表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/26

プロローグ 空虚なる帰還者


 目を開けたとき、世界は灰色だった。


 いや、違う。灰色に見えたのは、私の目が何も認識できなかったからだ。視界に映る景色の意味が、まるで理解できなかった。


 ここはどこだ。

 私は誰だ。

 なぜ、地面に倒れている。


 体を起こそうとして、右手に何かが握られていることに気づいた。冷たく、硬い感触。本能的に、それが「大切なもの」だと理解した。だが、それが何なのかは分からない。


 漆黒の刀身。

 装飾のない柄。

 ただ、静かにそこに在る。


「……剣?」


 口から出た言葉の意味すら、曖昧だった。でも、この黒い物体が「剣」と呼ばれるものだということは、なぜか分かった。知識だけが、記憶の欠片として頭の中に浮かんでいる。感情も、体験も、何もかもが抜け落ちているのに。


 ゆっくりと立ち上がる。体は動く。痛みもない。ただ、空っぽだった。


 周囲を見渡すと、石畳の広場だった。噴水がある。水が流れている。その音が、やけに大きく響いた。人の気配はない。建物が並んでいるが、それが何のための建物なのか分からない。


 広場の端に、大きな看板があった。文字が読めた。知識として、文字の読み方は残っているらしい。


『始祖の都ルミナス 中央広場』


 ルミナス。

 この響きに、何か感じるものがあった。でも、それが何なのか分からない。


 ふと、自分の服装に目を向けた。黒いコート。革のブーツ。動きやすそうな服だ。所々、破れている。汚れている。血? いや、違う。何か黒い液体のようなものが染み込んでいる。


 腰に、小さな革袋が下がっていた。中を確かめると、硬質なカードが一枚入っていた。


 表面には、複雑な紋様。そして、文字。


```

深淵管理機構 ギルドカード

氏名:セリア・アッシュフォード

生年月日:エレミア歴982年7月12日

出身都市:始祖の都ルミナス

登録日:エレミア歴983年5月3日

最高到達階層:500

