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「でも千石さんは、酔ってる女の子に何かするような人ちゃうって」
「だから馬鹿だっつってんだよ、お前は」
いらいらした口調で雪乃は言った。
「でも」
「もういい、黙れ」
強い口調で言われ、朱理はしょんぼりと肩を落とした。
そのとき、ふと鎖骨に手を触れて気づく。
(ない)
食事の際につけていたはずの、ダイヤのネックレス。伯父の敏男からもらった高価なものだ。
外した覚えもないのに、いつの間にかなくなっている。
慌てて鞄の中に手を突っ込み、探してみるが見つからない。
(どっかで落としたか、ホテルに忘れてきたんや……。うわーどうしよ……あんな高いの弁償できへん)
小日向は朱理への報酬と言っていたが、あのネックレスに見合うだけの価値をまだ提供できていない。
最悪、後で返せばいいと思っていたが、失くしてしまうとはうかつだった。
「何きょろきょろしてる」
質問されて、朱理は首を振った。
「別に。それより雪ちゃん、千石さんに会うて話したら、めっちゃいい人やったよ」
「そいつの名前は出すな」
雪乃が再び険しい表情になる。
だが、朱理は食い下がった。
「離婚してお子さんが一人いはるんやって。お医者さんの仕事が忙しくて、なかなか家族との時間がないって言うてはったわ。でも、雪ちゃんとは合うんと違うかな。性格とか」
「で?」
冷ややかな言葉が、ナイフのように胸に突き刺さる。
はっきりした拒絶にへこたれながらも、朱理はおずおずと言った。
「……一回だけ会ってみぃへん?それで無理やったら、お断りすればいいし」
雪乃は鼻で笑った。
「お前さぁ、何でそんなに私の見合いを進めたがるの?親父から金でも積まれたか」
「な……」
屈辱と混乱で、頭が真っ白になる。
「よく考えてみろよ。昨日、お前は千石と飯を食ってどうなった?酒飲まされて眠らされて犯されてんだろうが。そんな人間を、よくもまあいい人だの会ってみろだの言えたもんだな」
「おか……!やめてよ雪ちゃん、そんなん違うって」
聞き捨てならない単語に、運転士がぎょっとしているのがバックミラー越しに見えた。
一気に頭に血が上り、体中が燃えたぎるように熱い。
「お前みたいな馬鹿は、どこまで行っても騙されていいように使われて搾取されて、そのことにすら気づかないんだろうな。見てるといらいらして、張っ倒したくなるわ」
思わず朱理は手を振り上げた。
その手は、振り下ろす前に空中で掴まれる。
雪乃はわずかに緑味がかった灰色の瞳で、朱理を凝視した。
もう怒りは込められていない。ただそこには、心底人を怯えさせるだけの何かがあった。
「何で……そんな酷いこと言うんよ」
朱理は力なく呟いた。
もう、怒鳴る気力もなかった。打ちのめされていた。
「私も暇ちゃうねん。好きでこんなアホなことしてるん違うよ。でも伯父さんが……伯父さんは、いつ亡くなるか分からへんねんで?それでも雪ちゃんに幸せになってほしいって、最後まで願ってはるんやで? そこまで大事に思われてて、何でそんな酷いことできるん?人間として最低やわ」
「最低で結構」
雪乃はうそぶいた。
「私が結婚しようとしまいと、親父は死ぬ。一生のお願いだか何だか知らないが、思いどおりに行くと思ったら大間違いだ。死にかけてる人間の望みは、絶対に叶えなきゃいけないなんて法律はない。私に従う義務もない」
「じゃあ、それを伯父さんと話してよ。私を巻き込まんといてよ!!」
「頼んでもないのに、勝手に首を突っ込んできたのはお前だろ。勝手に同情して、勝手に動いて、親父にいいように利用されてるんだろうが」
目がくらむほど激しい怒りと憎しみに、朱理はわなないた。
(許さへん)
殺意にも似た感情が胸を渦巻いている。
もう一秒たりとも一緒にいたくない。同じ空間で、同じ空気を吸っていることさえ耐えられなかった。
「運転手さん、降ろしてください」
朱理は言って、路肩にタクシーは停車する。
「逃げるなよ」
「離して!!」
朱理は金切り声で叫んだ。
自動でドアが開き、そのままタクシーを飛び出して走り出す。
(大嫌い、大嫌い、大嫌い!!)
雪乃が追ってこないかと、背後を振り返ったとき、鞄からタロットカードがこぼれて地面にちらばった。
拾い集めて目に入ったのは【THE DEATH.】のカードだった。
馬に乗った死神が、人々に死を与えに来る。
夜明け前の静寂と悟りに満ちた世界で、終わりと始まりが告げられる。
だが、荒れ狂う感情に飲み込まれて、カードの示す意味が読み取れず、朱理は心の中で叫んだ。
(雪ちゃんなんか、大っ嫌い!)




