01.古代ローマで奴隷と恋愛する
自由民と奴隷との恋愛として代表的なものには剣闘士への恋慕がある。
例えばユウェナリスは隻眼の剣闘士セルギオルスと共にエジプトに逃れた人妻エッピアを書く。またプルタルコスはガルバ伝で剣闘士マルティアヌスの高い名声に夢中になった女性ニンフィディアを、そしてカッシウス・ディオは剣闘士に心を奪われたコンモドゥス帝の母ファウスティナを書いた。そのほかペトロニウスのサテュリコンはやや風刺気味に身分の低い男性に惹かれる女性について触れる。
ポンペイの落書きにも、ケラトゥスやクレセンスといった剣闘士が若い女性たちから注目を集めたと書かれていた。
剣闘士は、基本的には下層階級出身──例えば戦争捕虜や奴隷、生活に窮した市民が就く職業だった。犯罪者が剣闘士として売り飛ばされることもあり、何度かそれを禁止する布告もされたが、適用され続けた。
彼らは剣闘士学校で訓練用の木剣rudusを与えられ、元剣闘士lanistaから戦い方を学び、闘技場で勝利を得ることでわずかな褒章を得ていた。
テルトゥリアヌスが彼らの作り上げられた肉体を非難し、剣闘士の担当医でもあったガレノスが肉ではなく豆を食べていたと言及し、プリニウスが博物誌で剣闘士には大麦が与えられていたと言うように、エフェソスの剣闘士遺骨群の調査によれば彼らは肉類をほとんど食べずに穀物と豆を中心に食べていて太っていた。彼らはモザイク画では鍛えられてはいるが絞られていない容姿で描かれいるが、実際は日本の力士のようであったかもしれない。
また博物誌にあるように戦いの後に灰汁を飲んでいたため、骨密度が高かった。彼らの身長は160cm台後半で当時の平均とあまり変わらない。10代から20代にかけて戦い続け、頭部への打撃か、背中から剣を刺されて死ぬ。みな何かしらの戦傷があり、生き残っていれば治療を受けて闘技場に立った。
剣闘士に夢中になるのは女性ばかりでない。
剣闘士の戦いは紀元前3世紀に始まり、帝政に代わってからも多くの皇帝たちが奨励していた。アウグストゥスがローマに最初の円形闘技場を築き、ローマ大火で失われた後にウェスパシアヌスがコロッセオを築いた。ネロはお気に入りの剣闘士に沢山の褒賞を与え、ドミティアヌスはお気に入りの剣闘士を悪く言った者を犬に食わせた。そしてカリグラやハドリアヌス、コンモドゥスなど何人かの皇帝たちは自ら剣闘士に扮してパフォーマンスをした。
死刑囚も闘技場に連れてこられることがあったが、これらは競技の合間に行われるショーで獣に食い殺されるか、あるいは剣闘士として戦って1,2年以内に死ななければならず、自由を得ることはない。
キケロは友人アッティクスが私有する剣闘士の活躍について書いてほしいと手紙でせがみ、セネカはしばしば情熱をもって剣闘士の生き様を称えた。テレンティウスやルカヌスは詩的に剣闘士の活躍を描き、多くの歴史家たちが市井の人々の熱狂を記録していた。
法的には既婚の女性が男奴隷と関係を持つことは違法だった。タキトゥスによればネロの愛人ポッパエアは正妻オクタヴィアが奴隷と関係を持ったことを虚偽告発している。
夫には姦通した相手を捕らえて殺す権利があった。サテュリコンには人妻に恋をした奴隷ニセロスが、その夫の死後に言い寄ろうとする話もある。
男性が女奴隷を恋人にすることもあった。
ディオドロスは、他所の女奴隷に恋をして反乱を起こしたティトゥス・ウェッティウスについて書く。マルティアリスは美しければ奴隷であっても恋人に選ぶと書いた。プロペルティウスは女奴隷に夢中になった男の哀歌を書き、アリスタエネトスは男性に恋した女奴隷の哀歌を書き、またプラウトゥスの作品「商人Mercator」や「シュードルスPseudolus」「クルクリオcurculio」などでは、女奴隷と恋に落ちた若者がポジティヴに描かれる。
大抵の場合、若者にはお金が無いので他人の所有する女奴隷を買い取るための資金作りに苦労するようである。父親の所有物として買われた女奴隷に恋する場合には、家庭内の権力の移譲も意味していた。
