第16層 剣の声
12階層。
私たちは通路の脇で休憩を取っていた。10階層を突破してから、2日目の夜。順調に進んでいる。
松明の明かりが揺れている。
アシュは傷の手当てを終え、壁に寄りかかっていた。疲れているが、その表情には充実感がある。
私も壁に背を預けた。身体は疲れていない。この程度の階層は、私にとって負担ではない。
沈黙。
二人とも無言で、松明の音だけが響いている。
アシュは自分の剣を見つめていた。儀式で授かった剣。彼の相棒。
愛おしそうに、剣の刃を布で拭っている。
「……ありがとう」
アシュが小さく呟いた。
私は顔を上げる。
「……?」
アシュは剣を見つめたまま、微笑んでいる。
「今日も、助けてくれたね」
誰に言っている?
剣に、か。
私は自分の剣を見る。
空虚の剣。
漆黒の刃。
何も語らない。
何も感じさせない。
それでいいと、思っていた。
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「セリアさん」
アシュが顔を上げた。
「……何だ」
「戦ってる時、不思議なことがあるんです」
「不思議なこと?」
アシュは剣を見つめる。
「戦ってると……なぜか、次の動きがわかるんです」
私は眉をひそめる。
「どういうことだ」
「例えば、右に避けるべきか左に避けるべきか」
「なぜか、わかるんです」
「考える前に、体が動く」
アシュは不思議そうに首を傾げる。
「最初は、自分の勘が鋭くなったのかなって思ってました」
「でも……違う気がするんです」
「まるで、誰かが教えてくれてるみたいで」
私は何も言わず、アシュを見た。
「僕、剣のおかげで強くなってる気がします」
アシュは剣を撫でる。
「不思議ですよね。剣を持ってると、自信が湧いてくるんです」
「『僕なら、できる』って」
「それが、どこから来るのかわからないんですけど」
……剣。
私は自分の剣を見る。
それは、剣の影響なのか?
「セリアさんは……どうですか?」
アシュが尋ねる。
「剣を持ってると、何か感じますか?」
私は剣を見つめた。
空虚の剣。
「……何も」
「え?」
「何も、感じない」
アシュは驚いた顔をした。
「そんな……でも、セリアさんあんなに強いのに」
私は首を振る。
「自信も湧かない」
「導きも、ない」
「ただ、剣があるだけ」
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13階層。
通路を進んでいると、5体のホブゴブリンが現れた。
私は剣を抜く。
ホブゴブリンが襲いかかる。
戦いながら、私は考えていた。
……アシュの言葉。
戦ってると、次の動きがわかる。
誰かが教えてくれてるみたい。
それは——
一体を斬る。
二体目が背後から襲ってくる。
私は振り向かず、背後に剣を突き出す。
貫かれるホブゴブリン。
……私も、わかっている。
次の動き。
敵の位置。
最適な軌道。
でも、それは——
身体が覚えているだけだ。
記憶はなくても、身体は覚えている。
剣の導きではない。
三体目、四体目、五体目——
すべて倒した。
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アシュは2体のホブゴブリンと戦っていた。
一体が剣を振り下ろす。
アシュは——
(右だ)
ふと、そう思ったらしい。
アシュは右に跳ぶ。
ホブゴブリンの剣が空を切る。
(今だ)
そう思ったように見えた。
アシュは剣を振るう。
一体が倒れる。
二体目が襲いかかる。
(避けるな、受け止めろ)
アシュの表情が変わる。
剣で受け止める。
衝撃。
でもアシュは踏ん張る。
(押し返せ)
アシュは力を込めて、剣を押し返した。
バランスを崩すホブゴブリン。
(斬れ)
アシュは剣を振り下ろす。
二体目が倒れる。
「……やった」
アシュは息を切らしている。
「なんか……今日は、すごく調子がいい」
「次の動きが、自然に浮かんでくる」
私はアシュを見ていた。
……あれは、本当に彼自身の判断か?
