006 思い出し笑い
高等士官学校男子寮
僕は当分の間、寮暮らしになるらしい。
まあ、異世界に身寄りもないし、そうなるよね。
水晶宮の一角にあるこの建物は、入り口の看板に高等士官学校男子寮と漢字で大きく書かれていた。
漢字だ。
ここは、中国から最も離れた漢字文化圏なのだろう。
不思議な世界だ…。と、ボケーっと空を見上げてる。
僕は、ひたすら寮の入り口で待たされているのだ。
雲の形は向こうと同じか―――
いや、そもそも時間とともに形を変える雲に、同じ形の雲なんてないよな。と、取り留めのないことを考えていた。
何人かの人が慌ただしく荷物の出し入れをしている。
女性寮に用意してた布団やら机等の生活家具を男子寮に運びなおしているのだ。
『サツキちゃんがこっちに来る』という、謎の大雑把予言のせいらしいが、それに振り回される人も大変だ。
僕用の部屋の準備は至急案件らしい。なんの実績もない僕に対するこの一応の厚遇は、こっちに来た先人の積み立ててきた何らかの功績のお陰であろう。
先程の荷物を出し入れしている人達が喧嘩している。
荷物を入れる順番がどうたら、雑やら遅いやらどうたら。
こちらもあちらも人の営みは同じか。
「用意できたっすよー」
急な仕様変更に対処してくれた天野さんに感謝。
さすがに女性寮は気が引ける。
まあ、それはそれでいいか。どうせ一回死んだ人生だし、失うものは大してない。大してないどころか何もない。未練のみの字も、後悔も何もない。
これでは犯罪者予備軍と同じ発想だ。
まあ、予備軍どころかエース番号背負える実績があるからしょうがない。
今更である。
寮は古びた木造校舎って感じだが、中は綺麗に磨かれていた。
「どうっすか、なかなかいいっしょ」
「そうっすね」
変な愛想笑いで、すごい適当な返事をしたが、模範解答を思いつかないので仕方ない。
建築レベルは明治大正といった感じか。知らんが。
うーん、温水便座はないだろうな。
温水便座を経験した僕としては、この世界でトイレが唯一気になる要素だ。
・・・・・・・・・
急にトイレを確認したくなった。
「トイレは…、えっと、便所?厠?はどこにあるの」
そう言えば、片仮名の単語は通じるのだろうか。
「便所は1階の一番奥っすよ」
天野さんは上機嫌だ。採寸採寸言っている。制服を作るやら何やららしい。
まあ、片仮名云々は置いといて、トイレを自分の目で確認することが最優先だ。
この世界で今後やっていく自信が持てるかどうかの試金石になるかもしれない。
吉と出るか、凶と出るか……。
「っしゃああああああああああああ、よしっっ!」
水栓式トイレにチリ紙だった。
文明に感謝。
僕はこの世界で生きてゆく決心がついた。
この水栓式のトイレも割と最近の設備である。というのは後で聞いた。
ここは、この世界の中でも最先端だという。
僕の部屋は小さいながらも一通り家具等は揃っていた。
よく手入れが行き届いている。
自室の窓を開いて外を見た。
桜に似た樹が花びらを散らせていた。
厳密には、……たぶん桜じゃないのだろうが――――まあ、その桜っぽいもののあまりの美しさに、
季語としての桜に、場面としての桜に、僕は急に思い出し笑いをしそうになった。
「この部屋からは桜がよく見えるっすねー」
「僕が死ぬとき…、死んだときか。もう少しで桜が咲こうとしてたんだよ」
笑いが込み上げてくる。
なんか死ぬ直前を思い出してきた。
我慢の限界だ。
あはははははっはははははっは――――――
僕はしばらくの間、笑い転げていた。
狂ったように。
まあ、狂ってるんだけど。
本当の意味で僕が緊張を解いたのは、この時だったんだろう。
サツキ(和装)