```


 500。


 その数字を見た瞬間、頭の奥が痛んだ。鋭い、何かが脳を刺すような痛み。吐き気がこみ上げ、膝をついた。


 視界が歪む。

 何かが、溢れてくる。


 ――剣が、刺さっている。

 ――無数の、剣が。

 ――10万本の、剣が。


「っ……!」


 声にならない悲鳴を上げて、頭を抱えた。剣を地面に突き立てて、体を支える。呼吸が乱れる。心臓が激しく跳ねる。


 何だ、今のは。

 幻覚か。

 それとも、記憶か。


 痛みが引いていく。ゆっくりと顔を上げると、広場の反対側に人影があった。


 中年の男性だった。立派な髭を蓄え、機構の制服を着ている。彼は私を見て、眉をひそめた。


「君、そこで何をしている」


 男が近づいてくる。私は本能的に剣を構えた。理由は分からない。ただ、警戒しなければならないと感じた。


「落ち着きなさい。私は機構の者だ。君のギルドカードを見せてもらえるか?」


 ギルドカード。


 私は震える手で、先ほどのカードを差し出した。男はそれを受け取り、表面を確認する。そして、固まった。


「……セリア・アッシュフォード?」


 男の声が、わずかに上ずった。


「最高到達階層、500だと……? 馬鹿な。こんな記録は――」


 男は私の顔を凝視した。疑念と、恐怖が入り混じった目だった。


「君は、本当にセリア・アッシュフォードなのか?」


「……分かりません」


 私は答えた。


「私は、自分が誰なのか分からないんです。ここがどこなのかも。このカードに書かれた名前が、本当に私の名前なのかも」


「記憶喪失、だと……?」


 男は困惑した表情を浮かべた。それから、カードを私に返し、数歩後ずさった。


「君、ここで待っていなさい。上に報告する。500階層到達者が記憶を失って帰還したなど、前例がない。いや、そもそも500階層到達自体が――」


 男は言葉を濁した。そして、早足で広場を去っていった。


 取り残された私は、再びカードを見つめた。


 セリア・アッシュフォード。

 17歳。

 500階層到達。


 この情報が、何を意味するのか。

 なぜ、私は記憶を失っているのか。

 なぜ、この黒い剣を握っているのか。


 答えは、何もない。


 ただ、一つだけ確信していることがあった。


 ――この剣は、何も語らない。


 他の剣は違うのだろうか。他の人々が持つ剣は、主人に語りかけるのだろうか。そんな知識が、頭の片隅にあった。でも、私の剣は沈黙している。


 まるで、空っぽのように。


 私は立ち上がり、剣を鞘に収めた。鞘がどこにあったのかも分からないが、腰に装着されていた。体が、勝手に動いた。


 噴水の水面に、自分の姿が映った。


 黒髪。

 灰色の瞳。

 痩せた頬。

 17歳には見えない、疲弊した表情。


 これが、私。


 セリア・アッシュフォード。


 500階層から帰還した、記憶を失った少女。


 ――だが、本当にそうなのだろうか。


 頭の奥で、何かが囁いている。


 *お前は、帰還者ではない*。

 *お前は、運び手だ*。

 *お前は、鍵だ*。


 囁きの意味が、分からない。


 でも、分かってしまったら最後、私は私でいられなくなる気がした。


-----


 その日、始祖の都ルミナスに、一つの噂が広まった。


「500階層到達者が現れた」と。


 だが、それを信じる者は誰もいなかった。


 機構の記録によれば、人類史上、最高到達階層は450階層。それは20年前、「終焉を謳う者」と呼ばれた男が記録したものだ。


 500階層など、おとぎ話に過ぎない。


 ギルドカードの不具合だろう。

 あるいは、詐欺師の仕業だろう。


 そう、人々は語った。


 だが、深淵管理機構の最上層部は違った。


 彼らは知っていた。


 500階層が、実在することを。

 そして、そこに到達した者が、決して生きて帰れないことを。


 ならば、目の前に立つこの少女は何者なのか。


 機構本部、最上階の執務室。


 白髪の老人――機構総帥ガルヴァン・ロードは、部下の報告を聞きながら、窓の外を見つめていた。


「セリア・アッシュフォード。17歳。始祖の都出身。2年前に忽然と姿を消した少女だ」


「2年前……つまり、15歳のときか」


「はい。当時、彼女は200階層を目指していた有望な冒険者でした。だが、ある日を境に消息を絶った。捜索隊が派遣されましたが、発見できず。死亡したものと思われていました」


「それが、2年ぶりに帰還した。しかも、記憶を失い、ギルドカードには500階層到達の記録がある、と」


「……はい」


 ガルヴァンは、深いため息をついた。


「彼女の剣は?」


「空虚の剣、との報告です」


「空虚の剣だと……?」


 ガルヴァンの表情が、初めて動いた。


「まさか、そんな剣が実在したとは。いや、だからこそか。だからこそ、彼女は500階層から帰還できた」


「総帥、どういう意味ですか」


「……いい。今は説明している時間がない」


 ガルヴァンは部下に向き直った。


「セリア・アッシュフォードを監視しろ。だが、危害を加えてはならない。彼女が何を知っているのか。何を持ち帰ったのか。それを見極める」


「了解しました」


 部下が退室する。


 一人残されたガルヴァンは、再び窓の外を見つめた。


 遥か彼方、都市の中心に聳え立つ巨大な穴。


 ダンジョンの入口。


 あの奥底に、何があるのか。


 500階層に、何が待っているのか。


 それを知る者は、もういない。


 いや、一人だけいる。


 記憶を失った少女が。


「……時が、動き始めたか」


 ガルヴァンは呟いた。


 そして、机の引き出しから、古い書類を取り出した。


 そこには、一つの予言が記されていた。


```

空虚なる者が帰還するとき、

世界は終焉と再生の狭間に立つ。

剣が人を支配する時代は終わり、

新たなる選択が人類に委ねられる。


ただし、その選択は祝福ではなく、呪いである。

なぜなら、正解など存在しないのだから。

```


 予言の日付は、200年前。


 記したのは、初代機構総帥。


 この予言を知る者は、現在の総帥であるガルヴァンただ一人だった。


「セリア・アッシュフォード……お前が、その『空虚なる者』なのか」


 答えは、まだ分からない。


 だが、確信していた。


 世界が、変わり始めている。


 剣が支配する世界が、終わりを迎えようとしている。


 その引き金を引いたのが、記憶を失った一人の少女だとは、まだ誰も気づいていなかった。


-----


 夜。


 セリアは、機構が用意した宿舎のベッドに横たわっていた。


 天井を見つめる。


 何も思い出せない。

 何も感じない。

 ただ、空虚だった。


 枕元に置いた黒い剣が、月明かりを反射して鈍く光っている。


 手を伸ばし、柄に触れた。


 冷たい。

 何も語らない。

 ただ、そこに在る。


「……お前は、何も教えてくれないのか」


 囁くように問いかける。


 答えは、ない。


 でも、それでいいのかもしれない。


 もし剣が答えたら、私は私でいられなくなる気がした。


 目を閉じる。


 暗闇の中、また囁きが聞こえた。


 *7人*。

 *あと7人で、世界は終わる*。

 *お前は、それを止めるのか*。

 *それとも、加担するのか*。


「……意味が、分からない」


 私は呟いた。


 でも、分かってしまう日が来る。


 その日、私は選択を迫られる。


 正解のない、残酷な選択を。


 ――それが、500階層から帰還した代償なのだと、まだ私は知らなかった。


-----

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