決して自分のものではなかったもの
この章では、嫉妬とすれ違いが織りなす少女たちの繊細な感情が描かれています。アイリンが初めて自分の内面の影から少し解放される瞬間と、他者の想いが交錯する中で新たな関係が始まる様子をご覧ください。
「恨みとは、自分で毒を飲みながら、相手が死ぬのを願うようなものだ。」 —キャリー・フィッシャー
チアリーダー部のキャプテンであるビビアンは、ディランが自分に気があると信じて疑わなかった。彼の笑顔や礼儀正しい振る舞いの一つひとつを、好意のサインだと受け取っていた。彼女は飲み物やお菓子、小さなプレゼントを持っていき、彼はいつも丁寧に笑顔で感謝したが、彼のその優しさがどれほどの意味を持つのか、彼自身は気づいていなかった。ビビアンにとっては、それぞれの行動が愛情の証に感じられたのだ。
周囲の友人たちもその思いを後押ししていた。彼女たちも、ディランがビビアンに惹かれているのだと思い込んでいた。無意識のうちに、彼女たちはビビアンの希望と不安を煽ることになった。そして、ディランに近づく女子に対して、彼女は次第に警戒心を抱くようになっていった。
一方、アイリンはバレーボールの練習に励みながら、そんな感情の嵐が自分の周囲で渦巻いていることなど知る由もなかった。ディランが近づいてきたり、遠くから見つめてくるとき、胸の奥に奇妙な緊張が走った。「オスクリタ」――彼女の心の中で囁く、不安と恐れの影が目を覚ました。
やがてビビアンの嫉妬は、不快感へと変わり、アイリンへの態度は微妙に敵意を帯び始めた。ある日、チア部の一人が「アイリンはディランに近づこうとしてる」と言ったことで、ビビアンの心に火がついた。まるで大切なものを奪われるような気持ちになり、アイリンがディランの関心を引いていることに気づいた瞬間、彼女の中で嫉妬が確信へと変わった。
目が曇ったビビアンは、アイリンに対して陰湿な言葉や態度をとり始めた。アイリンはそれを感じ取っていたが、理由まではわからなかった。その隙をついて、オスクリタが心の中で囁く――
「あなたの存在が、周りの人を不快にさせている。あなたは、ここにいてはいけない。」
ある日の練習後、シャワーを浴びながらアイリンは思い出した。中学時代、ある女子に「地味で面白くない」と冷たく言われた日のこと。胸に刺さるその記憶が蘇った。「もしかしてビビアンが正しいのかもしれない……自分はここにいるべきじゃないのかも」
けれど、それは単なる記憶ではなかった。影のように現れたオスクリタが、さらに囁く。
「ほら、あなたは昔から完璧じゃなかった。ディランみたいな人が、あなたを本気で見るわけがない。」
「自分の姿をよく見て。誰かにバレないと思ってるの?」
一方、ディランは周囲で起きていることに気づかず、ますますアイリンに惹かれていた。アンドレアやバスケ部の仲間たちと話すときも、いつも話題はアイリンのことばかり。仲間たちはからかいながら、「バスケより好きなものができたんじゃないか?」と笑っていた。
彼はアンドレアにアイリンのことをたくさん尋ねるようになり、仲間たちも協力してくれた。そして、ビビアンがアイリンに敵意を向けていることを聞かされたディランは、怒りを隠せなかった。誰かが嫉妬からアイリンを傷つけようとしているなんて、許せなかった。
彼はすぐにビビアンに話をしに行った。静かだが毅然とした口調で、彼女の態度に深く失望したこと、そしてアイリンに惹かれていることを伝えた。そして、ビビアンには友情しか感じていないこともはっきり告げた。
ビビアンは言葉を失った。信じていた未来が音を立てて崩れ、ただ呆然とするばかりだった。
アンドレアは事前に状況を知っていたため、アイリンを少し長めに練習に残して、鉢合わせを避けた。帰り道、アイリンはディランが外で待っていたのを見て驚いた。彼は「部屋まで送ってもいい?」と声をかけた。
戸惑いながらも、彼の穏やかな表情に、アイリンの心の壁は少しずつほどけた。二人は何も言わずに歩いた。ただ、足音だけが並んで響いていた。
そして、アイリンは気づいた。久しぶりに――オスクリタの声が聞こえない。
心の中で、何かが動いた。まだ、それが友情なのか、それとも別の何かなのかはわからない。でも、その静けさの中に、安心があった。それだけで、今は十分だった。
遠くから、ビビアンが二人を見ていた。彼女の視界は、悔しさと悲しみでにじんでいた。
――そのとき、彼女は初めて気づいたのだった。自分が失ったものは、そもそも最初から、自分のものではなかったのだと。
初めて自分の声で「安心できる沈黙」を感じたアイリン。それは、闇から少しだけ光を見つけた瞬間だった。ほんの小さな変化かもしれないが、確かに、物語は動き始めていた。