第112話 追跡者
343階層へ降りた瞬間、私は息を呑んだ。
そこは——血の臭いがした。
空気が重く、肺に纏わりつくような不快感がある。視界は薄暗く、松明の光だけが頼りだった。床は湿っていて、何かの液体が染み込んでいる。
「……何だ、この臭い」
ゼノが顔をしかめた。
「血……ね」
ルナが冷静に答えた。
私は床を見た。確かに、暗い赤色の染みが床一面に広がっていた。乾いた血。そして——新しい血も混じっている。
「……ここで、何があったんだ?」
ケインが不安そうに呟いた。
リオンは周囲を警戒しながら前進した。
「わからない。だが、油断するな」
彼の声は低く、緊張感に満ちていた。
私たちは慎重に歩き始めた。
足音が湿った床に吸い込まれる。
そして——通路の先に、何かが見えた。
それは——死体だった。
冒険者の死体。
全身が引き裂かれていて、原形をとどめていない。鎧は破壊され、剣は折れているように見える。血溜まりの中に、無惨に倒れていた。
「……っ」
エレナが顔を背けた。
「……最近、死んだみたいだな」
ゼノが呟いた。
リオンは死体に近づき、観察した。
「……傷が深い。何かに襲われたんだろう」
「何に……?」
ケインが尋ねた。
リオンは答えなかった。
ただ——周囲を警戒していた。
私も周囲を見回した。
……何かがいる。
この階層には——危険なモンスターがいる。
そんな予感がした。
「……先に進もう」
リオンが言い、私たちは再び歩き始めた。
だが——数分後、また死体を発見した。
今度は二体。
同じように引き裂かれている。
「……こいつら、パーティを組んでいたのか」
ゼノが呟いた。
「でも、全滅してる……」
ケインが不安そうに言った。
私は死体の傷を見た。
爪痕。
鋭く、深い。
……何の爪だろう。
わからない。
でも——とても大きな生き物だということは、わかった。
「……気をつけろ。まだ近くにいるかもしれない」
リオンが警告した。
私たちは武器を構え、慎重に進んだ。
そして——その時、音が聞こえた。
カサッ……という微かな音。
「!」
私は立ち止まった。
「……何だ?」
ゼノが振り向いた。
「音が……した」
私は後方を見た。
暗闇の中に——何かがいる。
影が動いた。
「……来るぞ」
リオンが剣を構えた。
私たちも武器を構えた。
影が——近づいてくる。
足音。
カツン、カツン、という規則正しい音。
そして——姿を現した。
それは——巨大な狼だった。
いや——狼のような何かだった。
全長は三メートル以上。全身が黒い毛で覆われている。目は赤く光り、牙は鋭い。四本の足には、長い爪が生えていた。
「……ヘルハウンド……!」
ルナが叫んだ。
「しかも、でかい……!」
ケインが後退した。
ヘルハウンドが——低く唸った。
グルルル……という音が、喉の奥から響く。
そして——襲いかかってきた。
「散れ!」
リオンが叫び、私たちは左右に跳んだ。
ヘルハウンドが——私たちがいた場所を駆け抜けた。
速い。
あまりにも速い。
「くっ……!」
私は体勢を立て直し、剣を構えた。
ヘルハウンドが振り向く。
赤い目が、私を見据えた。
そして——再び襲いかかってきた。
今度は——私に向かって。
爪が迫る。
私は剣で受け止めた。
ガキィン!
