第127話 逆行
358階層。
広大な石造りの大広間。天井は高く、柱が規則正しく並んでいる。モンスターの気配はない。静寂が、不自然なほどに満ちていた。
「……おかしい」
私は呟いた。
この階層に降りてから、もう数時間は経っている。だが、下への階段が見つからない。探索を続けても、見つかるのは上への階段ばかり。
「セリア、また上り階段だ」
リオンが、広間の奥を指差す。そこには、確かに上へと続く石段があった。
おかしい。
何かが、決定的におかしい。
「……下への階段は?」
「見当たらない。この広間を三周したが、下り階段は一つもない」
ケインが、冷静に報告する。彼の言う通りだ。私たちは、この階層を隅々まで探索した。だが、下への道は存在しない。
「上に戻るしかないのか?」
ゼノが、苛立ちを隠さずに言う。
「……いや」
私は、上り階段を見つめた。
違和感。それは、ずっと感じていた。この階層に降りた時から、何かがおかしいと思っていた。だが、その正体がわからない。
「セリア、どうする?」
リオンが問う。
「……上る」
私は、短く答えた。
下への道がないなら、上るしかない。それに——何故だろう。この上り階段が、正解のような気がする。根拠のない直感。だが、この直感は、今まで私を裏切ったことがない。
「わかった。全員、上るぞ」
リオンの指示に、全員が頷く。
私たちは、上り階段へと足を踏み入れた。
——そして、奇妙な感覚が始まった。
階段を上る。一段、また一段。石の感触が足裏に伝わる。松明の光が、壁を照らす。影が揺れる。
上っている。
確かに、上っているはずだ。
だが——
「……?」
違和感が、頭の中で膨れ上がる。
身体が、何かを訴えている。これは、上りではない。下りだ、と。だが、目の前の階段は明らかに上へと続いている。足も、上へと踏み出している。
なのに。
なのに、身体は下っていると感じている。
「おい、なんか変じゃないか?」
ゼノが、不安そうに言った。
「……ああ。俺も感じる。上ってるはずなのに、下ってる感覚がある」
ケインが、戸惑いを隠さない。
私だけではない。全員が、同じことを感じている。
「重力が……おかしい」
エレナが、壁に手をついた。彼女の顔色が悪い。
「……少し、休もう」
私は、そう提案した。
この奇妙な感覚の中で進み続けるのは、危険だ。一度立ち止まって、状況を整理する必要がある。
私たちは、階段の踊り場で休憩を取った。
松明を壁に立てかける。その光が、石造りの壁を照らす。ただの、普通の階段だ。だが、この「普通」が、逆に不気味だった。
「セリア、これは……」
リオンが、言葉を探している。
「……わからない」
私は、正直に答えた。
わからない。何が起きているのか、全く理解できない。上っているのに下っている。矛盾している。だが、その矛盾が現実として、私たちの身体に刻まれている。
「もしかして、ダンジョンの仕掛けか?」
ルナが、静かに問う。
「……かもしれない」
そうだ。仕掛けだと考えれば、説明がつく。このダンジョンには、様々な罠がある。重力を操る仕掛けがあっても、不思議ではない。
「じゃあ、このまま進めばいいのか?」
「……そうだな」
私は、立ち上がった。
休んでいても、答えは出ない。進むしかない。そして——この奇妙な階段の先に、何があるのか確かめる。
再び、階段を上り始める。
上る。確かに上っている。足が、上へと踏み出す。だが、感覚は下降を告げ続ける。
気持ち悪い。
吐き気がする。
だが、進む。
一段、また一段。
どれほど上ったのか、わからない。時間の感覚も曖昧だ。ただ、延々と続く石段を、黙々と上り続ける。
そして——
「……!」
突然、階段が終わった。
目の前に、扉がある。
石造りの、重厚な扉。
「……着いた?」
ゼノが、疑問形で呟く。
私は、扉に手をかけた。重い。だが、ゆっくりと開く。
その向こうには——
広間があった。
だが、そこには——
「……何だ、これ」
リオンの声が、驚愕に染まっている。
広間の壁に、巨大な数字が刻まれていた。
378。
「378階層……?」
ケインが、呆然と呟く。
「おい、待て。俺たちは上ったんだぞ? なんで階層が深くなってるんだ!?」
ゼノが、混乱を露わにする。
私も、理解できない。
私たちは、確かに上った。上り階段を、延々と上り続けた。なのに、階層は深くなっている。358階層から、378階層へ。20階層も、深く。
「……どういうことだ」
リオンが、壁の数字を見つめたまま言う。
「……わからない」
私は、自分の手を見た。
確かに、上った。この手で、手すりを掴んで、上った。記憶は、はっきりしている。
なのに。
なのに、結果は下降していた。
「もしかして、最初から下り階段だったのか?」
エレナが、震える声で言う。
「……いや」
私は、否定した。
違う。あれは、上り階段だった。目で見て、確認した。足で踏んで、上った。幻覚ではない。
だが——
だが、結果は、こうだ。
378階層。
20階層分、深く潜っている。
「ダンジョンの仕掛け……なのか?」
ルナが、不安そうに問う。
「……そうとしか、考えられない」
私は、広間を見渡した。
ここは、378階層。私たちは、意図せずして、20階層も進んでしまった。
——いや。
進んだ、のか?
それとも、最初から私たちは、何かに騙されていたのか?
「……セリア」
リオンが、私を見る。
「……進もう」
私は、短く答えた。
考えても、答えは出ない。ならば、進むしかない。500階層へ。真実へ。
「わかった」
リオンが頷く。
私たちは、378階層の探索を始めた。
だが——
頭の中で、疑問が渦巻き続ける。
上ったのに、下っていた。
何故?
何故、そんなことが起こる?
このダンジョンは、一体——
——いや。
考えるな。
今は、進むことだけを考えろ。
私は、自分にそう言い聞かせた。
だが、違和感は消えない。
それは、微かな歪み。
まるで、世界の法則が、少しずつ狂い始めているような——
そんな、不吉な予感。
「セリア、次の通路だ」
リオンの声に、私は我に返る。
「……ああ」
私は、仲間たちと共に、378階層の奥へと進んだ。
上ったのに、下っていた。
その矛盾が、胸の奥で、じっとりと冷たく沈んでいる。
——何かが、おかしい。
でも、何が?
わからない。
わからないまま、私たちは進み続ける。
深く。
深く。
暗闇の底へ。
——いや。
本当は、上へ?
もう、わからない。
感覚が、狂い始めている。
それでも——
私は、前を向いた。
進むしかない。
それだけが、確かなことだから。




