第12層:Fランクモンスター
朝日が街を照らし始める頃、私はアビスの依頼受付ホールにいた。
広い空間。天井が高く、石造りの柱が並んでいる。冒険者たちで賑わっている。武装した男たち、軽装の女たち。皆、掲示板の前に集まり、依頼を選んでいる。
私も掲示板の前に立った。
羊皮紙が壁一面に貼られている。依頼の内容が書かれている。
「ゴブリン20体討伐:報酬5銀貨」
「コボルドの皮10枚採取:報酬8銀貨」
「1階層護衛依頼:時給50銅貨」
「スライム討伐:1体10銅貨」
……Fランク依頼。
初心者向けの依頼ばかりだ。低層のモンスター。ゴブリン、コボルド、スライム。
私の周りにいる冒険者たちは、真剣な顔で依頼を選んでいる。彼らにとっては、これが生活だ。命がけの仕事だ。
だが、私には——。
「……必要ない」
小さく呟いて、掲示板から離れた。
冒険者たちの視線を感じる。冷たい。疑いに満ちている。
私は気にせず、受付窓口へ向かった。
若い女性が座っている。茶色の髪、緊張した表情。私を見て、少し身を引いた。
「セリア、さん……おはようございます」
「素材を売りたい」
私は腰の袋から、昨日の戦利品を取り出した。
ゴブリンの牙。白く尖った牙が、布に包まれている。16本。
コボルドの皮。硬く、鱗のような質感。17枚。
スライムの核。透明な球体。12個。
そして、ホブゴブリンの角。湾曲し、鋭い。2本。
受付嬢は一つ一つを確認し、記録していく。
「ゴブリンの牙、16本……1銀貨と60銅貨。コボルドの皮、17枚……8銀貨と50銅貨。スライムの核、12個……3銀貨と60銅貨。ホブゴブリンの角、2本……4銀貨」
彼女は計算機を使い、合計を出す。
「合計で……18銀貨と70銅貨になります」
彼女は銀貨を数え、私に渡す。18銀貨と、小さな銅貨の袋。
「端数は切り上げさせていただきました」
彼女は小さく微笑んだ。
「……」
私は受け取り、懐にしまう。
受付嬢は、ためらうように口を開いた。
「あの……依頼は、受けないんですか?」
「……必要ない」
「でも、依頼なら同じ素材でも報酬が1.5倍になりますし……信頼度も上がって、もっと良い依頼が回ってきますよ」
「構わない」
「それに——」
「いらない」
私は短く答えた。
受付嬢は、困惑した表情で黙り込んだ。
……依頼は、邪魔だ。
指定されたモンスター。指定された階層。期限。制約。
私には、そんなものは必要ない。
深層に行きたいだけだ。
それ以外は、どうでもいい。
受付嬢に礼を言い、ホールを出た。
外に出ると、冒険者たちの会話が聞こえてきた。
「あれが500階層の詐欺師か」
「初日で2階層だろ? 遅すぎる」
「本物なら10階層は行けるはずよ」
「ギルドカードが壊れてるだけじゃないの?」
私は無視して歩き続けた。
広場を横切る。
そこで、見覚えのある男たちと出くわした。
ダリウス。大剣を背負った男。彼の仲間たち、3人。
「よお、詐欺師」
ダリウスが声をかけてきた。
「まだ街にいたのか。もう諦めたかと思ったぜ」
仲間たちが笑っている。
私は立ち止まり、彼を見た。
「どうした? 反論しないのか?」
ダリウスが一歩近づく。
「まあ、いいさ。せいぜい頑張れよ。**Fランクモンスター**相手にな」
彼らは嘲笑しながら去っていった。
私は、その場に立ち尽くした。
「……Fランク」
その言葉が、耳の奥に残る。
Fランクモンスター。
ゴブリン。コボルド。スライム。
初心者向けの、最も弱いモンスター。
……弱い?
本当に、弱いのか?
