ゲーム、恐怖、そして答え
この章では、アイルンが大きな試練に立ち向かい、自分自身の心の声と向き合う姿を描いています。勝利や恋のときめきの裏にある、誰にも言えない不安や孤独。その感情を抱えながらも、自分のペースで歩むアイルンの姿が、どこか私たち自身にも重なるかもしれません。読んでくださる皆さんに、そっと寄り添う物語となりますように。
「完璧な瞬間を待っているだけでは人生を生きられない。人生は、その瞬間を待っている間に起こるものだ。」
――ジョン・レノン
その日がやってきた。体育館は熱気に包まれ、観客席はスポーツへの情熱に酔いしれた学生たちの歓声で埋め尽くされていた。ディラン率いるバスケットボール部はトーナメントの決勝に挑み、2連覇を目指していた。彼がプレーするたびに歓声が沸き上がった。その姿からは強い意志が感じられ、ジャンプシュートを放つたび、彼はまるで地面を離れて空を舞っているかのようだった。
MVPは、誰が見ても彼しかいなかった。
だが、その熱狂の渦の中で、ディランはあるひとつの顔を探していた――アイリーンだ。彼女の姿は見当たらなかった。ディランの胸を、ひと筋の影が横切った。
騒がしい場面の片隅で、ヴィヴィアンは笑顔でカメラに応え、チアリーダー仲間とともに勝利を祝っていた。しかし、彼女の視線はずっとディランに注がれていた。本当は、今日の主役は彼であると分かっていたが、彼の視線が不安げに観客席を探し、誰かを探していることにも気づいていた。そして、その「誰か」は自分ではない――そう確信していた。
ヴィヴィアンの胸に、きゅっと結び目のような痛みが走った。
「きっと両親を探してるんじゃない?」と、友人の一人が彼女の表情を読み取るように言った。
「それか、あのバレーボール部の変わった子じゃない?」と、別の友人が嘲るように笑った。
ヴィヴィアンは答えず、ただいつものように微笑んだ。
幼い頃から、彼女は「注目されること」が自分の存在価値だと信じてきた。笑顔、スタイル、明るい声――彼女はいつも周囲を引っ張り、皆から好かれる存在だった。ディランがチームに加わった時から、「チアのキャプテンとバスケ部のキャプテン、理想のカップルだよね」と言われ続け、友人たちもそれを当然のように受け入れていた。
けれど、最近になってそのシナリオに綻びが見え始めていた。
「もしディランが、ほとんど話さず、化粧っ気もないような女の子に惹かれているとしたら? 私はもう……十分じゃないの?」
胸の奥に広がる冷たい感覚は、ただの嫉妬ではなかった。それは、「もう誰にも必要とされなくなるかもしれない」という、根底からの恐れだった。
翌日、今度はアイリーンの番だった。女子バレーボール部も決勝に進出するという快挙に、再び観客席は埋め尽くされた。ディランも観客の中にいて、真剣なまなざしで彼女を見守っていた。
アイリーンは全力でプレーしたが、肝心な場面でミスをしてしまい、セットは同点に。ベンチに戻ると、心の奥で「オスクリータ」が動き出すのを感じた。
――「失敗した。あなたらしくないね。やっぱり、他の子たちとは違うんだよ」
しかし次のプレー、彼女は強く鋭いサーブを放ち、チームは逆転。数分後、試合に勝利した。選手たちは歓喜し、涙する者もいた。アイリーンもまた涙を流したが、それはただの喜びや安堵ではなく、深い疲労と複雑な想いが混ざったものだった。
試合後、コーチたちが選手たちのために祝勝会を開くと発表した。体育館の外では、ディランと彼の仲間たちが待っていた。ディランはアイリーンを見つけると、誇らしげな表情で彼女のもとに歩み寄った。
「すごかったよ。あのミスの後に立ち直れるなんて、誰にでもできることじゃない」
彼の言葉に、アイリーンは笑顔で応えた。だが、心の中ではまだオスクリータが囁いていた。
