第104話 影の階層
335階層へ降りたとき、私は思わず息を呑んだ。
そこは——暗闇に包まれていた。
いや、正確には暗闇ではない。微かな光が漂っているが、それはあまりにも弱々しく、ほとんど闇と変わらなかった。視界が利かない。数メートル先がぼやけて見える。
「……暗いな」
ゼノが呟いた。
「ええ。松明が必要ね」
エレナが言い、私たちは松明を取り出した。
火を灯すと、周囲がぼんやりと見えるようになった。
335階層は——広大な空間だった。
天井は見えない。壁も遠くて判別できない。ただ、床だけが松明の光に照らされている。床は平らで、黒い石でできていた。表面は滑らかで、まるで磨かれた鏡のように光を反射している。
そして——影があった。
床に、無数の影が映り込んでいる。
私たちの影、松明の影、そして——他の影。
……他の影?
私は目を凝らした。確かに、私たちのもの以外の影がある。人型の影だ。だが、その影に対応する実体が見当たらない。
「……何だ、これは」
ケインが不安そうに呟いた。
「影だけがある……?」
ルナが床を見つめながら言った。
リオンは周囲を警戒しながら、静かに前進した。
「気をつけろ。何が起こるかわからない」
彼の声は低く、緊張感に満ちていた。
私たちは慎重に歩き始めた。
足音が、静寂の中で響く。松明の炎が揺れる。影が動く。
そして——私は気づいた。
床に映る影が——私たちの動きとは少しだけずれている。
ほんの一瞬。
私が右足を踏み出すと、影は左足を踏み出す。私が剣を握ると、影は剣を離す。
微妙なずれ。
でも——確かに、そこにあった。
……これは、何だ?
私は心の中で呟いた。だが、答えは見つからない。
「……前方に何かいるぞ」
ゼノが警告した。
私たちは立ち止まった。
松明の光が届く限界のところに——何かが立っていた。
人型の影。
だが、それには実体があった。
私たちは武器を構えた。
影が——動いた。
それは、まるで煙のように流れるように近づいてきた。輪郭が曖昧で、まるで実体を持たないかのようだった。だが、その手には剣が握られている。漆黒の剣。光を全く反射しない、闇そのもののような剣。
「来るぞ!」
リオンが叫び、影が襲いかかってきた。
ゼノが前に出る。彼の大剣が、影の剣を受け止めた。
金属音がした。
影には実体がある。
ゼノが剣を押し返す。影がよろめいた。
「今だ!」
リオンが叫び、私たちが一斉に攻撃した。
ケインが右から斬りかかる。エレナが左から突く。ルナが足元を狙う。
そして私は——正面から剣を振り下ろした。
刃が影を貫いた。
影が——霧散した。
煙のように消えていく。そして、床に影だけが残った。
「……終わったか」
ゼノが息を吐いた。
「ええ。でも、まだいるかもしれないわ」
エレナが周囲を警戒しながら言った。
私は床を見つめた。さっきの影が、まだ床に残っている。だが、それは次第に薄れていき、やがて完全に消えた。
……影のモンスター。
初めて見る種類だった。
私たちは再び歩き始めた。
松明の光が、闇を照らす。影が揺れる。
そして——また、影のモンスターが現れた。
今度は三体。
「囲まれるな!」
リオンが叫び、私たちは陣形を整えた。
三体の影が、同時に襲いかかってくる。
ゼノが一体を受け止めた。リオンがもう一体と剣を交える。
そして私は——残る一体と向き合った。
影が剣を振り下ろす。私は剣で受け止めた。
衝撃が腕に伝わる。
影は——軽い。
力が弱い。だが、動きが速い。
影が剣を引き、再び斬りかかる。私は横に跳んで躱した。
そして——踏み込む。
剣を横に薙ぐ。刃が影の胴体を切り裂いた。
影が霧散する。
「……終わった」
私は息を整えた。
周囲を見ると、ゼノとリオンも影を倒していた。
