第107話 水鏡の間
339階層を進むこと数時間。私たちは奇妙な場所に辿り着いた。
それは——水で満たされた広間だった。
床一面に、膝下ほどの深さの水が張られている。天井は高く、青白い光が水面を照らしていた。光が水面に反射し、壁に揺らめく波紋の影を映し出している。
「……何だ、ここは」
ゼノが呟いた。
「水の間……ね」
ルナが静かに言った。
私たちは慎重に水の中へ足を踏み入れた。
ちゃぷん、という音が響く。
水は冷たく、澄んでいた。底がよく見える。床は平らな石で、特に危険なものは見当たらない。
「……モンスターはいないのか?」
ケインが周囲を警戒しながら言った。
「わからないわ。でも、油断は禁物よ」
エレナが答えた。
私たちは水の中を歩き始めた。
足音が水を掻く音に変わる。ちゃぷ、ちゃぷ、という規則正しい音が、広間に響いた。
そして——広間の中央に、何かが見えた。
それは——石碑だった。
高さは二メートルほど。表面には文字が刻まれている。
「……何か書いてあるぞ」
リオンが言い、私たちは石碑に近づいた。
石碑には、こう刻まれていた。
『鏡に映るは真実か、虚像か。己を知る者のみが、先へ進むことを許される』
「……どういう意味だ?」
ゼノが首を傾げた。
「謎解き……みたいね」
ルナが石碑を観察しながら言った。
私は周囲を見回した。
広間の四方に——大きな鏡が設置されていた。
それぞれの鏡は、縦三メートル、横二メートルほど。銀色の枠に囲まれていて、水面の上に浮いているかのように立っている。
「……鏡か」
リオンが呟いた。
「『鏡に映るは真実か、虚像か』……この鏡が何か関係しているのね」
エレナが言った。
私たちは最も近い鏡に近づいた。
鏡には——私たちの姿が映っていた。
六人の姿。
だが——何かがおかしい。
私は目を凝らした。
鏡に映る六人の並び順が——実際とは違う。
実際は、左からゼノ、リオン、私、エレナ、ケイン、ルナの順だ。
だが、鏡には——左から私、ゼノ、エレナ、リオン、ルナ、ケインの順で映っていた。
「……並び順が違うぞ」
ケインが気づいた。
「本当ね。これは……何か意味があるのかしら」
エレナが言った。
私たちは次の鏡へ移動した。
二つ目の鏡には——また違う並び順で映っていた。
左からルナ、ケイン、私、リオン、エレナ、ゼノ。
「……全部違うな」
ゼノが呟いた。
私たちは三つ目、四つ目の鏡も確認した。
全て、並び順が異なっていた。
「……これは、どういう意味なんだ?」
リオンが考え込んだ。
私は石碑の言葉を思い出した。
『鏡に映るは真実か、虚像か。己を知る者のみが、先へ進むことを許される』
……真実か、虚像か。
四つの鏡のうち、一つだけが「真実」を映しているということか?
「……もしかしたら、正しい並び順を見つけるのが試練なのかもしれない」
私は呟いた。
「正しい並び順……?」
エレナが首を傾げた。
「ああ。四つの鏡のうち、一つだけが『真実』を映している。それを見つけろ、ということかもしれない」
リオンが私の言葉を引き継いだ。
「でも、どうやって見分けるんだ?」
ケインが尋ねた。
私は考えた。
……正しい並び順とは、何だろう。
私たちが今立っている順番?
いや、それは偶然の並びだ。「真実」とは言えない。
では——何が「真実」なのか。
私は四つの鏡を順番に見た。
一つ目: 私、ゼノ、エレナ、リオン、ルナ、ケイン
二つ目: ルナ、ケイン、私、リオン、エレナ、ゼノ
三つ目: リオン、私、エレナ、ケイン、ルナ、ゼノ
四つ目: ゼノ、リオン、私、エレナ、ケイン、ルナ
……四つ目。
それは——実際の並び順と同じだった。
「……四つ目の鏡だ」
私は呟いた。
「え?」
エレナが振り向いた。
「四つ目の鏡だけが、実際の並び順と同じだ。これが『真実』だ」
私は四つ目の鏡を指差した。
リオンが確認し、頷いた。
「……本当だ。これだけが、今の俺たちの並び順と一致している」
「じゃあ、この鏡が答えなのか?」
ゼノが尋ねた。
「試してみよう」
リオンが言い、四つ目の鏡に近づいた。
彼が鏡に手を触れると——鏡が光り始めた。
青白い光が溢れ出す。
そして——広間全体が揺れた。
水面が波打ち、光が乱反射する。
私たちは思わず身構えた。
だが——攻撃は来なかった。
代わりに——広間の奥に、扉が現れた。
水の中から、ゆっくりと石造りの扉が浮かび上がってくる。
「……開いた」
ケインが安堵の息を吐いた。
「やったわね」
エレナが微笑んだ。
リオンは扉を見据えた。
「……行くぞ」
彼がそう言い、私たちは扉へ向かった。
扉は既に開いていた。その先には——階段があった。
340階層への階段だ。
私たちは階段を降り始めた。
だが——私は、ふと振り返った。
四つの鏡が、まだそこにあった。
それぞれに、私たちの姿が映っている。
でも——何かが、引っかかった。
四つ目の鏡。
それは「真実」を映していた。
実際の並び順と同じだった。
でも——それは本当に「真実」なのだろうか?
私は心の中で呟いた。
……いや、考えすぎだ。
謎は解けた。扉は開いた。
それで十分だ。
私は前を向き、階段を降りた。
340階層は——長い通路だった。
天井は低く、壁は狭い。松明が等間隔で設置されていて、炎が揺れている。
「……狭いな」
ゼノが呟いた。
「ええ。一列で進むしかないわね」
エレナが言った。
私たちは一列になり、通路を進んだ。
リオンが先頭、次にゼノ、私、エレナ、ケイン、ルナの順だ。
足音が通路に響く。
そして——私は気づいた。
足音が——また揃っている。
一列で歩いているのに、まるで一人が歩いているかのように足音が揃っている。
……気のせいだろうか。
いや、きっと通路が狭いからだ。
音が反響しているだけだ。
私はそう自分に言い聞かせた。
でも——心の奥底では、小さな違和感が静かに残り続けていた。
通路を抜けると、小さな空間に出た。
「……ここで休もう」
リオンが言い、私たちは荷物を下ろした。
夜。
焚き火の周りに座り、私たちは静かに食事をしていた。
炎が揺れる。影が踊る。
「今日の謎解き、面白かったな」
ケインが笑顔で言った。
「ええ。でも、ちょっと難しかったわ」
エレナが答えた。
私は火を見つめていた。
今日の試練——水鏡の間。
四つの鏡のうち、一つだけが「真実」を映していた。
でも——本当にそうだったのだろうか?
……いや、何を考えているんだ。
謎は解けた。それで十分だ。
私は頭を振り、食事に集中した。
炎が揺れる。
影が踊る。
そして——もし誰かが、焚き火の影を注意深く観察していたら——きっと気づいただろう。
六人の影が、時折、微かに同じ動きをしていることに。
まるで——一つの影が、六つに分かれているかのように。
でも——セリアは、まだ気づいていなかった。
彼女はただ——火を見つめていた。
夜は、静かに更けていった。




