猫の足と割れた鏡
心の奥底に潜む「不安」は、思いがけない瞬間に囁いてくるもの。
この章では、エアリンが過去の傷と向き合い、自分を見つめ直す姿を描きます。
彼女の揺れ動く心が、静かに強さへと変わっていく過程を、どうか見守ってください。
「不安感とは、生まれつきの状態ではなく、人生を通じて学ぶものだ。」 — デビッド・D・バーンズ
大学に入学したアイリンは、卒業を目指して勉強に集中するつもりだった。恋愛のことは頭になかった。彼女の学業のスタートは順調で、各教科で高成績を収め、教授たちは彼女の語学力と文章力に大きな可能性を見ていた。
バレーボールをしている時間は、彼女にとって自由の瞬間だった。コートに立つと、彼女は別人のように変わった。自信に満ち、自然体で、決断力にあふれていた。その瞬間、彼女の心は完全にプレーに集中していて、それを見ている人たちも楽しんでいた。
一方、練習の日になると、ダイレンは時間がある限りバレーボールチームの練習を見に来ていた。彼は情熱的にプレーする新入りの少女にますます惹かれていった。名前もまだ知らなかったが、彼女にはどこか惹きつけられるものがあった。
バスケットボール部のチアリーダーたちは、そんな彼の様子にすぐ気づいた。彼女たちはキャプテンのヴィヴィアンにそのことを報告した。ヴィヴィアンはダイレンに好意を抱いていた。
ある日、アイリンが練習しているとき、キャプテンのアンドレアが興奮気味に近づいてきた。彼女の工学部の同級生がアイリンに会いたがっているというのだ。彼はアイリンに夢中だった。次の練習で会えるように調整しよう、と。
それは、アイリンにとって不快なサプライズだった。そして、そんな時に決まって現れるのが「オスクリタ」──彼女の心に潜む否定的な声。オスクリタは、今まで男子と関わろうとしては不安や劣等感に苛まれてきた記憶を呼び起こし、彼女の中に渦を巻かせた。
思い出されたのは、10代の頃のある夕方。新しい男の子たちと出かけるために友達と準備をしていたときのこと。一人の友人がアイリンにこっそり言った。「なんでアイリンも来るの?地味で面白くないし、服のセンスも他の子と違う。迷惑かけるから来ないほうがいいんじゃない?」
アイリンはとても傷ついたが、その言葉を信じてしまった。内向的な自分はつまらなくて、可愛くも魅力的でもないと。彼女は口実を作って外出を断った。その日、彼女は自分が価値のない存在だと感じた。
その思いは数日間続いた。頭を下げて歩き、人と話すのを避け、胃痛に悩まされた。何度も練習を休んだ。ダイレンが彼女のことを気にしてアンドレアに尋ねたが、彼女は「体調不良」とだけ伝えた。
心配になったアンドレアは、彼女の部屋を訪ねてきた。胃薬のお茶を手に、「あなたが必要なの。チームはあなたなしじゃダメなのよ」と伝えた。初めてその思いを聞いたアイリンは、努力して戻ると約束した。
その日、アイリンは決意した。「オスクリタには負けない」と。アンドレアの言葉を思い出し、仲間たちの信頼、学業の成果──それらを心の灯として、不安の霧を照らすのだった。
ついに、ダイレンとの対面の日が来た。アンドレアに連れられて行った先で、彼は一人で待っていた。落ち着いて歩いていたはずが、間近で彼の顔を見ると緊張がこみ上げてきた。彼は笑顔で手を差し出し、自己紹介した。 「ダイレンです。」
アイリンも名乗ったが、彼が彼女を見るたびに視線を逸らしてしまった。心臓が高鳴る。そして、オスクリタが再び囁く。 「よく見てごらん、自分を。本当に誰にも気づかれないと思う?」
その瞬間、10歳の誕生日に戻った。叔母の膝の上に座り、髪を撫でられていたときのこと。「この子、大好きよ。でも……鼻が猫の足みたいでしょ?大きくなったら整形させましょうね」
アイリンはその場で固まり、ゲームを見るのをやめた。何かが胸の奥で絡まり、罪悪感に似た感覚がこみ上げてきた。
彼女は下を向いた。「鼻が変なのかな? 本当にそう見えるの?」
何も聞けなかった。ただ「直すべきなら、今すでにおかしいんだ」と思った。
それ以来、人にじっと見られるたびに居心地が悪くなった。まるで顔全体が拡大鏡にさらされているような──「直さなければならない顔」だと見られている気がした。
その言葉は小さな棘のように何年も心の奥に刺さり続けた。見られるたび、まず「猫の足のような鼻」を見られると感じた。
そして今、目の前にいるダイレンを前にして── 「本当に誰にも気づかれないと思ってるの?」
緊張のあまり、アイリンは彼の名前すら忘れてしまった。あわてて挨拶し、その場を離れた。ダイレンは、彼女の印象がより深まったと感じていた。
アイリンは寮に戻り、ほっとした。このぎこちない時間が終わったことに安心していた。同じ学部ではないし、あまり会うことはないだろう。そう思っていた。
だが、日が経ってもダイレンは現れ続けた。会うたびに彼は軽く会釈し、すぐに視線を逸らした。
ついにある日の練習後、彼は彼女のもとにやってきた。 「どうして挨拶してくれないの?」
アイリンは顔を赤らめながら謝った。そして次からはきちんと挨拶すると伝えた。それ以降、ダイレンはどんな理由でも見つけて彼女に近づこうとした。
ある日、彼は言った。「バレー部、すごいね。初の決勝進出じゃない?」
「ええ、そうかもしれません」とアイリン。
「僕たちも明日決勝なんだ。観に来てくれる?」
「努力します」と、恥ずかしそうに微笑んだ。
ダイレンは嬉しそうだった。アイリンが去った後、彼はその控えめな笑顔と緊張気味の視線に、さらに惹かれていった。
体育館では、彼は近くに寄るチャンスを伺っていた。
アイリンもそれに気づいていた。彼が視線を向けてくるたびに、オスクリタが目覚めるのを感じた。体がこわばり、その場から逃げ出したくなる。彼と顔を合わせるたび、それは心の戦場になっていた。
目立ちたくない、気づかれたくない、見られたくない。
そんな思いの中で、アイリンは日々オスクリタの囁きと戦っていた。
「ダイレンみたいな人に見てもらえるはずがない。あなたは足りていないんだから。」
今のところ、オスクリタが優勢だった。
彼女は笑っていた。でもその笑顔の奥では、毎日戦っている。誰にも見えない場所で、自分の価値を証明しようとしている。ただ一つ確かなことがある――まだ終わっていない。