第10層:1階層
夜明け前。
街がまだ眠りの中にある時間、私はダンジョンへ向かった。
空には星がまだ残っている。冷たい空気が肌を刺す。だが、私の胸は熱かった。
今日から、本当の旅が始まる。
記憶を取り戻すための、長い旅が。
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管理ゲートには、夜勤の職員が一人だけいた。
眠そうな目をこすりながら、彼は私を見た。
「……こんな早くから?」
「ああ。時間を無駄にしたくない」
私はギルドカードを差し出した。職員はそれをスキャンし、少し驚いた表情を見せる。
「……気をつけて」
それだけ言って、彼はゲートを開けた。
私は頷き、穴の中へ足を踏み入れた。
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冷たい空気が吹き上げてくる。
暗闇。
静寂。
そして――この感覚。
心臓が高鳴る。
何かが、私を呼んでいる。
ダンジョンの奥底から。
「ここから、すべてが始まる」
私は螺旋階段を降り始めた。
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石造りの階段。
湿った壁。
松明の明かりだけが、暗闇を照らしている。
一段、また一段。
足音が、静かに響く。
だが――この感覚。
既視感。
足が、自然に動く。
まるで身体が道を覚えているかのように。
「……何度も、ここを通ったのだろうな」
そう呟いた瞬間、胸が熱くなった。
過去の自分が、確かにここを歩いていた。
誰かと一緒に。
笑いながら。
深層を目指して。
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やがて、1階層へ到達した。
広い通路が目の前に広がる。
私は立ち止まり、周囲を見渡した。
今までと違う。
今日は、ただ戦うだけじゃない。
観察する。理解する。
このダンジョンの秘密を、一つずつ解き明かす。
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まず、気づいたのは――通路の構造だった。
石造り。
だが、継ぎ目がない。
まるで一つの巨大な岩から削り出したかのような、滑らかな壁。
私は壁に触れた。
冷たい。
だが――微かに温かい感覚もある。
まるで、生きているような。
「……これは、自然にできたものじゃない」
誰かが作った。
だが、誰が? 何のために?
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壁には、文字が刻まれていた。
古代文字らしきもの。
私はそれをじっくりと見つめた。
読めない。
いや、読めないのではなく――知らない文字だ。
だが、何か重要なことが書かれている気がする。
私は文字に触れた。
その瞬間――。
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頭痛。
激しい痛みが走る。
フラッシュバック。
この壁の前に立つ自分。
誰かが隣にいる。
「セリア、この文字……読めるか?」
男の声。優しい声。
「いや、読めない。だが……何か重要なことが書かれている気がする」
「俺もだ。まるで、警告のような」
ビジョンが途切れた。
私は壁に手をついて、息を整えた。
警告。
そうだ。これは、警告だったのか。
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私は奥へ進んだ。
魔物が現れる。
ゴブリンの群れ。5体。
私は剣を抜いた。
戦闘開始。
だが、今日は違う。
意識的に、自分の動きを観察する。
足の運び――考えるより先に動く。
剣の振り方――無駄がない。完璧な軌道。
呼吸のリズム――制御されている。
一瞬で、5体のゴブリンが倒れた。
私は剣を下ろし、自分の手を見た。
「……どれだけ戦ったのだろう、私は」
この動きは、数百、数千の戦闘経験がなければ身につかない。
2年前の私は、どれほど深層へ潜っていたのだろう。
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さらに奥へ。
魔物を次々と倒していく。
ゴブリン、ホブゴブリン、コボルド。
すべてが一瞬で倒される。
だが、私の意識は戦闘にない。
周囲の環境。構造。すべてを観察している。
空気の流れ。
どこからか風が吹いている。
だが、どこから来ているのかわからない。
天井の高さ。
不自然なほど均一だ。
床の石畳。
隙間がない。完璧に整っている。
「……このダンジョンは、何なのだろう」
自然の洞窟ではない。
誰かが、明確な意図を持って作った。
だが、誰が?
何のために?
