人さらい列車_04
「帰りたい?」
「はい」
「その歳で……」
川辺みそぎが立ち上がる。彼の前まで近寄って、その顔をまっすぐに見つめた。ほまれくんは僕の手を離し、肌に突き刺さるような視線を受け止める。
「毎日、一時過ぎまで寝かせてもらえない生活に?」
「はい」
「吐いた牛乳、暗いクローゼットの天井、撫でる手に叩く手。友達と遊ぶ時間も持てず、その小柄さと偏頭痛で体育でもお荷物、相談すれば妬まれて、周りの顔色を窺って……死にたい気分、だったのに?」
ぐ、と彼は言葉に詰まった。今更ながら、自分の無責任さにどくりと心臓が跳ねる。僕は、彼の状況を詳しく聞き出そうとはしなかった。それが彼にとって負担になると思ったから、だけではない。
自信がなかった。
彼の境遇を詳らかに知ってなお、生きろと言える自信がなかった。持ってきた彼のバインダーが、手汗で滑りそうになる。想像できていたはずなのに。僕の四年とこの子の四年が、違う絵の具で塗りつぶされていること。
「ごめん、ほまれくん……」
いつの間にかここにいて。
帰らなきゃいけなくて。
「何がですか」
少し怒ったような、彼の硬い声音にたじろぐ。僕を振り返ったその瞳には、確かな「生」のうねりが。いつか濁流さえも、包んで溶かしてしまいそうな。
「今までで一番たくさん、自分で決められたんですよ」
ふ、とほまれくんは笑った。柔らかくほがらかな微笑が胸の隙間を通り抜ける。この子の年相応な表情を、初めて見られた気がした。
「柳田さん。切符持ってますか」
「はい。……悠人さん、渡してもらってもいいですか」
「もちろん」
バインダーを渡す。淡い緑色をした、一枚の紙片。安らぎの色。例えば、もう立っていられなくなった山小屋をゆっくりと飲み込む蔦の葉。その切符を手に取って、彼は川辺みそぎと向かい合う。
「どれだけ願っても、発行されるのは一人につき一度きりです。それでもあなたは、戻りますか」
こんな終わり方が許されたのだと知って。そして、その終わり方はもう許されないのだと理解して、それでも。
「はい」
「……そう」
川辺みそぎは目を閉じて、幸せな人ね、と呟いた。ほまれくんから切符を受け取り、小さく息をついて顔を上げる。再び彼をまっすぐに見つめて、何かをこらえるような声で告げた。
「さよなら」
一瞬のことだった。弔いの色が裂ける。彼女の手には、ただ破られた切符だけがあった。ほまれくんの姿はなかった。
「な……」
「これを私がちぎると、帰ることができるの。もし、客が錯乱でもして自分でちぎったりなんかしたら、そこの本になるわ。だからあなたの」
彼女はハッとしたように口をつぐんだ。ゴミ箱の前へ移動し、ちぎれた切符をさらにビリビリに破く。捨てられた残骸にしばし視線を落とし、それからぐーっと伸びをした。
「さてと。仕事は終わり。ここからは私情。あとは、職権濫用かしら」
川辺みそぎはちらと僕を見遣って、前方車両の方へと向かった。閉まるドアを呆然と眺めながら、絡まった思考のまま彼女の姿を見送る。
思えば、僕の切符はなかった。そもそも……どうして目が覚めたとき、彼女は僕の部屋にいたのだろう。
一番奥のテーブルに駆け寄った。そこに置かれていた薄緑色の紙切れは、やはり切符だった。日時は明後日の十時から十二時。記されている名前はどれも知らないものだ。書類には、彼らの名前と基本情報、それから、焦げついたような文字で各々の胸の内が綴られていた。
その書類の横に、書きかけの手紙が数枚。
あなたはとても頑張ったと思います。苦しかったですよね。もう終わります。安心して眠ってしまってしまっていいですよ。他の誰が認めなかったとしても、私は、あなたの思いに寄り添います。
あなたが何もしなければ、私が皆を許すの。
だとしたらなおさら……なぜ、あの子への手紙には。
「悪趣味」
「わっ……!」
振り返ると、いた。手に一枚の切符を持って、いつになく好戦的なまなざしで。
「人の手紙を勝手に盗み見るなんて、悪趣味だと思わない? 寺坂くん」
「川辺、さん……」