第100話 深層の境界
327階層。
階段を下りると、そこは今までで最も広大な空間だった。
天井は遥か高く、まるで空のように広がっている。床は白い大理石のように滑らかで、光を反射している。柱が幾何学的な配置で立ち並び、その一つ一つが巨大で、まるで古代の神殿のような荘厳さを湛えていた。
「……すごい」
エレナが小さく呟いた。
「……ああ」
リオンも頷いた。
「……こんな場所、初めて見る」
私たちは——ゆっくりと空間へ足を踏み入れた。足音が、不思議なほど静かに響く。まるで、この空間全体が音を吸収しているような感覚だった。
「……何だ、ここは」
ゼノが周囲を見回した。
「……神殿、みたいだな」
「……ああ」
ケインも頷いた。
「……古代の、神殿」
私は——空間の中央へ歩いた。仲間たちも、後に続く。六人の足音が、静寂の中に溶けていく。
中央には——巨大な円形の床があった。白い大理石に、無数の文字が刻まれている。古代文字。だが、その中に——読める文字もあった。
「……何て書いてある?」
エレナが尋ねた。
私は——円形の床に刻まれた文字を読んだ。
『——ここは、境界——』
『——低層と深層の、境界——』
『——ここから先は、もう戻れない——』
『——覚悟を決めた者のみ、進め——』
「……境界」
リオンが呟いた。
「……ここが、300階層台の節目か」
「……もう戻れない、か」
ゼノが言った。
「……まあ、もう300階層から戻れないんだから——今更だな」
みんなが、小さく笑った。
だが——その笑いには、緊張が混じっていた。
「……進むか」
リオンが私を見た。
「……セリア、お前はどうする」
「……」
私は——円形の床を見つめた。
ここから先は、もう戻れない。
その言葉が、重く響く。
でも——。
「……進む」
私は答えた。
「……ここまで来て、引き返すわけにはいかない」
「……そうか」
リオンが頷いた。
「……なら、俺たちも一緒だ」
「……当然だろ」
ケインが笑った。
「……私たちは、仲間よ」
エレナが微笑んだ。
「……ああ」
ルナも静かに頷いた。
「……一緒に、行こう」
ゼノが私の肩を叩いた。
「……」
私は——みんなを見つめた。
リオン、エレナ、ケイン、ルナ、ゼノ。
みんな、そこにいる。
確かに、そこに。
「……ありがとう」
私は小さく言った。
「……みんな、ありがとう」
みんなが——微笑んだ。
そして——私たちは、円形の床の上に立った。
六人で。
その瞬間——。
床が、光り始めた。
「……!」
私たちは驚いて周囲を見回した。
白い光が、円形の床全体を包む。そして——床に刻まれた文字が、一つずつ光り始めた。まるで、何かを起動させるように。
「……何だ、これは」
ゼノが呟いた。
光が、さらに強くなる。
眩しい。
目を閉じる。
そして——。
風が吹いた。
どこからともなく、風が。
温かい風。
それは——まるで、誰かが優しく背中を押しているような感覚だった。
『——よくぞ、ここまで来た——』
声が聞こえた。
低く、重い声。
でも——それは、306階層の結晶の声とは違う。もっと——温かい声だった。
「……誰だ」
リオンが問うた。
『——私は、導き手——』
声が答えた。
『——深層へ進む者を、導く者——』
「……導き手」
私は呟いた。
『——お前たちは、よくやった——』
声が続けた。
『——低層から、ここまで——』
『——多くの者が、ここに辿り着けない——』
『——だが、お前たちは辿り着いた——』
『——その勇気を、称える——』
光が、さらに強くなった。
そして——空間全体が、変わり始めた。
柱が——一つずつ、光り始める。
床が——波紋のように、光を放つ。
天井が——まるで星空のように、無数の光点で埋め尽くされる。
「……美しい」
エレナが呟いた。
確かに——美しかった。
この空間全体が、一つの芸術作品のように輝いている。
『——だが——』
声のトーンが、変わった。
『——ここから先は、過酷だ——』
『——お前たちの心を、試される——』
『——剣の囁きは、さらに強くなる——』
『——己を見失う者も、多い——』
「……」
私たちは——黙って聞いていた。
『——それでも——』
声が続けた。
『——進むか——』
静寂。
みんなが——私を見た。
「……セリア」
リオンが言った。
「……お前が決めろ」
「……」
私は——考えた。
ここから先は、過酷だ。
心を試される。
剣の囁きは、さらに強くなる。
でも——。
「……進む」
私は答えた。
「……答えは、深層にある」
「……500階層に、全ての真実がある」
「……だから——進む」
『——そうか——』
声が言った。
『——では——』
『——祝福を、授けよう——』
光が——私たちを包んだ。
温かい光。
