だって、セリアさんあんなに強いんです」
「剣の導きなしで、あれだけ戦える」
「普通じゃないです」
「それって、すごいことだと思います」
普通じゃない。
異常。
でも、アシュは褒めているつもりらしい。
純粋な目で、私を見ている。
私は何も言わなかった。
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翌日。
再びダンジョンへ。
16階層を順調に進む。
石造りの通路。
松明の明かりが、壁を照らす。
足音だけが響く。
そして——
5体のホブゴブリンが現れた。
「……1体、お前がやれ」
「はい!」
アシュは1体と対峙する。
私は4体を相手にする。
アシュの戦いは、滑らか。
効率的。
無駄がない。
剣が教えているのだろう。
(右に避けろ)
(今だ、斬れ)
剣の思考が、アシュの思考として浮かんでいる。
彼は従う。
そして、勝つ。
私の戦いは——
自分で考える。
一体目が右から襲ってくる。
距離を測る。
タイミングを計る。
敵の剣の軌道を予測する。
避ける。
反撃。
首を斬る。
二体目が背後から。
気配を感じる。
振り向かず、背後に剣を突き出す。
心臓を貫く。
三体目、四体目が左右から同時に——
動きを予測する。
最適な軌道を計算する。
剣を横に薙ぐ。
両方とも、倒れる。
すべて終わる。
数十秒。
「すごい……」
アシュが呟く。
「セリアさん、どうやってるんですか?」
「剣の声がないのに、あんなに速く」
「あんなに正確に」
「……わからない」
本当にわからない。
ただ、身体が動く。
考えるより先に。
まるで、何度も繰り返してきたように。
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17階層。
通路を進んでいると、違和感がある。
空気が、重い。
湿度が上がる。
何かが、変わった。
「セリアさん?」
「……この先、何かいる」
「え?」
「気配が……変わった」
アシュは剣を構える。
「剣が、何か言ってますか?」
アシュは少し考える。
「……いえ、特には」
「何も感じませんか?」
「……いえ、僕は何も」
「……そうか」
私だけが、感じている。
気配。
空気の変化。
何か、大きなものがいる。
これも、おかしい。
普通の人間には、できないはずだ。
剣が警告してくれるから、冒険者は危険を察知できる。
でも、私の剣は何も言わない。
なのに、私は感じる。
なぜ?
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18階層への階段。
石の階段を、慎重に降りる。
一段、また一段。
そして——
18階層。
雰囲気が、また変わる。
壁の色が暗くなる。
黒に近い灰色。
湿度がさらに上がる。
空気が重い。
「18階層……」
アシュが呟く。
「ここから、Eランクモンスターが増えるって聞きました」
「……ああ」
通路を進む。
足音が、やけに響く。
そして——
現れた。
6体のホブゴブリン。
3体のオーク。
合計9体。
アシュは息を呑む。
「9体……」
オークは大きい。
ホブゴブリンの1.5倍はある。
筋肉質な身体。
手には巨大な大剣。
「……お前は下がれ」
「で、でも!」
「下がれ」
私は前に出た。
剣を抜く。
9体が、私を囲む。
そして——
一斉に襲いかかってきた。
-----
私は、動く。
考えない。
身体が、勝手に動く。
一体目、ホブゴブリン。
剣を振り下ろす。
首を斬る。
二体目、オーク。
大剣が振り下ろされる。
横に避ける。
反撃、腕を斬る。
三体目、ホブゴブリンが背後から——
振り向かず、背後に剣を突き出す。
胸を貫く。
四体目、五体目が左右から——
剣を横に薙ぐ。
両方とも倒れる。
六体目、オーク。
大剣が横に薙がれる。
下に潜り込む。
反撃、胸を貫く。
七体目、八体目、ホブゴブリン二体が同時に——
剣を振るう。
一閃。
両方とも、首が落ちる。
九体目、最後のオーク。
怯えている。
でも、襲いかかってくる。
私は——
剣を振り上げる。
振り下ろす。
オークが、倒れる。
すべて終わる。
一分以内。
「……嘘だろ」
アシュの声が聞こえる。
「9体を、一人で……」
「しかも、あんなに速く」
「一分もかかってない」
アシュは私を見る。
目を見開いている。
「セリアさん……本当に、剣の声聞こえてないんですか?」
「……ああ」
「じゃあ、どうやって……」
「あんなに速く動けるんですか」
「あんなに正確に」
「まるで、すべてがわかってるみたいに」
私は答えられない。
わからないから。
自分でも、わからない。
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休憩。
私は壁に寄りかかる。
アシュは少し離れた場所に座っている。
まだ、信じられないという顔をしている。
私は、自分の手を見る。
震えていない。
息も、乱れていない。
9体のモンスター。
それを、一分で倒した。
普通じゃない。
人間離れしている。
店主の言葉を思い出す。
「あんた、本当に人間か?」
……わからない。
頭が、少し痛い。
「セリアさん、大丈夫ですか?」
「……ああ」
でも、違和感がある。
さっきの戦い。
私は、考えていなかった。
身体が勝手に動いた。
まるで——
何度も、繰り返してきたように。
まるで——
これが、当たり前のように。
(……違う)
声?