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やがて、1階層の最深部へ到達した。
広い空間。
天井が高く、壁には無数の文字が刻まれている。
そして――中央に、石碑があった。
大きな石碑。
人の背丈の2倍はある。
私は近づいた。
石碑には、大きく文字が刻まれている。
やはり、読めない古代文字。
だが――何か重要なことが書かれている。
それは、確信できた。
私は石碑に手を触れた。
その瞬間――。
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世界が揺れた。
激しいフラッシュバック。
この石碑の前に立つ自分。
数人が一緒にいる。
顔はぼやけている。だが、確かに人がいる。
「セリア、これは……警告だ」
男の声。真剣な声。
「警告?」
「ああ。『これより先、人の領域にあらず』と書かれている」
私は石碑を見つめている。
「それでも、行くのか?」
別の声。心配そうな声。
「ああ。行かなければ」
「なぜだ?」
「……わからない。だが、行かなければならない気がする」
仲間たちが顔を見合わせる。
そして、一人が笑った。
「じゃあ、行こう。一緒に」
全員が剣を掲げる。
決意。
深層を目指す、揺るぎない決意。
ビジョンが途切れた。
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私は手を離し、後ずさった。
息が荒い。汗が流れている。
心臓が激しく鳴っている。
「……警告」
この石碑は、警告だったのか。
「これより先、人の領域にあらず」
だが、私たちは行った。
警告を無視して。
500階層まで。
なぜ?
何が、私たちをそこまで駆り立てたのだろう。
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私は石碑をもう一度見た。
文字が、微かに光っている気がする。
いや、光っているのではない。
私の目が、何かを見ようとしているのだ。
記憶が、呼び覚まされようとしている。
「……このダンジョンは、何なのだろう」
自然の産物ではない。
誰かが作った。
何かの目的のために。
そして、その目的は――人を深層へ導くこと。
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私は石碑に背を向けた。
2階層への階段が、目の前にある。
暗闇の中、下へ続く階段。
「答えは、さらに先にある」
だが、今日はここまでだ。
情報が多すぎる。
一度、整理する必要がある。
私は地上へ戻ることにした。
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階段を上りながら、考えた。
仲間がいた。
確かに、数人の仲間と一緒に潜っていた。
彼らは、警告を見ても引き返さなかった。
私と一緒に、深層を目指した。
だが――今、彼らはどこにいるのだろう。
生きているのか。
それとも――。
胸が締め付けられる。
「……必ず、思い出す」
私は拳を握りしめた。
「すべてを」
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地上へ戻ると、朝の光がまぶしかった。
まだ朝の8時。
数時間しか経っていないのに、まるで一日が過ぎたような気がする。
管理ゲートの職員が、討伐記録を確認して驚いている。
「ゴブリン18体、ホブゴブリン5体、コボルド3体……全部一人で?」
私は黙って頷いた。
職員は何も言わず、ギルドカードを返した。
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宿舎へ戻る途中、ミラと出会った。
「セリアさん! もう戻ってきたんですか?」
彼女は驚いた顔で駆け寄ってくる。
「ああ。少し、整理したいことがあって」
「大丈夫ですか? 顔色が……」
「大丈夫だ」
私はミラを見た。
「ただ、わかったことがある」
「わかったこと……?」
「このダンジョンは、自然にできたものじゃない」
ミラは目を見開いた。
「誰かが作った。何かの目的のために」
「誰が……?」
「わからない。でも、必ず突き止める」
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部屋に戻り、私は窓辺に立った。
ダンジョンの穴を見つめる。
1階層だけで、これだけの発見があった。
2階層、3階層……さらに深く行けば、もっと思い出せる。
私は剣を見た。
「お前は、何を知っている」
剣は相変わらず沈黙している。
だが、微かに脈打っている。
まるで、何かを待っているように。
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私は決意を新たにした。
「明日から、毎日潜る」
記憶を、一つずつ取り戻す。
仲間のこと。
深層で何があったのか。
そして――あの選択の意味。
すべてを知る。
窓の外、ルミナスの街が活気づいている。
新しい一日が始まる。
私の旅も、本当の意味で始まる。
「待っていろ。必ず、辿り着く」
ダンジョンの奥底へ。
真実へ。
そして――失われた記憶へ。
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**【序章 完】**
**【第1章へ続く】**
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