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休憩中、アシュは嬉しそうに語った。
「セリアさん、僕、成長してます!」
「今日の戦い、自分でもびっくりするくらいうまく動けました」
「……そうか」
「剣を持ってると、なんていうか……」
アシュは言葉を探す。
「守られてる感じがするんです」
「一人じゃない、みたいな」
「剣が、一緒に戦ってくれてる」
アシュは剣を見つめる。
「不思議ですよね。剣は喋らないのに」
「でも、確かに感じるんです」
私は何も言わない。
……剣が、一緒に戦ってる。
それは本当なのか。
それとも——
「セリアさんの剣は……どうですか?」
私は自分の剣を見る。
「……何も、感じない」
「守られてる感じも、ない」
「ただ、冷たいだけ」
アシュは困惑した顔をする。
「でも、セリアさんは強いです」
「剣の助けがなくても、あんなに戦える」
「それって、すごいことですよ」
……剣の助け。
私には、ない。
でも、アシュには、ある。
なぜ。
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夜。
アシュは先に休んでいる。
私は一人、考えていた。
……アシュの戦い方。
あれは、本当に彼自身の判断なのか。
「右だ」と思った。
「今だ」と思った。
「避けるな、受け止めろ」と思った。
本当に、それはアシュが考えたのか?
それとも——
私は自分の剣を見る。
空虚の剣。
何も語らない。
何も導かない。
もし。
もし、他の剣が持ち主に「思考」を送っているとしたら。
もし、持ち主が「自分で考えた」と思っているだけで、実際は剣に導かれているとしたら。
それは——
恐ろしいことだ。
自分の意思だと思っていることが、実は他者の意思。
気づかないまま、操られている。
そして、私の剣だけが。
何も送ってこない。
完全な沈黙。
……それは、良いことなのか。
悪いことなのか。
私はアシュを見る。
彼は安らかに眠っている。
「剣に守られている」と信じて。
でも、本当にそうなのか。
私には、わからない。
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記憶の断片が、フラッシュバックする。
誰かの声。
「セリア、お前の剣は特別だ」
「誰にも侵されない」
「だから——お前だけが、真実を見られる」
その先が、聞こえない。
真実。
何の真実だ。
剣の真実か。
私は剣の柄を握る。
「……お前は、何も言わない」
「それが、答えなのか」
沈黙。
ただ、冷たいだけ。
でも。
「……お前が沈黙しているから」
「私は、自由なのか」
答えはない。
それでも、私は剣を握りしめた。
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翌朝。
アシュは目覚めると、すぐに剣を見た。
「おはよう」
剣に語りかける。
もちろん、剣は答えない。
でもアシュは微笑む。
まるで、返事があったかのように。
私はその様子を見ていた。
……彼は、幸せそうだ。
剣に導かれていると信じて。
一人じゃないと信じて。
でも。
それは、本当に良いことなのか。
私にはわからない。
「行くぞ」
私は立ち上がる。
「はい!」
アシュも立ち上がった。
二人で通路を歩き始める。
アシュは、自分が導かれていることに気づいていない。
私は、何にも導かれていない。
どちらが、正しいのか。
どちらが、幸せなのか。
答えは、まだ出ない。
ただ、一つだけ確かなのは——
私たちは、進んでいる。
深層へ。
真実へ。
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13階層。
空虚の剣を持つ少女と、導かれる少年。
二人の旅は続く。
まだ、誰も気づいていない。
剣の本当の恐ろしさに。
思考に侵入し、意思を操る静かな支配に。
そして——
空虚の剣だけが、その支配から逃れていることに。
セリアだけが、完全に自由であることに。
でもその自由は、孤独でもある。
導きのない道を、一人で歩く孤独。
それが、空虚の剣の代償。
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剣の真実が、少しずつ明らかになる。
優しい導きの裏に隠された、恐ろしい支配。
自分の意思だと信じていることが、実は他者の意思。
気づかないまま、深層へと誘われる冒険者たち。
そして——
500階層で待つ、剣の墓場。
10万本の剣が、新しい器を待っている。
世界の終焉が、近づいている。
でも、まだ誰も気づかない。
セリアだけが、その鍵を握っている。
空虚の剣と共に。