私は、ダンジョンへ向かった。
入口の石造りのアーチをくぐる。
冷たい空気が肌に触れる。
1階層、2階層を通過する。
迷わない。身体が道を知っている。
分岐点も、罠も、すべて避けられる。
まるで、何百回もこの道を歩いたかのように。
3階層への螺旋階段。
降りていく。
空気が、変わった。
重い。湿っている。そして——。
霧。
白い霧が、通路を覆っている。
視界が悪い。5メートル先が見えない。松明の明かりも、霧に吸われて届かない。
だが。
私の足は、止まらなかった。
前に進む。
霧の中。
音が聞こえる。
ガサガサと、何かが這いずる音。複数。10以上。
ゴブリンの群れだ。
霧の中から、赤い目が浮かび上がる。15体。
彼らは私を見つけ、咆哮を上げた。
襲いかかってくる。
私は剣を抜いた。
一歩、踏み込む。
右から飛びかかってくる気配。
剣を振る。
手応え。血が飛ぶ。
左から棍棒が振り下ろされる。
身体が勝手にかわす。
反撃。剣を返す。喉を斬る。
背後から気配。
振り返らず、後ろに剣を突き出す。
貫通する感触。
次。
また次。
霧の中。視界がない。
だが、気配がわかる。
敵の位置。動き。全てが見える。
いや、見えているわけじゃない。
身体が、知っている。
剣が、勝手に動く。
頭で考えるより先に、身体が反応する。
2分。
15体のゴブリンが、床に倒れていた。
私は、息も切れていない。
心臓は静かに鼓動している。
剣を拭い、鞘に収める。
……異常だ。
霧の中。視界がない状態で、15体を一人で倒した。
普通じゃない。
だが、それ以上に——。
何も感じなかった。
恐怖も、緊張も、興奮も。
ただ、作業のように倒した。
まるで、石ころを避けるように。
前に進む。
通路を抜けると、コボルドの群れと遭遇した。10体。
犬のような頭部。赤く光る目。
彼らは私に飛びかかってきた。
私は剣を抜き、斬った。
瞬殺。
1分もかからなかった。
さらに進む。
大部屋の手前で、またゴブリンの群れ。8体。
同じように、倒した。
そして——階段の前。
3体のホブゴブリンが立ちはだかった。
ゴブリンより大きい。筋肉質。知能も高い。
Eランクモンスター。
初めて見る相手のはずだった。
だが。
身体は知っていた。
どう動けばいいか。どこを斬ればいいか。
剣が走る。
最初の一体の喉を斬る。二体目の腹を貫く。三体目の頭を斬り落とす。
終わった。
……Eランク。
少しだけ、手応えがあった。
Fランクよりは、硬い。速い。
だが、それだけだ。
脅威ではない。
私は階段の前に立ち、振り返った。
ゴブリン23体。コボルド10体。ホブゴブリン3体。
今日だけで、これだけ倒した。
「……Fランク」
私は呟いた。
Fランクモンスター。
初心者向けの、最も弱いモンスター。
だが、私にとっては——。
「何も感じない」
敵として、認識していない。
脅威として、感じていない。
身体が、彼らを「障害物」として処理している。
訓練用の的のように。
いや、的以下だ。
石ころを避けるような感覚。
「……私は」
私は剣を見た。
漆黒の刀身。
「どこまで、行ったんだ」
500階層。
そこには、何がいたんだ。
Fランクモンスターが、こんなにも弱く感じるほどの——。
「何と、戦ったんだ……」
答えは、ない。
ただ、身体だけが知っている。
私は来た道を戻った。
地上に出る。
夕暮れ時だった。
アビスへ向かう。
受付で素材を提出する。
受付嬢は、記録を見て目を丸くした。
「今日は……ゴブリン23体、コボルド10体、ホブゴブリン3体ですね」
彼女は信じられないという表情で、私を見た。
「一日で、これだけ……」
彼女は計算を始める。
「合計で……22銀貨になります」
私は受け取り、受付を離れた。
ホールの出口近くで、ミラが声をかけてきた。
「セリアさん! 無事でしたか?」
「……ああ」
「3階層まで行けたんですね!」
彼女は私の記録を見たようだ。
「順調ですね。身体は、大丈夫ですか?」
「問題ない」
「よかった……無理はしないでくださいね」
「……」
私は小さく頷いた。
宿に戻る。
宿の主人に、2泊分の宿代20銅貨を払う。
銀貨1枚を渡すと、主人は驚いた。
「釣りは80銅貨だが……」
「いい」
私はそのまま部屋へ向かった。
簡素な部屋。硬いベッド。
疲れはない。
だが、横になった。
目を閉じる。
眠りに落ちる。
そして——。
夢を見た。
霧の中。
だが、3階層ではない。
もっと深い。もっと暗い。
空気が重く、息苦しい。
私は剣を握っている。
仲間の声が聞こえる。
「セリア! 後ろだ!」
男性の声。若い。力強い。
私は振り返る。
そこに——。
**巨大な影**。
輪郭だけが見える。詳細は闇に溶けている。
だが、その存在感。
圧倒的だった。
全身が震える。
剣を握る手が、冷たい。
恐怖。
これは——。
影が動いた。
咆哮。
世界が揺れる。
私は——。
目が覚めた。
汗びっしょりだった。
心臓が激しく鼓動している。
呼吸が荒い。
部屋の天井を見つめる。
暗闇。窓の外は、まだ夜だ。
「……Fランクじゃない」
私は呟いた。
あれは、Fランクじゃない。
Eランクでも、Dランクでも、ない。
「深層には……」
私は身体を起こした。
「何が、いるんだ」
記憶の奥に、何かがいる。
それは、Fランクモンスターとは比べ物にならない。
圧倒的な存在。
恐怖を感じさせる相手。
「……」
窓の外を見る。
夜明け前の、暗い空。
星が、いくつか見える。
私は、あれと戦ったのか。
あの影と。
そして——勝ったのか。
それとも。
答えは、わからない。
ただ、確かなことが一つある。
私は、500階層まで行った。
そこで、何かと出会った。
それは、Fランクモンスターとは、違う。
「……辿り着かなければ」
私は小さく呟いた。
「思い出さなければ」
深層へ。
500階層へ。
もう一度。
必ず——。