それは——まるで、太陽の光のように優しかった。
体が、軽くなる。
疲労が、消えていく。
傷が、癒えていく。
「……これは」
ゼノが呟いた。
「……祝福、か」
『——お前たちに、力を与える——』
声が言った。
『——この先を、生き延びるために——』
光が、さらに強くなった。
そして——私の剣が、反応した。
空虚の剣が——微かに光った。
青白い光。
「……!」
私は剣を見下ろした。
剣が——光っている。
今まで、ほとんど反応しなかった剣が。
『——空虚の剣——』
声が言った。
『——特別な剣——』
『——お前の剣は——他とは違う——』
『——それを、忘れるな——』
「……」
私は——剣を見つめた。
空虚の剣。
何も宿っていない剣。
でも——今、光っている。
それは——何を意味するのか。
『——では、行け——』
声が言った。
『——深層へ——』
『——真実へ——』
光が、消えた。
空間が——元に戻った。
柱の光が消え、床の波紋が止まり、天井の星が消える。
静寂。
「……終わったのか」
ケインが呟いた。
「……ああ」
リオンが頷いた。
「……でも——」
彼は自分の体を見た。
「……確かに、楽になった」
「……私も」
エレナが言った。
「……疲労が、全部消えた」
「……祝福、か」
ゼノが呟いた。
「……ありがたいな」
私は——剣を見下ろした。
空虚の剣。
もう、光っていない。
でも——確かに、光った。
「……」
この剣には、何かある。
何かが——隠されている。
「……行こう」
リオンが言った。
「……次の階層へ」
私たちは——階段へ向かった。
328階層へ。
そして——その先へ。
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328階層。329階層。330階層。
階段を下り続ける。
祝福の効果だろうか——体が軽い。疲労を感じない。まるで、今日ダンジョンに入ったばかりのような感覚だった。
「……すごいな」
ケインが言った。
「……全然疲れない」
「……ああ」
リオンも頷いた。
「……祝福の力、か」
私は——黙って歩いていた。
祝福。
確かに、体は楽になった。
でも——心の中では、違和感が残っていた。
あの声。
導き手。
本当に、信じていいのか。
「……セリア」
ゼノが私の隣に並んだ。
「……考え込んでるな」
「……ああ」
私は頷いた。
「……あの声のこと、か」
「……ああ」
「……俺も、少し引っかかってる」
ゼノが言った。
「……あんな都合よく、祝福なんて——」
「……でも、実際に体は楽になった」
「……ああ」
ゼノが頷いた。
「……だから、信じるしかないのかもな」
「……」
私は——何も言わなかった。
信じるしかない。
そうかもしれない。
でも——。
心の奥底で、何かが引っかかっていた。
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331階層。
広間に出た。
そこには——モンスターがいた。
キメラ。Sランク。
「……来たぞ!」
リオンが叫んだ。
私たちは——剣を抜いた。
戦闘が、始まる。
リオンが正面から攻撃する。ケインとゼノが左右から。エレナとルナが後方支援。私は——キメラの死角から。
連携が、完璧だった。
そして——祝福の効果だろうか。
みんなの動きが、いつもより速い。
鋭い。
「……せいっ!」
私はキメラの獅子の首を斬った。
ケインが山羊の首を。
ゼノが蛇の尾を。
キメラが倒れる。
「……やったな」
リオンが笑った。
「……祝福の力、すごいな」
「……ああ」
みんなが頷いた。
私は——倒れたキメラを見つめた。
確かに——いつもより、楽だった。
戦闘が、スムーズだった。
でも——。
何かが、おかしい。
何が、とは言えない。
ただ——何かが。
「……セリア」
エレナが私を見た。
「……大丈夫?」
「……ああ」
私は頷いた。
「……大丈夫だ」
エレナが——微笑んだ。
その微笑みは——温かかった。
でも——。
一瞬だけ——。
その微笑みが、固まって見えた気がした。
まるで——作り物のような。
「……」
私は目をこすった。
気のせいだろうか。
疲れているのか。
「……行こう」
リオンが言った。
「……次の階層へ」
私たちは——また階段を下り始めた。
332階層へ。
そして——その先へ。
私は——剣を握りしめた。
空虚の剣。
この剣だけが——私の確かなものだ。
仲間も、ここにいる。
でも——。
心の奥底で、何かが囁き続けていた。
本当に、大丈夫なのか、と。
本当に——みんな、そこにいるのか、と。
私は——その声を、必死で無視した。
考えないようにした。
今は——ただ、前へ進むだけだ。
深層へ。
真実へ。
そして——500階層へ。




