第11層:初めてのダンジョン(再び)
螺旋階段を降りていく。
一段、また一段。
石の階段は冷たく、湿っていた。松明の明かりが壁に揺れる影を落とす。その影が、まるで生き物のように蠢いて見える。
……1階層は、終わった。
あっけなかった。ゴブリンもホブゴブリンもコボルドも、私の剣の前では何の抵抗もできなかった。身体が勝手に動いた。頭で考えるより先に、剣が敵を斬っていた。
それが、怖い。
記憶はないのに、身体は覚えている。まるで何百回、何千回とこの道を歩いたかのように。
2階層への入口が見えてきた。
アーチ状の石の門。1階層よりも古く、苔が這っている。空気が、変わった。重い。湿度が高く、肌に纏わりつくような感覚。松明の明かりが、ここでは届きにくい。
闇が、濃い。
足を踏み入れる。
瞬間、背筋に冷たいものが走った。
……ここは、知っている。
そんなはずはない。記憶はない。2年間の空白。15歳の私が何をしていたのか、どうやって500階層まで辿り着いたのか、何も思い出せない。
なのに。
足が、道を知っている。
通路は複雑だった。1階層とは比べ物にならない。左右に分岐が続き、まるで迷路のようだ。壁には古代文字が刻まれている。1階層よりも多く、密度が高い。文字は読めない。だが、何かを警告しているような気がする。
「……」
私は立ち止まり、剣を見た。
漆黒の刀身。装飾のない柄。
空虚の剣。
何も宿っていない。1%未満の超稀少種。エドワードはそう言った。だが、本当に何もないのだろうか。この剣は、何かを隠しているんじゃないのか。
問いかけても、答えはない。
ただ、冷たい金属の感触だけが手に伝わる。
前に進む。
分岐点。右か、左か。
私は迷わず右を選んだ。
なぜ?
わからない。ただ、身体がそう動いた。右だと、足が知っていた。
通路を進む。狭い。天井が低い。圧迫感がある。
そして——。
音が聞こえた。
ガサガサと、何かが這いずる音。複数。5つ、いや6つ。
コボルドだ。
犬のような頭部を持つ魔物。低い唸り声を上げながら、通路の奥から現れる。赤く光る目。牙を剥き出しにして、私を睨んでいる。
5体。
私は剣を構えた。
いや、構えたつもりだった。
だが、身体はもう動いていた。
一歩踏み込む。剣が走る。最初のコボルドの喉を一閃。血が飛ぶ。次の瞬間、二体目の腹を斬り裂く。三体目が飛びかかってくる。剣を返す。縦に斬り下ろす。四体目、五体目。
瞬きする間に、終わっていた。
5体のコボルドが、床に倒れている。
私は、息も切れていない。
……異常だ。
こんなの、普通じゃない。17歳の少女が、こんな動きをできるはずがない。記憶喪失で、2年間の空白があって、それなのに身体は完璧に動く。
まるで、何年も訓練を積んだ戦士のように。
いや、それ以上だ。
オルドヴィンは言った。「数千の戦闘経験が刻まれている」と。
……数千。
2年間で、数千回も戦ったのか。私は。
どうやって?
なぜ?
答えは、ない。
私は剣を拭い、前に進んだ。
通路は続いている。分岐点がまた現れる。今度は三又路だ。
右、左、真っ直ぐ。
どれを選ぶ?
私は立ち止まった。
そして——。
声が聞こえた。
「セリア、右だ!」
男性の声。若い。力強い。
誰だ。
振り返る。誰もいない。通路には私一人だ。
「……?」
幻聴?
いや、違う。
これは——記憶だ。
断片的な、ぼやけた記憶。誰かが、私にそう叫んだ。右だと。この三又路で、右を選べと。
……誰?
顔が思い出せない。声だけが、耳の奥に残っている。
私は、右を選んだ。
足が、自然にそちらに向かう。身体が、その声を信じている。
通路を進む。
そして、気づく。
左と真っ直ぐの通路は——途中で途切れていた。
振り返って確認する。崩れた石が道を塞いでいる。壁には古代文字が刻まれているが、読めない。だが、行き止まりなのは明らかだった。
……正解だった。
右を選んだのは、正解だった。
なぜ、わかったんだ?
なぜ、身体は知っていたんだ?
