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「私の物語のヒロインとして」

「痛みから逃れたり隠れたりすることはできない。私たちはそれを正面から受け止め、成長の機会に変えていかなければならない。」——池田大作


アイルンとディランの生活がようやく落ち着きを取り戻した頃、二人は次のステップを踏み出し、新たな命を迎えることを決めた。アイルンは母になる喜びに満ちていた。明るい未来への希望、家族を築くことへの期待。だが、母になるという現実は、彼女が想像していたものとは大きく異なっていた。

夜は眠れず、不安が昼間の休息をも奪っていく。赤ちゃんの泣き声が聞こえるたびに、体が強張り、暗い考えが忍び寄る——

「私には無理かもしれない」「母親になる資格なんてなかったのかも」。

母乳の出も次第に減っていった。疲労が限界に達したある日、彼女は小児科医に打ち明けた。

「母親として、私は…失格かもしれません」。

その感情は数週間続き、疑いや罪悪感が彼女を包み込んだ。そんな心の嵐の中、あの声が再び現れた——オスクリータ。

「自分をよく見てみろ。誰も気づかないと思ってるのか?」

それは過去からの親密な、けれど冷たく残酷なささやきだった。

彼女の苦悩に気づいたディランは、休暇を延長し、そばで支え続けた。アイルンの母も手伝いに駆けつけた。赤ちゃんは次第によく眠るようになり、アイルンも少しずつ心の安定を取り戻していく。変化はゆっくりだったが、確実に訪れた。そして彼女は、ようやく母としての日々を楽しめるようになった——ただし、内なる影はまだ消えていなかった。

彼女は脚本の翻訳という在宅の仕事を選んだ。息子のそばにいながら経済的な自立を守るためだった。十分な収入もあり、手伝いを雇うこともできたが、彼女はそれを望まなかった。

自分に課した「完璧な母・妻であるべき」という期待こそが、オスクリータを養い続けていた。そして常に彼女に囁いた——「あなたはまだ不十分だ」と。

それでもアイルンは戦い続けた。ディランもまた、変わらず愛情深く献身的なパートナーだった。ふたりは教訓も失敗も成功も分かち合い、どんな困難も一緒に乗り越えていった。

3年後、第二子を迎えたアイルンは、今度は自信に満ちていた。母としての喜びも深く、仕事と家庭のバランスも少しずつ掴めるようになっていた。ディランとの関係も安定し、共に家庭を築き、子どもたちを育てていた。

しかし、年月が経ち、子どもたちが成長していく中で、アイルンの心に小さな変化が生まれ始めた。自分の人生における「何か」が欠けているように感じた。それは名付けることができない空虚さ——けれど確かに、自分の幸せには欠かせない何かだった。

転機は、子どもたちが大学へ進学し、家を離れた時だった。家の静けさが、彼女の孤独を一層際立たせた。

「私は誰だったのか?」

母として、妻として、一生懸命に歩んできた彼女は、今や感情の岐路に立っていた。

ディランとの間にも、静かな距離が生まれていた。彼は仕事に没頭するようになり、会話も次第に減っていった。ある晩、静かに夕食をとっているとき、アイルンは口を開いた。

「私たち…まだ同じだと思う?」

目を伏せて問いかける彼女に、ディランはため息交じりに答えた。

「正直…わからない。時々、ただ流されているだけな気がするんだ」

「怖くないの?」

「怖いさ。でも俺も疲れてる。ただ君が無事でいてくれれば…それだけなんだ」

その言葉は、オスクリータが戻ってくるには十分だった。

「ほら見ろ。君はもう十分じゃない。すべてを失ったんだ」

年齢によるホルモンバランスの変化が、さらに彼女の感情を揺らした。悲しみが霧のように心を包み込み、彼女は部屋にこもるようになった。料理をしてはベッドに戻り、ただテレビをつけて、何も感じないようにした。他のことには、もはや意味がないように思えた。

ある夜、眠れずにバスルームへ行き、鏡の前に立った彼女は、そこで崩れ落ちた。

冷たい床に膝をつき、丸まって泣いた。

「私は…どこへ行ってしまったの…?」

ディランはその夜、家にいなかった。彼は彼女を追い詰めないように、意図的に家を空けることが増えていた。それが思いやりだったと頭では理解していても、それが彼女の孤独を一層深めていた。

その最も暗い瞬間、彼女は最も古い友人・アンドレアに電話をかけた。アンドレアは静かに耳を傾け、そしてこう言った。

「あなたは壊れてなんかいない、アイルン。今は、自分自身を見つけ直しているだけ。助けを求めて。一人で抱え込まなくていいのよ」

その言葉に背中を押され、アイルンはセラピーを始めた。安全な空間の中で、彼女は自分がどれほど恐れに動かされて生きてきたかを知った——拒絶されることへの恐怖、足りない自分への恐怖。

そして何より心に残ったのは、セラピストが語った一言だった。

「この人生には、誰もが果たすべき唯一無二の役割がある。あなた自身の物語のヒロインになりなさい」

長い間、初めて彼女の内に光が差し込んだように感じた。アイルンは再び夢を描き始めた。新しいプロジェクト、新しい問い、新しい始まり。

そして、震える手で、それでも確かな鼓動とともに——

彼女は人生の次の章を書き始めた。

自分自身の声で。


かつて、不安と孤独の中で見失っていた自分自身。

でも今、アイルーンは知っている。

人生のどんな章にも意味があることを。

迷いも、痛みも、愛も、すべてが彼女を形作ってきた。

物語のヒロインであるとは、完璧であることではない。

それは、たとえ傷ついても、自分の声で立ち上がり、進み続ける勇気を持つこと。

そして今、彼女は静かに、しかし確かな想いで、自分自身にこう言える——

「私は、私の物語のヒロインだ。」


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