第135話 血の匂い
401階層。
私たちは、薄暗い通路を進んでいた。
壁は湿っている。床には、水たまりがある。空気が重く、息苦しい。
そして——
血の匂いがした。
鉄の匂い。
それは、通路全体に漂っている。
「……モンスターの気配だ」
リオンが、剣を構える。
全員が、警戒態勢に入る。
私も、虚無の剣を握り締めた。
足音を殺して、進む。
通路の先に、開けた空間がある。
そこから——
獣の唸り声が聞こえた。
「……三体」
ルナが、囁く。
「了解。散開して、挟み撃ちだ」
リオンの指示に、全員が頷く。
私たちは、空間へと踏み込んだ。
そこには——
三体のモンスターがいた。
狼のような姿。だが、体長は人間ほどもある。全身は黒い毛に覆われ、牙は鋭く光っている。
そして——
その周りには、死体が転がっていた。
人間の、死体。
引き裂かれている。
血が、床一面に広がっている。
内臓が、露出している。
——生々しい。
あまりにも、生々しい光景。
だが——
見慣れてしまった。
それが、恐ろしかった。
「行くぞ!」
リオンの号令と共に、戦闘が始まった。
モンスターが、一斉に襲いかかってくる。
私は、一体を受け持つ。
モンスターの牙が、私の喉元に迫る。
だが——
私の身体は、それより速く動いた。
横に跳ぶ。
そのまま、剣を横に薙ぐ。
ザシュッ——
モンスターの側面が、切り裂かれる。
黒い血が、噴き出した。
床に、飛び散る。
モンスターが、悲鳴を上げる。
だが、まだ生きている。
前脚で、私に襲いかかってくる。
鋭い爪。
それが、私の左腕を掠めた。
——痛い。
鋭い痛み。
袖が裂け、血が滲む。
だが——
戦闘を止めるわけにはいかない。
私は、後ろに跳んだ。
距離を取る。
モンスターが、追ってくる。
その瞬間——
私は、剣を構えた。
そして——
踏み込む。
一気に、距離を詰める。
モンスターの目が、驚きに見開かれる。
だが、遅い。
私の剣が、その喉を貫いた。
グサリ——
抵抗が、手に伝わる。
肉を裂き、骨を砕く感触。
モンスターが、痙攣する。
そして——
動きを止めた。
私は、剣を引き抜く。
ズルリ、と嫌な音。
黒い血が、溢れ出る。
モンスターは、倒れた。
死体が、床に転がる。
私は、周囲を確認した。
リオンたちも、戦闘を終えていた。
三体のモンスター。
全て、倒れている。
「……全員、無事か?」
リオンが、周囲を見渡す。
「ああ」
「問題ない」
「大丈夫」
全員が、頷く。
私も——
頷こうとして、止まった。
左腕の痛み。
見ると、袖が裂けている。
そこから、血が滲んでいる。
傷は——
傷は、思ったより深い。
「セリア、怪我してる!」
エレナが、駆け寄ってくる。
「……大したことない」
「ダメよ、見せて」
エレナは、私の腕を取った。
そして、傷を確認する。
「……深いわ。すぐに手当てしないと」
彼女は、荷物から治療薬を取り出した。
それを、傷口に塗る。
ヒリヒリとした痛み。
だが、すぐに引いていく。
治療薬の効果。
傷は、癒えるはずだ。
「これで大丈夫。でも、しばらく無理しないでね」
「……ああ」
私は、頷いた。
エレナは、微笑む。
その笑顔が——
また、何故か不自然に見えた。
でも——
今は、それどころではない。
私は、自分の腕を見た。
傷口。
治療薬を塗ったはずなのに——
まだ、痛む。
そして——
傷が、完全には塞がっていない。
薄く、開いたままだ。
——おかしい。
治療薬を使えば、傷は治るはずだ。
少なくとも、痛みは消えるはずだ。
なのに——
なのに、まだ痛い。
傷も、残っている。
「セリア、大丈夫?」
エレナが、心配そうに問う。
「……ああ」
私は、頷いた。
「ただ、少し——」
言葉が、続かない。
何と言えばいい?
治療薬が効いていない、と?
でも——
でも、それを言えば——
エレナが、傷つくかもしれない。
彼女は、一生懸命治療してくれた。
それを、否定するようなことは——
言えない。
「……何でもない」
私は、首を振った。
「きっと、疲れているだけだ」
「そう……でも、本当に無理しないでね」
「……ああ」
エレナは、私の肩を軽く叩いて、離れていった。
私は——
私は、再び腕を見た。
傷。
それは、確かにそこにある。
開いたままの、傷。
治療されたはずなのに——
——何故?
