第131話 静寂の声
390階層。
私たちは、休憩を取っていた。
広めの空間。天井は低く、壁は古びている。だが、モンスターの気配はない。ここは、比較的安全な場所だった。
松明の光が、揺れている。
その光の中で、仲間たちは各自の時間を過ごしていた。
リオンは、荷物の整理をしている。
ゼノは、壁に背を預けて目を閉じている。
ケインは、地図を確認している。
ルナは、通路の方を警戒している。
そして、エレナは——
剣の手入れをしていた。
細身の剣を、布で丁寧に拭いている。刃に付いた血を、一つ一つ落としていく。
私も、同じことをしていた。
虚無の剣を、膝の上に置いて。
布で、刃を拭う。
黒い血が、布に染み込む。
モンスターの血。
それは、何度拭いても、完全には落ちない。刃に、薄く痕が残る。
——剣は、汚れる。
でも、折れない。
それが、この世界の法則。
私は、剣を見つめた。
虚無の剣。
この剣は、他の剣と違う。
囁かない。
普通の剣は、持ち主に囁く。語りかける。時には、命令する。
だが、この剣は——
何も言わない。
ただ、静かに、そこにある。
私は、それが好きだった。
静寂が、心地よかった。
でも——
ふと、周囲を見た。
仲間たちも、剣の手入れをしている。
リオンの大剣。
ゼノの大剣。
エレナの細身の剣。
ケインの長剣。
ルナの細身の剣。
五本の剣。
それぞれが、静かに光を反射している。
——そして。
誰も、何も言わない。
ただ、黙々と、剣を拭いている。
——違和感。
それは、微かなものだった。
でも、確かに感じた。
普通、剣を手入れする時は——
剣の声について、話すものだ。
「今日は、よく切れたな」
「俺の剣が、興奮していた」
「少し、うるさかった」
そういった会話が、あるはずだ。
剣は、囁く。
それは、常識だ。
なのに——
誰も、それについて話さない。
ただ、静かに、剣を拭いている。
——おかしい。
私は、口を開いた。
「……剣は、囁かないのか?」
その言葉が、空間に響く。
仲間たちが、一斉に顔を上げた。
リオンが、私を見る。
「……剣?」
「……ああ」
私は、頷いた。
「剣の声だ。普通、剣は囁く。でも、誰も話題にしない」
沈黙。
数秒の、静寂。
そして——
「ああ、そうだな」
リオンが、答えた。
「この階層では、静かだ」
「……静か?」
「ああ。深層では、剣の声も弱まる。そういうものだ」
リオンは、淡々と説明する。
その声に、迷いはない。
「俺の剣も、ほとんど囁かない」
ゼノが、同意する。
「ああ、私もよ」
エレナも、頷く。
ケインとルナも、同じように頷いた。
——そうか。
深層では、剣の声が弱まる。
そういうこともあるのか。
私は、納得した。
いや——
納得しようとした。
でも——
胸の奥で、何かが引っかかる。
本当に、そうなのか?
深層で、剣の声が弱まる?
そんな話、聞いたことがあっただろうか。
——わからない。
私の記憶は、過去二年分が欠けている。
だから、知らないこともある。
きっと、リオンの言う通りなんだろう。
彼は、経験豊富だ。
信頼できる。
「……そうか」
私は、短く答えた。
それ以上、追求しない。
リオンたちは、再び剣の手入れに戻った。
私も、同じように、剣を拭い始めた。
だが——
違和感は、消えなかった。
それは、微かな歪み。
まるで、何かが少しだけズレているような——
——いや。
考えるな。
私は、自分に言い聞かせた。
疲れているんだ。
だから、余計なことを考える。
進むことだけを、考えろ。
私は、剣の手入れを終えた。
刃が、鈍く光っている。
虚無の剣。
この剣だけは、最初から囁かなかった。
だから、違和感がない。
——でも。
他の剣は?
仲間たちの剣は、本当に囁かないのか?
それとも——
私が、聞こえないだけなのか?
