プロローグ 空虚なる帰還者
目を開けたとき、世界は灰色だった。
いや、違う。灰色に見えたのは、私の目が何も認識できなかったからだ。視界に映る景色の意味が、まるで理解できなかった。
ここはどこだ。
私は誰だ。
なぜ、地面に倒れている。
体を起こそうとして、右手に何かが握られていることに気づいた。冷たく、硬い感触。本能的に、それが「大切なもの」だと理解した。だが、それが何なのかは分からない。
漆黒の刀身。
装飾のない柄。
ただ、静かにそこに在る。
「……剣?」
口から出た言葉の意味すら、曖昧だった。でも、この黒い物体が「剣」と呼ばれるものだということは、なぜか分かった。知識だけが、記憶の欠片として頭の中に浮かんでいる。感情も、体験も、何もかもが抜け落ちているのに。
ゆっくりと立ち上がる。体は動く。痛みもない。ただ、空っぽだった。
周囲を見渡すと、石畳の広場だった。噴水がある。水が流れている。その音が、やけに大きく響いた。人の気配はない。建物が並んでいるが、それが何のための建物なのか分からない。
広場の端に、大きな看板があった。文字が読めた。知識として、文字の読み方は残っているらしい。
『始祖の都ルミナス 中央広場』
ルミナス。
この響きに、何か感じるものがあった。でも、それが何なのか分からない。
ふと、自分の服装に目を向けた。黒いコート。革のブーツ。動きやすそうな服だ。所々、破れている。汚れている。血? いや、違う。何か黒い液体のようなものが染み込んでいる。
腰に、小さな革袋が下がっていた。中を確かめると、硬質なカードが一枚入っていた。
表面には、複雑な紋様。そして、文字。
```
深淵管理機構 ギルドカード
氏名:セリア・アッシュフォード
生年月日:エレミア歴982年7月12日
出身都市:始祖の都ルミナス
登録日:エレミア歴983年5月3日
最高到達階層:500
```
500。
その数字を見た瞬間、頭の奥が痛んだ。鋭い、何かが脳を刺すような痛み。吐き気がこみ上げ、膝をついた。
視界が歪む。
何かが、溢れてくる。
――剣が、刺さっている。
――無数の、剣が。
――10万本の、剣が。
「っ……!」
声にならない悲鳴を上げて、頭を抱えた。剣を地面に突き立てて、体を支える。呼吸が乱れる。心臓が激しく跳ねる。
何だ、今のは。
幻覚か。
それとも、記憶か。
痛みが引いていく。ゆっくりと顔を上げると、広場の反対側に人影があった。
中年の男性だった。立派な髭を蓄え、機構の制服を着ている。彼は私を見て、眉をひそめた。
「君、そこで何をしている」
男が近づいてくる。私は本能的に剣を構えた。理由は分からない。ただ、警戒しなければならないと感じた。
「落ち着きなさい。私は機構の者だ。君のギルドカードを見せてもらえるか?」
ギルドカード。
私は震える手で、先ほどのカードを差し出した。男はそれを受け取り、表面を確認する。そして、固まった。
「……セリア・アッシュフォード?」
男の声が、わずかに上ずった。
「最高到達階層、500だと……? 馬鹿な。こんな記録は――」
男は私の顔を凝視した。疑念と、恐怖が入り混じった目だった。
「君は、本当にセリア・アッシュフォードなのか?」
「……分かりません」
私は答えた。
「私は、自分が誰なのか分からないんです。ここがどこなのかも。このカードに書かれた名前が、本当に私の名前なのかも」
「記憶喪失、だと……?」
男は困惑した表情を浮かべた。それから、カードを私に返し、数歩後ずさった。
「君、ここで待っていなさい。上に報告する。500階層到達者が記憶を失って帰還したなど、前例がない。いや、そもそも500階層到達自体が――」
男は言葉を濁した。そして、早足で広場を去っていった。
取り残された私は、再びカードを見つめた。
セリア・アッシュフォード。
17歳。
500階層到達。
この情報が、何を意味するのか。
なぜ、私は記憶を失っているのか。
なぜ、この黒い剣を握っているのか。
答えは、何もない。
ただ、一つだけ確信していることがあった。
――この剣は、何も語らない。
他の剣は違うのだろうか。他の人々が持つ剣は、主人に語りかけるのだろうか。そんな知識が、頭の片隅にあった。でも、私の剣は沈黙している。
まるで、空っぽのように。
私は立ち上がり、剣を鞘に収めた。鞘がどこにあったのかも分からないが、腰に装着されていた。体が、勝手に動いた。
噴水の水面に、自分の姿が映った。
黒髪。
灰色の瞳。
痩せた頬。
17歳には見えない、疲弊した表情。
これが、私。
セリア・アッシュフォード。
500階層から帰還した、記憶を失った少女。
――だが、本当にそうなのだろうか。