女奴隷は、例えばリウィアの家庭奴隷リストにあるような乳母や産婆、女中のほか、機織りや染料職人、装飾師、美容師(※化粧、調香、塗油含む)などもしていた。
しかし大抵は男奴隷と同様に農場の労働に就く(※糸紡ぎやパン焼き、料理人、ヴィラの管理人など)。鉱山では男奴隷によって運び出された鉱石を砕く仕事もあった。売春婦にもなるが、売買契約の時に禁止されることもある。女剣闘士という選択肢もあったが、次第に規制が厳しくなってやがて廃止された。
奴隷が解放されるのはアウグストゥス以降は30歳を過ぎてからで、対価を支払うか、あるいは所有者の遺言や寛大さによって解放された。ウェスパシアヌスのほぼ正妻だったカイニスにしろネロが関係を持ったアクテにしろ自身が所有していた奴隷ではなく、必ずしも奴隷はその所有者と関係をもつことで解放されたわけではないようだ。
法的には、既婚の男性が女奴隷と関係を持つことは、合意の有無に拘わらず合法だった。しかし特に寛容に扱われたわけではないようでオウィディウスは愛の歌2巻において女奴隷との関係について恋人に疑われて弁明する男性を書く。
見た目の美しさの理想というのは現代と一緒くたにはできないが、今も昔も彫刻や絵画といった創作で表現される。
男性の場合は、基本的に筋肉質に造られる。また髭の生えてる状態が理想の時期と、剃ってる方が理想とされた時期がある。大抵の像の男根はギリシアに倣って小さめに造られるが、娯楽の町ポンペイで見られるやつはでかい。少なくとも男性にとって性的には大きい方が良いと見做されていたのだろう。
女性の場合は大抵髪型に注目される。比較的シンプルに後ろに纏めるのが理想だった時期もあれば、前髪を山ほどカールさせていた時期もある。肉体的には、お腹が微妙に割れてたりしてルネサンスほど肉感的ではない。
オウィディウスの恋愛指南は背が低すぎないこと、胸が大きすぎないこと(※ポンペイの娼館画でも平坦に表現されている)、歯が白く整っていることなどを挙げている。また博物誌にあるように肌の白さも重要で、化粧に鉛を使っていたこともよく知られているし、カタツムリの粉末も使われた。
そのほか前述の剣闘士セルギオルスの醜さについてユウェナリスは、顔が傷だらけで鼻が腫れているなどと書くが、美しさと対極のものを挙げたわけだ。彫像の鼻など基本的に細く高い。ここでも髭が生えているともあるが、これは少年愛の対象かどうかとかの意味だろう。
奴隷同士の場合、同じ所有者の奴隷と結びつきやすい傾向にあるが、碑文の傾向から異なる所有者の奴隷が結びつくこともそれなりにあったようだ。プラウトゥスのカシーナcasinaには、異なる所有者に属する二人の男奴隷が、女奴隷を巡って言い争う描写があるが、これは所有者たちがどちらの男奴隷と結婚させようかと議論したためだ。物語中で女奴隷は市民となり、奴隷たちはその権利をなくす。
ただ奴隷たちの交際が、所有者の意思あるいは異なる所有者同士の相談にのみ由来したかどうかは分からないが、少なくともその傾向もあった。
さて、古代ローマの一般的な恋愛作法は、オウィディウスの恋愛指南にある。
当時の人々は劇場や柱廊、競技場や闘技場で相手を見つけた。それから男性側からアプローチせねばならず、相手の気を引く心地よい手紙を送ったり、ちょっとした贈り物で女中の好意を得て、意中の女性と接する機会を得た。
恋人関係になれば、デートするときには身嗜みを整えて清潔にして一緒に並んで歩き(※あるいはどちらかが前を歩いた)、劇場に行ったり食事に行ったり、お酒を飲んで口説いた。楽器を奏でながら一緒に歌を歌ったり、ボードゲームで遊んだりもした。誕生日にはプレゼントを贈らなければならなかった。
奴隷にローマ市民と同等の教養や資産は必ずしも期待できない(※書記をしたり、歌を歌ったり、楽器を奏でたりするのが役目の奴隷もいる)が、権威的な社会でよくあるように可能な限り妥協した形で模倣されただろう。