誰の声?
(これは、私の記憶じゃない)
何を言っているんだ、私は。
頭痛が強くなる。
ズキズキと痛む。
「セリアさん!」
アシュが駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「顔色が悪いです!」
「……大丈夫だ」
頭痛が、少し引く。
でも、確かに何かが——
記憶の断片。
それが、蘇ろうとしている。
封じられていた何かが。
少しずつ、解けようとしている。
-----
夜。
野営。
アシュは眠っている。
規則正しい寝息。
私は一人、剣を見つめている。
空虚の剣。
何も語らない剣。
漆黒の刃が、松明の光を反射して鈍く光る。
……この剣は、何も教えてくれない。
前の持ち主の記憶もない。
導きもない。
助言もない。
ただ、沈黙しているだけ。
でも——
もしかしたら。
この剣が沈黙しているから。
私は、自由なのかもしれない。
アシュは、剣に支配されている。
自分の意思だと思っているが、実際は剣の思考に従っている。
他の冒険者たちも、そうだ。
剣の声を聞き、剣に従い、剣に導かれる。
それが、「普通」。
それが、この世界の「人間」。
でも、私は違う。
誰にも支配されていない。
剣にも。
記憶にも。
過去にも。
完全に、自由。
でも——
それは、孤独でもある。
誰とも繋がっていない。
何にも支えられていない。
ただ、一人で戦っている。
ミラの言葉を思い出す。
「セリアさんは、セリアさんのやり方で戦っている」
「異常なんかじゃないです」
……ありがとう、ミラ。
あなただけが、私を信じてくれた。
でも、私にもわからない。
なぜ、私はこんなに強いのか。
なぜ、剣の導きなしで戦えるのか。
なぜ、人間離れした動きができるのか。
その答えは——
(お前は、特別だ)
また、誰かの声。
記憶の断片。
男の声。
優しく、力強い声。
(だから、選ばれた)
(空虚の剣は、誰にも侵されない)
(お前だけが——)
その先が、聞こえない。
頭痛。
私は頭を押さえる。
(お前だけが、真実を見られる)
声が、消える。
私は目を閉じた。
答えは、まだ遠い。
でも、確実に近づいている。
深層へ。
真実へ。
記憶の、奥底へ。
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18階層。
空虚の剣を持つ少女は、孤独だった。
誰にも理解されない。
剣の声が聞こえない異常者。
でも、異常なほど強い。
矛盾した存在。
それが、セリア。
でも——
一人の味方がいた。
ミラ。
優しく、献身的な女性。
彼女だけが、セリアを信じてくれた。
それが、小さな光だった。
暗闇の中の、小さな光。
そして——
記憶が、少しずつ蘇り始めている。
封じられていた何かが。
解けようとしている。
次の階層で。
何かが、起きる。
真実の、扉が開く。
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