――「すごい? あなたが知っていることなんて、ほんの一部でしかない」
その夜、部屋に戻ったアイリーンは、そっとノートを開いた。オスクリータに飲み込まれる前に、自分の中の毒を吐き出す、彼女なりの儀式だった。
「今日のミス、本当に最悪だった。周りは“乗り越えたね”って言うけど、理想を言えば、ミスなんてするべきじゃなかった。私はそんなに完璧じゃないのに」
彼女は自分の手を見つめ、バレーボールでできたマメをそっと指でなぞった。
――「完璧じゃなくてもいい」
そう呟いたとき、ドアをノックする音がした。アンドレアだった。
「大丈夫? 試合のこと、まだ考えてるでしょ。あなたはすごい選手よ、自分では気づいてないだけ」
アイリーンはため息をつきながら、少しだけ弱さを見せた。
「時々、自分がここにいるべきじゃないって思うの。ヴィクトリアやあなたみたいに、自信があって堂々としていたらいいのに。ディランのことになると、もっと情けなくなる」
アンドレアは隣に座り、優しく言った。
「誰だって不安はあるのよ。ただ、それに従わないことを学ぶかどうかだけ。私も最初はヴィクトリアと比べてばかりだった。でもある日、他人に好かれることより、自分を好きになることを選んだの」
アイリーンは驚いたように彼女を見つめた。
「あなたがそんなふうに感じてたなんて、思いもしなかった……いつも自信に満ちてるように見えるから」
アンドレアは少し寂しそうに笑った。
「自信も、サーブと同じで練習すれば身につくわ。ディランはあなたの本当の姿をちゃんと見てる。あなたが怖がっている自分じゃなくて、今のあなたで十分だって」
その言葉は、まるで心にしみる薬のようだった。オスクリータは消えなかったが、今夜は静かにしていた。
―――
祝勝会は、まるで新しい友情の宴のようだった。笑い声、歌、即興のゲーム――2つのチームは、想像以上に共通点が多いことを知った。ディランはずっとアイリーンを気にかけていた。そして彼女が帰る前、ついに声をかけた。
「少し、話せるかな?」
2人は皆から離れて歩き出した。夜風が優しく包み込んでいた。
「アイリーン、君のことが好きだ。僕の恋人になってくれる?」
その言葉が雷のように胸に響いた。頭の中は混乱し、オスクリータが一気に目を覚ました。
――「君みたいな子が? どうせ失敗する、いつもそうだったじゃない」
けれど、アイリーンはすぐには答えなかった。彼女は少し時間が欲しいと伝えた。ディランは静かに頷いた。
その夜、彼女は眠れなかった。頭の中に「もしも」が次々に浮かんできた。
もし関係を壊したら? 自分を見失ったら? 準備ができていなかったら?
でも彼女は思い出した。昔、友達に無理やり恋人を作られそうになった時と、今の自分はまったく違う。今、誰かが自分を選び、自分を見つけようとしてくれている――ただ、それだけで。
翌朝、登校途中に彼を見つけた。彼は待っていた。彼女の心臓が大きく鳴った。
「ディラン、あなたは特別な人。でも、今は恋愛をする準備ができていないの。勉強とバレーボール、そして自分自身に集中したい。それが私たちにとって一番いいと思う」
彼は、少し寂しげだったが、しっかりと頷いた。
アイリーンは歩き出した。オスクリータはまだ隣にいた。でも、今日は彼女が歩調を決めていた。
アイルンはまだ迷いや恐れを抱えながらも、自分の気持ちに正直であろうとしています。それは、勝つことや誰かに愛されることよりもずっと難しい決断かもしれません。けれど、自分を信じ、一歩を踏み出すたびに、オスクリータの声は少しずつ遠ざかっていきます。
この物語は、「完璧」ではなく「本当の自分」で生きようとするすべての人へのエールです。あなたの中の静かな強さが、そっと目を覚ましますように。