「……厄介だな、こいつら」
ゼノが肩で息をしながら言った。
「ええ。数が多いと危険ね」
エレナが言った。
私たちは少し休憩し、再び歩き始めた。
335階層は、とにかく広かった。どこまで歩いても、景色が変わらない。ただ、暗闇と床と影だけが続いている。
時折、影のモンスターが現れたが、全て撃破した。
だが——私は気づき始めていた。
何かが、おかしい。
それは、戦闘中の仲間の動きだった。
リオンが「今だ」と叫ぶタイミング。
エレナが攻撃を仕掛けるタイミング。
ケインが後退するタイミング。
全てが——私の動きの後だった。
まるで——私の動きを見てから、動いているかのように。
……いや、それは当然だ。
戦闘では、お互いの動きを見て連携する。それは普通のことだ。
でも——何かが、違う。
その「見てから動く」という間隔が——ほんの少しだけ、長すぎる気がする。
一瞬の遅れ。
気づかないほどに小さな。
でも——確かに、そこにあった。
「……セリア」
リオンが声をかけてきた。
「……何だ」
「お前、さっきから黙ってるが、大丈夫か?」
「……ああ、大丈夫だ」
私はそう答えた。
リオンは私を見つめていたが、やがて前を向いた。
「そうか。無理はするなよ」
「……わかっている」
会話が途切れた。
私たちは再び沈黙の中を歩いた。
松明の炎が揺れる。影が踊る。
そして——私は床を見た。
私の影が、そこにある。
だが——その影は、私とは少しだけ違う動きをしていた。
ほんの一瞬。
私が右手を動かすと、影は左手を動かす。
私が前を向くと、影は横を向く。
微妙なずれ。
……これは、何だ?
私は心の奥底で呟いた。
何かが、おかしい。
でも、それが何なのか——まだ、わからない。
ただ——この違和感だけが、確かに私の中に残り続けていた。
どれだけ歩いただろうか。
ようやく、階段が見えた。
336階層への階段だ。
「……やっと着いたか」
ゼノが安堵の息を吐いた。
「長い階層だったわね」
エレナが言った。
私たちは階段の前で立ち止まった。
「……今日はここまでにしよう。この先で休める場所を探す」
リオンが言った。
「ああ。もう限界だ」
ケインが同意した。
私たちは336階層へと降りた。階段を降りると、そこには小さな空間が広がっていた。天井は低く、壁に囲まれた安全そうな場所だった。
「……ここで休もう」
リオンが言い、私たちは荷物を下ろした。
夜。
焚き火の周りに座り、私たちは静かに食事をしていた。
炎が揺れる。影が踊る。
そして——私は気づいた。
焚き火に映る、仲間たちの影。
それらは——同じ動きをしていた。
全く同じ。
リオンが手を伸ばすと、ゼノの影も手を伸ばす。
エレナが顔を上げると、ケインの影も顔を上げる。
ルナが剣を触ると、全員の影が剣を触る。
まるで——一つの影が、六つに分かれているかのように。
……何だ、これは。
私は心臓が早鐘を打つのを感じた。
何かが、おかしい。
でも、それが何なのか——。
「……セリア?」
エレナが心配そうに声をかけてきた。
私は顔を上げた。
エレナは微笑んでいた。優しい笑顔。
だが——その笑顔が、一瞬だけ固まった。
ほんの一瞬。
まるで——時間が止まったかのように。
そして——すぐに元に戻った。
「……大丈夫よ。疲れてるのね」
彼女がそう言った。
私は頷いた。
「……ああ、少し疲れた」
「無理しないでね」
エレナが優しく言った。
私は再び火を見つめた。
炎が揺れる。
影が踊る。
そして——私の中の違和感は、少しずつ大きくなっていた。
何かが、おかしい。
何かが——確実に、おかしい。
でも——それが何なのか。
まだ——わからない。
夜は、静かに更けていった。