そして——なぜ、あの声は私を導いたんだ?
「……誰だ」
私は呟いた。
「お前は、誰だ……」
答えはない。
ただ、通路の奥から風が吹いてくる。冷たく、湿った風。
私は剣を握り直し、前に進んだ。
大きな空間に出た。
天井が高い。20メートルはあるだろう。壁には松明が等間隔に並んでいる。だが、その明かりでも部屋全体を照らすことはできない。
そして、そこにいた。
コボルド12体。ゴブリン8体。
合計20体の魔物が、部屋の中央に群れている。
彼らは私に気づいた。
一斉に、赤い目がこちらを向く。
咆哮。
牙を剥き出しにして、襲いかかってくる。
20体。
普通なら、逃げるべきだ。勝てる数じゃない。冒険者は、パーティを組んで戦う。一人で挑むなんて、自殺行為だ。
だが。
私の足は、止まらなかった。
迷いなく、踏み込んだ。
剣が走る。
最初のゴブリンを斬る。返す刃でコボルドを斬る。回転。軌道を変える。三体目、四体目。血が飛ぶ。悲鳴が響く。
身体が、勝手に動く。
頭で考えるより先に、剣が敵を斬っている。
敵の攻撃が見える。遅い。あまりにも遅い。避けるのは簡単だ。右に一歩。左に半歩。剣を返す。斬る。
五体目、六体目、七体目。
ゴブリンが棍棒を振り下ろしてくる。かわす。剣を突き立てる。心臓を貫く。引き抜く。次。
八体目、九体目。
コボルドが牙を剥いて飛びかかってくる。剣を横に薙ぐ。胴体が斬れる。
十体目、十一体目、十二体目。
気がつけば、もう半分以上倒していた。
残りは八体。
彼らは怯えている。後退している。
だが、逃がさない。
私は踏み込んだ。
最後の一体を斬り伏せる。
静寂。
20体の魔物が、床に倒れている。
私は、息も切れていない。
心臓は静かに鼓動している。汗もかいていない。
……3分。
たぶん、3分もかかっていない。
「……」
私は剣を見た。
血に濡れた漆黒の刀身。
この剣は、何も教えてくれない。
「……お前は」
私は呟いた。
「何も、教えてくれないのか」
剣は、沈黙している。
だが。
微かに、何かを感じた。
温もり?
それとも、拒絶?
判別できない。ただ、確かに何かがある。空虚なはずなのに、この剣には何かがある。
「……」
私は剣を鞘に収めた。
部屋の奥に、階段があった。
3階層への道。
私は階段の前に立ち、振り返った。
大部屋。倒れた魔物たち。血の匂い。
……ここも、来たことがある。
身体が、覚えている。
「……記憶がなくても」
私は小さく呟いた。
「進める」
階段を降りる必要はない。今日はもう十分だ。1階層と2階層、二つ突破した。初日としては、上出来だろう。
私は来た道を戻った。
通路、分岐点、螺旋階段。
そして——地上。
外の空気が肺を満たす。
夕暮れ時だった。オレンジ色の光が、街を染めている。
アビスへ向かう。
ミラが、待っていた。
彼女は私を見て、目を丸くした。
「セリア、さん……! 無事だったんですね!」
「……ああ」
「どこまで行けました?」
「……2階層」
ミラは息を呑んだ。
「2階層まで……」
彼女は安堵したように微笑んだ。
「順調ですね。身体は、大丈夫ですか?」
「……問題ない」
「よかった……本当に、よかった」
ミラは心から安心したような表情を浮かべた。彼女の目には、涙が滲んでいる。
……なぜ、泣くんだ。
私は、何も失っていない。無事に帰ってきた。
だが、ミラは泣いていた。
兄を失った彼女は、私が戻ってこないことを恐れていたのかもしれない。
「……心配、かけた」
「いえ、そんな……」
ミラは首を横に振った。
「セリアさんは、強いですから。きっと大丈夫だって、信じてました」
「……」
私は何も答えなかった。
ただ、夕日を見つめていた。
初日が、終わった。
これから、何日かかるかわからない。何階層まで行けるかも、わからない。
だが。
私は、進む。
記憶がなくても。
理由がわからなくても。
この身体が導く先へ。
必ず、辿り着く。
500階層の、その先へ——。