頭の奥で、何かが囁いている。
*お前は、帰還者ではない*。
*お前は、運び手だ*。
*お前は、鍵だ*。
囁きの意味が、分からない。
でも、分かってしまったら最後、私は私でいられなくなる気がした。
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その日、始祖の都ルミナスに、一つの噂が広まった。
「500階層到達者が現れた」と。
だが、それを信じる者は誰もいなかった。
機構の記録によれば、人類史上、最高到達階層は450階層。それは20年前、「終焉を謳う者」と呼ばれた男が記録したものだ。
500階層など、おとぎ話に過ぎない。
ギルドカードの不具合だろう。
あるいは、詐欺師の仕業だろう。
そう、人々は語った。
だが、深淵管理機構の最上層部は違った。
彼らは知っていた。
500階層が、実在することを。
そして、そこに到達した者が、決して生きて帰れないことを。
ならば、目の前に立つこの少女は何者なのか。
機構本部、最上階の執務室。
白髪の老人――機構総帥ガルヴァン・ロードは、部下の報告を聞きながら、窓の外を見つめていた。
「セリア・アッシュフォード。17歳。始祖の都出身。2年前に忽然と姿を消した少女だ」
「2年前……つまり、15歳のときか」
「はい。当時、彼女は200階層を目指していた有望な冒険者でした。だが、ある日を境に消息を絶った。捜索隊が派遣されましたが、発見できず。死亡したものと思われていました」
「それが、2年ぶりに帰還した。しかも、記憶を失い、ギルドカードには500階層到達の記録がある、と」
「……はい」
ガルヴァンは、深いため息をついた。
「彼女の剣は?」
「空虚の剣、との報告です」
「空虚の剣だと……?」
ガルヴァンの表情が、初めて動いた。
「まさか、そんな剣が実在したとは。いや、だからこそか。だからこそ、彼女は500階層から帰還できた」
「総帥、どういう意味ですか」
「……いい。今は説明している時間がない」
ガルヴァンは部下に向き直った。
「セリア・アッシュフォードを監視しろ。だが、危害を加えてはならない。彼女が何を知っているのか。何を持ち帰ったのか。それを見極める」
「了解しました」
部下が退室する。
一人残されたガルヴァンは、再び窓の外を見つめた。
遥か彼方、都市の中心に聳え立つ巨大な穴。
ダンジョンの入口。
あの奥底に、何があるのか。
500階層に、何が待っているのか。
それを知る者は、もういない。
いや、一人だけいる。
記憶を失った少女が。
「……時が、動き始めたか」
ガルヴァンは呟いた。
そして、机の引き出しから、古い書類を取り出した。
そこには、一つの予言が記されていた。
```
空虚なる者が帰還するとき、
世界は終焉と再生の狭間に立つ。
剣が人を支配する時代は終わり、
新たなる選択が人類に委ねられる。
ただし、その選択は祝福ではなく、呪いである。
なぜなら、正解など存在しないのだから。
```
予言の日付は、200年前。
記したのは、初代機構総帥。
この予言を知る者は、現在の総帥であるガルヴァンただ一人だった。
「セリア・アッシュフォード……お前が、その『空虚なる者』なのか」
答えは、まだ分からない。
だが、確信していた。
世界が、変わり始めている。
剣が支配する世界が、終わりを迎えようとしている。
その引き金を引いたのが、記憶を失った一人の少女だとは、まだ誰も気づいていなかった。
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夜。
セリアは、機構が用意した宿舎のベッドに横たわっていた。
天井を見つめる。
何も思い出せない。
何も感じない。
ただ、空虚だった。
枕元に置いた黒い剣が、月明かりを反射して鈍く光っている。
手を伸ばし、柄に触れた。
冷たい。
何も語らない。
ただ、そこに在る。
「……お前は、何も教えてくれないのか」
囁くように問いかける。
答えは、ない。
でも、それでいいのかもしれない。
もし剣が答えたら、私は私でいられなくなる気がした。
目を閉じる。
暗闇の中、また囁きが聞こえた。
*7人*。
*あと7人で、世界は終わる*。
*お前は、それを止めるのか*。
*それとも、加担するのか*。
「……意味が、分からない」
私は呟いた。
でも、分かってしまう日が来る。
その日、私は選択を迫られる。
正解のない、残酷な選択を。
――それが、500階層から帰還した代償なのだと、まだ私は知らなかった。
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