激しい衝撃が腕に伝わる。
「くっ……!」
私は押し返そうとしたが、ヘルハウンドの力は強い。
じりじりと押されていく。
「セリア!」
リオンが駆けつけた。
彼の剣が、ヘルハウンドの横腹を斬りつける。
ヘルハウンドが怯む。
私は後退し、距離を取った。
「……ありがとう」
私は息を整えた。
「礼はいい。集中しろ」
リオンが答えた。
ヘルハウンドが——再び動いた。
今度は——ゼノに向かって。
「来るな……!」
ゼノが大剣を構えた。
ヘルハウンドが跳躍する。
巨大な身体が宙を舞い、ゼノに襲いかかった。
ゼノは剣を振り上げ、ヘルハウンドを迎え撃った。
だが——ヘルハウンドは空中で身を捻り、ゼノの剣を躱した。
そして——爪でゼノの肩を切り裂いた。
「ぐあっ!」
ゼノが叫んだ。
血が飛び散る。
ゼノが膝をついた。
「ゼノ!」
エレナが駆け寄った。
だが——ヘルハウンドは止まらない。
倒れたゼノに向かって、再び爪を振り下ろそうとした。
「させない!」
ケインが割って入った。
彼の剣が、ヘルハウンドの爪を弾く。
だが——ヘルハウンドは尻尾を振り回し、ケインを吹き飛ばした。
「うわっ!」
ケインが壁に叩きつけられた。
「ケイン!」
エレナが叫んだ。
私は駆け出した。
身体が勝手に動く。
ヘルハウンドの背後に回り込み、足元を狙う。
剣を振り下ろす。
刃が——ヘルハウンドの後ろ足に食い込んだ。
ヘルハウンドが悲鳴を上げた。
「今だ!」
リオンが叫び、彼とルナが同時に攻撃した。
二人の剣が、ヘルハウンドの胴体を斬りつける。
ヘルハウンドが——倒れた。
だが——まだ動いている。
赤い目が、こちらを睨んでいる。
「……まだ、生きてる……!」
ルナが叫んだ。
ヘルハウンドが——立ち上がった。
傷だらけの身体で、まだ戦おうとしている。
「……しぶといな……!」
リオンが舌打ちした。
そして——その時。
通路の奥から——また音が聞こえた。
カツン、カツン、という足音。
いや——足音が複数ある。
「……まさか」
ゼノが顔を青ざめさせた。
暗闇の中から——また影が現れた。
二体。
三体。
四体。
ヘルハウンドが——四体も現れた。
「……嘘だろ……」
ケインが呟いた。
私は——絶望を感じた。
一体でも苦戦したのに。
五体も——どうやって戦えばいいんだ。
「……逃げるぞ」
リオンが決断した。
「戦っても勝てない。逃げるしかない」
「でも、どこへ!?」
エレナが叫んだ。
「前だ。とにかく前へ走れ!」
リオンが指示を出した。
私たちは——走り始めた。
背後でヘルハウンドたちが追ってくる。
足音が迫る。
唸り声が響く。
「速い……!追いつかれる……!」
ケインが叫んだ。
「諦めるな!走り続けろ!」
リオンが叫んだ。
私は全力で走った。
息が切れる。
足が重い。
でも——止まれない。
止まれば——殺される。
通路が続く。
果てしなく続く。
そして——前方に、光が見えた。
「……あれは!?」
エレナが叫んだ。
「扉だ!」
リオンが答えた。
確かに——通路の先に、扉があった。
「あそこまで走れ!」
リオンが叫び、私たちは全力疾走した。
背後でヘルハウンドたちが迫る。
爪が、私の背中に届きそうなほど近い。
「もう少し……!」
私は歯を食いしばった。
そして——扉に辿り着いた。
リオンが扉を開ける。
「入れ!」
私たちは扉の中へ飛び込んだ。
リオンが最後に入り、扉を閉める。
ドンッ!
ヘルハウンドが扉に激突する音がした。
扉が揺れる。
「……持つか!?」
ゼノが叫んだ。
リオンとゼノが扉を押さえた。
ドンッ、ドンッ、という音が続く。
だが——扉は頑丈だった。
ヘルハウンドたちは、扉を破れない。
やがて——音が遠ざかっていった。
「……行った、のか?」
ケインが息を切らしながら言った。
「……みたいだな」
リオンが答えた。
私は床に座り込んだ。
疲労が、全身を襲う。
「……助かった……」
エレナが呟いた。
私たちは——なんとか、生き延びた。
でも——ゼノとケインが負傷している。
このままでは——まずい。
「……休もう。ここで傷を治す」
リオンが言い、私たちは荷物を下ろした。
ここは——小さな部屋だった。
扉を閉めれば、安全だろう。
私は深呼吸した。
……危なかった。
本当に——危なかった。
でも——生き延びた。
みんなで——生き延びた。
私は——そう信じていた。