疑問が、頭の中で渦巻く。
でも——
答えは、出ない。
もしかしたら、治療薬の効果が弱かったのかもしれない。
深層では、薬の効き目も落ちる。
そういうこともある。
私は、そう自分に言い聞かせた。
でも——
胸の奥で、何かが囁く。
——違う、と。
——これは、おかしい、と。
「物資を回収するぞ」
リオンが、モンスターの死体に近づく。
だが——
モンスターからは、何も出てこなかった。
「……仕方ない。あっちの死体を調べよう」
リオンが、人間の死体を指差す。
私たちは、それに近づいた。
引き裂かれた死体。
血が、床に広がっている。
内臓が、露出している。
——見慣れた光景。
それが、恐ろしい。
私たちは、死体の荷物を漁った。
治療薬が、二本。
食料が、少し。
水筒も、ある。
「……ありがたい」
リオンが、それらを回収する。
私も、死体の傍らにある剣を見た。
長剣。
刃は、血で汚れている。
だが、折れていない。
剣は、折れない。
それが、この世界の法則。
私は、その剣に触れた。
冷たい。
金属の感触。
そして——
何も聞こえない。
囁きは、ない。
——当然だ。
持ち主が死んだ剣は、もう何も語らない。
「セリア、行くぞ」
リオンの声に、私は顔を上げた。
「……ああ」
私は、立ち上がった。
死体を、背にして。
私たちは、再び歩き始めた。
通路を抜け、部屋を抜け、階段を降りる。
延々と、繰り返す。
そして——
また、モンスターに遭遇した。
今度は、人型のモンスター。
手には、斧を持っている。
「構えろ!」
リオンの指示に、全員が剣を構える。
戦闘が、始まる。
私は、一体を受け持った。
斧が、振り下ろされる。
重い一撃。
私は、横に跳んで避ける。
そのまま、踏み込んで、剣を突き出す。
モンスターの腹に、剣が突き刺さる。
黒い血が、噴き出す。
モンスターが、悲鳴を上げる。
だが——
斧が、私の右肩を掠めた。
——痛い。
鋭い痛み。
血が、流れる。
だが——
戦闘を止めるわけにはいかない。
私は、剣を引き抜き、再び突き出した。
今度は、心臓を貫く。
モンスターが、崩れ落ちる。
死体が、床に転がる。
戦闘は、終わった。
「……全員、無事か?」
リオンが、確認する。
「ああ」
「問題ない」
全員が、頷く。
私は——
私は、自分の肩を見た。
また、傷がある。
血が、滲んでいる。
「セリア、また怪我!」
エレナが、駆け寄ってくる。
「……大したことない」
「ダメよ、また治療するわ」
エレナは、治療薬を取り出した。
それを、傷口に塗る。
「これで大丈夫」
「……ああ」
私は、頷いた。
だが——
また、痛みが残っている。
傷も、完全には塞がっていない。
——やはり、おかしい。
治療薬が、効いていない。
いや——
効いているのかもしれない。
でも、完全には治らない。
——何故?
疑問が、膨れ上がる。
でも——
口には出せない。
エレナが、傷つくかもしれない。
だから——
黙っている。
ただ、違和感だけが、心の中に積もっていく。
私たちは、さらに進んだ。
数時間後、405階層に到達した。
壁に刻まれた数字。
405。
「順調だな」
ゼノが、言う。
「ああ、この調子で進もう」
リオンが、頷く。
私は——
私は、自分の腕と肩を見た。
二つの傷。
どちらも、完全には治っていない。
薄く、痕が残っている。
そして——
まだ、痛む。
微かに、だが確かに——
痛みが、残っている。
——何かが、おかしい。
エレナの治療が、効いていない。
いや——
そもそも、エレナは——
本当に、治療しているのか?
——いや。
そんなはずはない。
エレナは、治療薬を塗ってくれた。
私は、それを見た。
確かに、治療してくれた。
なのに——
なのに、治らない。
——何故?
わからない。
わからないまま——
違和感だけが、膨らんでいく。
「セリア、大丈夫?」
エレナが、心配そうに問う。
「……平気だ」
「そう……でも、傷が痛むなら言ってね」
「……ああ」
私は、短く答えた。
エレナは、微笑む。
その笑顔が——
その笑顔が、また——
何故か、空虚に見えた。
まるで——
まるで、形だけの笑顔のような——
——いや。
考えるな。
進め。
ただ、進め。
私は、前を向いた。
405階層。
あと、95階層。
そこに——
そこに、真実がある。
きっと。
そして——
この違和感の、全ての答えも——
そこにある。
私は、そう信じることにした。
信じるしか——
なかったから。




