第13層 少年アシュ
5階層の石造りの通路を、私は淡々と歩いていた。
松明の明かりが石壁を照らし、影を長く伸ばしている。足元には古い血痕が残り、壊れた剣の欠片が転がっていた。誰かがここで戦ったのだろう。そして、恐らく生きて帰れなかった。
私の手には空虚の剣。漆黒の刀身は光を反射せず、ただ暗闇を纏っている。
この剣は何も語らない。
何も感じさせない。
ただ、冷たいだけ。
それでいいと思っていた。
通路の先から、獣の唸り声が聞こえる。私は剣を構え、足音を殺して進んだ。角を曲がると、そこには2体のゴブリンがいた。Fランクのモンスター。緑色の肌に、醜悪な顔。粗末な短剣を握りしめている。
私の姿を見て、ゴブリンたちが襲いかかってきた。
身体が勝手に動く。
一歩踏み込み、剣を一閃。最初のゴブリンの首が飛ぶ。返す刀で二体目を斬り捨てる。血飛沫が石壁に散った。
2秒。
それだけで終わった。
私は剣を振り、血を払う。ゴブリンの死骸を一瞥し、再び歩き始めた。
……慣れてきた。
この違和感に。
身体が覚えているという感覚に。
記憶はないのに、戦い方だけは刻まれている。
5階層は簡単すぎる。ここにいるモンスターは、私にとって脅威ではない。でも油断はしない。ダンジョンは常に死と隣り合わせだ。それだけは、身体が知っている。
通路を進んでいると、突然、悲鳴が聞こえた。
「誰か! 助けてください!」
少年の声だ。
私の足が止まる。
……関わるべきか。
ダンジョンでは、他人を助ける余裕などない。それが常識だ。自分の命を守ることで精一杯。他人のために危険を冒す者は、愚か者と呼ばれる。
でも。
私の足は、すでに動いていた。
考えるより先に。身体が反応していた。まるで、何度もそうしてきたかのように。
通路を駆ける。悲鳴が大きくなる。角を曲がると、広い空間に出た。
そこには、3体のホブゴブリンがいた。
Eランクのモンスター。ゴブリンより一回り大きく、筋肉質な身体をしている。手には粗末だが鋭利な大剣。知能も高い。連携して獲物を追い詰める。
そして、壁際に追い詰められた少年。
16歳くらいだろうか。茶色の髪に、緑の瞳。傷だらけの軽鎧を身に纏い、自分の剣を震える手で握りしめている。顔は青ざめ、息は荒い。
ホブゴブリンたちが、ゆっくりと少年に近づいていく。
私は剣を抜き、一気に距離を詰めた。
最初の一体に斬りかかる。ホブゴブリンが振り向く間もなく、首を斬り落とす。二体目が大剣を振り上げた。私は低く身をかがめ、足を斬り裂く。バランスを崩したところに追撃。胸を貫いた。
三体目が咆哮を上げ、私に突進してくる。
私は冷静に剣を引き抜き、横薙ぎに振るう。ホブゴブリンの胴が斬り裂かれ、内臓が飛び散った。
静寂。
3体のホブゴブリンが、地面に転がっている。私は無傷。剣を振り、血を払った。
少年が、呆然と私を見ていた。
「あ……ありがとうございました!」
少年は息を切らしながら、私に駆け寄ってきた。顔には安堵と驚愕が入り混じっている。
「助かりました……本当に……」
「……」
私は何も言わずに、剣を鞘に収めた。少年を見る。傷はあるが、致命傷ではない。動ける。
「大丈夫か」
「は、はい! おかげさまで!」
少年は何度も頭を下げた。そして、恥ずかしそうに笑う。
「僕、アシュって言います。冒険者になって3ヶ月で……まだまだ未熟で……」
「……セリア」
「セリア、さん……ですか?」
「……構わない」
アシュと名乗った少年は、目を輝かせていた。傷だらけで、さっきまで死にかけていたというのに。その表情には、希望があった。
「すごい強いですね! あんな風に戦えるなんて……どうやったら……」
「……慣れだ」
「慣れ……ですか」
私はそれ以上、何も言わなかった。どう説明すればいいのかわからなかった。記憶がないとは言えない。身体が覚えているとも言えない。
「少し、休め」
