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パグの目に映る日没

 坂道を自転車に乗って駆け下りていた。ブレーキをかけないまま止まらない加速を受け入れている。僕は風だった。風になって下りるとき、この坂道はどこまでも下へ続いて先が見えなくなるほどだった。風になったのだ。僕はハンドルを握る手を失っていることに気が付く。加速を引き留めないのはいいが自然とタイヤには摩擦が発生し、制御する手の添えられていないハンドルは左右交互に自由な角度を取りまくる。ハンドルが暴れまわっている。そして後輪が跳ねあがり自転車ごと僕は空中に投げ出されると、まるで何事もなかったかのように初期状態に戻り、坂道を自転車に乗って駆け下りていた。このあと風になる運命を受け入れながら、いつまでもこの走行は止まるところを知らなかった。

「最近の学説によると、なんでもイエス様は実は盲目の人を治療したわけじゃないらしい。見えるようにしたわけではないらしい。」

「どういうことだ。」

「あれは目を治したのではなく、単にLSDを飲ませたらしいことが判明したんだ。」

「LSD? 幻覚剤の?」

「そうだ。LSDを飲んだ盲人が見た幻覚が、他人との正常な対話に十分なだけの現実に追いついたという解釈らしい。だからあの話はイエス様の奇跡などではなく、LSDによる知覚の扉だったんだ。」

「まてよ。LSDってもっと近代に入ってからだろ。ほら、ジミヘンとかビートルズ。イエス様のいた時代にLSDがあるわけないじゃないか。」

「ああだからそれこそがイエス様の本当の力だったのさ。イエス様はタイムトラベラーだったんだよ。」

「タイムトラベラーだって? じゃあイエス様はほんとうに……、アーメン。」

 なんだあの二人は。窓に差し込んだ光の発生源である夕日の円上に映し出された現在の喫茶店の様子……、坂道を自転車に乗って駆け下りていた。ブレーキをかけないまま止まらない加速を受け入れている。僕は風だった。道には人間の死体が転がっていて人間の死体は放っておくとすぐに膨れ上がるから嫌いなんだ。そんな人間の死体など無視してしまい、ひたすら僕は風になって駆け下りる。地につける足も失くしたくせに駆けている。タイヤにはまたもや大きな摩擦が発生している。ハンドルを握る腕を失くした僕は風として吹いたまま横転の寸前、かつて初期状態には存在していた僕の体を自身の元に取り戻すと、再度風の未来に向かって坂道を駆け下りていくのだった。


 ある座敷の部屋には芸者の女と客の男がいる。女は畳に正座で腰を下ろすと着物の裾を上げて奥に伸びる肌を露わにした。腿と腿が密着して間にできた即席の器に日本酒を注ぎ入れる。そこには澄んだ酒の張った面ができる。すると男が芸者の脚の間に顔を埋め、注がれた酒を飲もうとする。だが男はそのまま顔を酒に浸しと、もう二度と女の前に顔を上げることはなかった。畳の上には伸びきった男の体がときどき痙攣を起こし、あとは一向に嵩の減らない酒の水面に細かい泡が浮いてくるだけで、客の男からは一切の反応がない。この状況に陥ってしまうとこの女はただ狼狽えることしかできなかった。

「お客様、お客様。起きてください。お客様。ああ、困りました。」

 酒に泡の音が弾けている。腿のうえにお客を乗せたままで、芸者の女はその場を動くことができなかった。反対に自由である上半身は行き場もなく乱れ、前後左右に揺れてみるだけであり、襖の閉ざされた向こうの渡り廊下には誰の足音もしない静かな降雪の夜が広がっている。冬の座敷はよく温められていた。腿に顔を埋めた客はそのまま応答がない。芸者の女に許された行動は残った上半身で狼狽えていることだけであり、膝の上には客の頭が乗っているので無理に動くわけにはいかない。酒は一向に減る様子がないので立ち上がって溢してしまうわけにもいかない。襖の向こうからは物音ひとつ響かなかった。ただこの部屋から発せられる芸者の麻痺したような嘆きが、向こうまで届いているのかどうか分からないほどに、いかなる返答もない厳冬の日の遊びの一幕だった。一幕とは連続で発生してもなお一幕として認識される定めなのである。


 だから僕は件の座敷とは無限の隔たりをとった場所で坂道を駆け下りていた。風になるまでの時間と初期状態の体を取り戻すまでの時間は等しい。しかし風として走っているときの方が感覚としては短く思えた。

「美女暖炉。」

「相対性理論例?」

「大正解核融合。」

「核融合? 水素集合即爆弾認定?」

「不正解核融合。絶対必要水素同位体。絶対必要核融合。」

 なんだあの二人は。聞き逃した会話をループによって拾い集めていると、いつの間にか楽しい時間は終わっていた。なぜならば僕はいつも通り風に変身するともう二度と初期状態へ戻らないまま坂道の終端に辿り着いてしまうのだった。そこには日常が続いていた。視覚も聴覚も持たないが風はそこに風が吹いているか否かを知る。だから風であろうがそれなりの世界が認識され、また風には痕跡も残るので記憶の保持さえも可能だった。何かしら人だった頃とは劇的に変わってしまうのではないかという期待を裏切り、今僕は風でありながら人同然であった。ここにはどこまでいっても日常しかなかった。

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