——わからない。
「休憩を終わるぞ」
リオンが、立ち上がった。
「次の階層へ進む」
「了解」
全員が、頷く。
私も、立ち上がった。
剣を腰に戻す。
荷物を背負う。
そして——
私たちは、再び歩き始めた。
通路は、薄暗い。
松明の光だけが、道を照らす。
足音が、響く。
カツン、カツン、カツン——
やはり、揃いすぎている。
六人分の足音が、まるで一つの音のように——
——気のせいだ。
私は、そう思うことにした。
でも、頭の中で、疑問が渦巻き続ける。
剣の声。
誰も、話題にしない。
誰も、囁きを聞いていない。
本当に、深層では剣の声が弱まるのか?
それとも——
何か、別の理由があるのか?
通路の先に、階段があった。
下り階段。
「降りるぞ」
リオンが、先頭に立つ。
私たちは、階段を降り始めた。
一段、また一段。
石の感触が、足裏に伝わる。
そして——
ふと、横を見た。
エレナが、私の隣を歩いている。
彼女も、階段を降りている。
その手には、剣がある。
細身の剣。
——その剣は、囁かないのか?
私は、問いたかった。
でも、さっき聞いたばかりだ。
また聞けば、不審に思われるかもしれない。
だから、黙っていた。
階段を降りきる。
目の前に、広間がある。
壁に、数字が刻まれている。
391。
「391階層だ」
ケインが、確認する。
私たちは、広間を探索し始めた。
モンスターの気配はない。
ただ、静かな空間が広がっている。
そして——
また、死体があった。
壁際に、倒れている。
白骨化している。
もう、何ヶ月も前に死んだのだろう。
「物資を確認する」
リオンが、近づく。
私も、それに続いた。
死体の荷物を、調べる。
中には、治療薬が一本だけあった。
他には、何もない。
「……これだけか」
リオンが、治療薬を手に取る。
私は、死体の傍らを見た。
そこには、剣がある。
長剣。
刃は、錆びていない。
剣は、折れない。
だが——
この剣も、もう囁かないのだろう。
持ち主が死ねば、剣は沈黙する。
私は、その剣に手を伸ばした。
触れる。
冷たい。
金属の感触。
そして——
何も聞こえない。
囁きは、ない。
——当然だ。
持ち主が死んだ剣は、もう何も語らない。
私は、手を離した。
「セリア、行くぞ」
リオンの声。
「……ああ」
私は、立ち上がった。
死体を、背にして。
私たちは、さらに進んだ。
通路を抜け、部屋を抜け、階段を降りる。
延々と、繰り返す。
そして——
数時間後、私たちは395階層に到達した。
壁に刻まれた数字。
395。
「順調だな」
ゼノが、言う。
「ああ、この調子で進もう」
リオンが、頷く。
私は、周囲を見渡した。
395階層。
ここも、他の階層と変わらない。
石造りの通路。
古びた壁。
薄暗い空間。
そして——
静寂。
剣の声は、聞こえない。
誰の剣も、囁かない。
——本当に?
本当に、囁いていないのか?
それとも——
私が、気づいていないだけなのか?
わからない。
でも——
進むしかない。
私は、前を向いた。
仲間たちと共に。
深く。
深く。
暗闇の底へ。
剣の声が聞こえない世界を。
それでも——
進み続ける。
なぜなら——
それが、私たちに残された道だから。
そして——
500階層に、真実がある。
きっと。
そこで、全てがわかる。
剣の声のこと。
この違和感のこと。
全て。
私は、そう信じていた。
信じることしか、できなかった。
だから——
進む。
ただ、進む。
それだけを、考える。
胸の奥で、冷たいものが広がっているのを感じながら。
それでも——
立ち止まらない。
立ち止まれない。
なぜなら——
立ち止まれば、全てが崩れてしまいそうだから。
だから——
進み続ける。
前へ。
前へ。
暗闇の中を。
静寂の中を。
剣の声が聞こえない世界を。