私はそう言って、壁に寄りかかった。アシュも隣に座る。しばらく沈黙が続いた。
「あの……セリアさんは、どのくらいのランクなんですか?」
アシュが恐る恐る尋ねる。
「……わからない」
「え? わからない?」
「記録が、正しく表示されない」
「そんなことが……」
アシュは不思議そうに首を傾げた。そして、何かを思い出したように目を見開く。
「もしかして……噂の、500階層の……」
私は何も答えなかった。肯定も否定もしない。ただ、視線を逸らした。
アシュは息を呑む。
「本当なんですか……?」
「……」
私の沈黙が、答えだったのだろう。アシュの目が、さらに輝きを増した。憧れと興奮。そして、少しの恐れ。
「僕、冒険者になるのが夢だったんです」
アシュは堰を切ったように話し始めた。
「ルミナスの孤児院で育って……いつかダンジョンで成功して、みんなを楽にさせたいって……でも、才能がなくて」
彼の声には、悔しさが滲んでいた。
「3ヶ月やって、まだFランク。周りはもっと速く成長してる。僕、向いてないのかも……」
私は少年を見た。傷だらけの身体。震える手。それでも剣を握りしめている。
「……生きていれば、いい」
「え……?」
「それだけで、十分だ」
短い言葉だった。でも、それが私の本心だった。
500階層の記憶はない。でも、身体は覚えている。死と隣り合わせの戦い。失われた仲間。深淵の恐怖。
生きているだけで、価値がある。
アシュは目を丸くしていた。そして、ゆっくりと笑顔を浮かべた。
「……ありがとうございます」
彼の声は、少し震えていた。救われたような、そんな表情。
しばらくして、アシュは自分の剣を見つめた。
「僕の剣、儀式で授かったんです」
「……そうか」
「でも、まだ全然使いこなせなくて……」
彼は剣の柄を撫でる。愛おしそうに。
「時々、剣が温かくなるんです」
私の視線が、アシュの剣に向いた。
「……温かく?」
「はい。戦ってる時とか、危ない時とか。まるで、励ましてくれてるみたいで」
アシュは微笑んだ。純粋な笑顔だった。
私は自分の剣を見る。
空虚の剣。
温かさなど、一度も感じたことがない。
「……それは、剣が」
「え?」
「……いや、何でもない」
私は言葉を飲み込んだ。剣に意思があるのか。剣が語りかけてくるのか。それを確かめるには、まだ早い。
でも。
……温かい、剣。
私の剣は、冷たい。
何も語らない。
何も感じない。
でも、それでいい。
……本当に?
「セリアさん、これからどこへ?」
アシュの声が、私を現実に引き戻した。
「……深層へ」
「深層……! 僕も、いつかは……」
「……無理をするな」
私はそう言って、立ち上がった。アシュも立ち上がる。
「あの、また会えますか?」
「……わからない」
「そう、ですか……」
彼の表情に、少しだけ寂しさが浮かぶ。
「生きていれば」
私はそう言って、背を向けた。
「はい! 生きてます! また会いましょう、セリアさん!」
アシュの声が、背中に届く。
温かい声だった。
私は手を軽く上げて、通路へと消えた。
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一人に戻った通路を歩きながら、私は考えていた。
……温かい、剣。
アシュの剣は、彼に語りかけている。励ましている。
でも私の剣は。
冷たいまま。
空虚なまま。
なぜ。
記憶の断片が、フラッシュバックする。
誰かの声。
「セリア、剣を信じろ」
深層の光景。
無数の剣が刺さる場所。
そして——
温かい感覚。
……昔は、あった……?
私は剣の柄を握りしめた。
でも今は、何も感じない。
ただ冷たいだけ。
「……進むしかない」
記憶を取り戻すために。
真実を知るために。
そして——
……あの少年のような、未来を守るために。
私は再び、深層へと歩き始めた。
暗闇の中、一人で。
空虚の剣と共に。




