人さらい列車_03
右側に四つ並ぶ部屋の、そのうち三つまでは空っぽだった。そこに乗客がいない、その事実だけでも少し息が楽になる。
「ほまれくん……」
一つだけ、半開きになっているドアがあった。部屋の明かりはついておらず、返事も聞こえない。
「明かり、つけるよ」
室内がパッと光で満たされる。彼はベッドに腰掛けて、シーツを強く握りしめていた。視線を床に落としたまま、唇を噛み締めている。
助けようとしているのは、彼のことだけではなかった。けれど、目の前にいる子どもを死なせたくないと思う気持ちも、本当。
ついてきてもらうには、さらけ出すしかない。
「さっき聞いたことだけど」
通路と客室とを区切る境界線。それを踏み越えて、彼の客室に土足で入る。彼は俯いたまま、シーツを掴む手に力を込めた。僕だって僕だって、こんなこと、誰に言ったこともない。教えるつもりだってなかった。そもそも、無いことにしてしまいたい気持ちなのだ。夜に泣いて、朝には忘れたことにする。そうやって、ずっと許さずに生きてきた。
「僕もそうなんだ」
彼の肩がビクリと動く。顔は上げないが、聞いてくれていることくらい分かる。
迷惑をかけたくない。面倒なやつだと思われたくない。嫌われたくない。繕った自分を引きずり回して、それでもいいから愛されていたい、と。
そうやって、僕らに限界が来た。
「このままこれに乗っていたら、行き着くのは死者の国か、天国か地獄か、何もないところか、どれとは分からないけどそういう場所だと思う。僕らがここにいるのは、それを望んでいたからじゃないかって」
「……ぼくは」
さっきまで学校の二階の窓際にいました、と彼は呟いた。ベッドから立ち上がり、僕の目の前に立つ。口を開こうとしては嗚咽を飲み込み、歪む顔を隠すように両の手のひらで覆った。弱みを見せられない。気を遣わせたくない。受け入れてもらえると、信じることができない。この子どもは、きっと人前で泣けない子だった。僕と同じように。
呼吸を整えると、彼はつとめて冷静に打ち明けた。
「そのとき、頭の中の半分は、次の時間の確認テストに出る英単語のことを。もう半分で、ここじゃ高さが足りないかも、と」
「……ほまれくん」
彼を見ていて気づかされた。例えば四年後の僕からすれば、今の僕から見る柳田ほまれと同じように、僕もまた子どもなのだ。そして僕は、ここにいる事情が何であれ、目の前の子どもを生かすべきだと考えている。手に持っていた彼のバインダーを、強く持ち直した。
「頼むから、僕にきみを助けさせて。そうしたら、僕も救われる」
優しさにつけ込んだ、逃げ道を塞ぐような物言いになってしまっているだろうか。それでもいいと思った。せめて僕らは、頑として否定しなければならないのだ。
「一緒に戻ろう。四年生きたら、きみは目の前にいる僕と同じ体だ。それからまた、今の僕みたいにあれやこれや考えたらいい。僕もそうすることにした」
きみのおかげだ、と続ければ、彼は僕の手を取って走り出した。客室のドアを勢いよく開け放ち、四号車の方へと急ぐ。
「なに、え、どうし……っ」
「どうしたもこうしたも、寺坂さんが、悠人さんが言ったんでしょ!」
自動ドアが開くまでの、束の間の沈黙。急に動いたせいで頭が痛むのか、はぁ、とかうぅ、だとか呻き声をこぼしながら、僕の手を引いて先へと進む。接続車両の中には、〈川辺〉のネームプレートが取り付けられた管理人室もあった。廊下は薄暗く、頼りない明かりがぼんやりと僕らの足元を照らしている。
「迷ってるうちに、取られちゃうんです」
「取られる?」
並んで歩くには狭い通路に、互いの足音が混ざり合う。不思議と耳に心地良い。
「もっといい方法があるんじゃないか、やりたいことは何なのか。何を目指して、どんな努力をするのか。ぼくが決める前に、全て母が決めてきました」
四号車に続くドアがパッと開いて、差し込んだ光にほまれくんがふらついた。
床には、段ボール箱が四箱。ほとんどが教科書だが、他にも漫画、文庫本などが十冊ほど、縦に横にと詰め込まれている。それから、一人掛けのソファと備え付けのテーブルが三脚ずつ。束になったバインダーや書類、薄緑色の紙切れが数枚、一番奥のテーブルに広げられていた。
その席に、少女が一人座っている。
「ぼくが今こうしているのも、理由の半分くらいは、悠人さんがそう言ったから。ぼくだけの決心にはなりません。……でも」
「あと二十分」
川辺みそぎは、深いため息をついて書類から顔を上げた。ボールペンをゆらゆらと手の中で遊ばせながら、繋がれた僕らの手を見て頬杖をつく。
「あと少しで、楽になるのに」
ゆるりと目縁を細め、黒飴のような瞳に僕らを映した。 それは、お菓子を差し出しながら「本当にいらないの?」と首を傾げる母親にも似ていて。でも、僕の母親よりは随分と意地が悪そうに。あるいは、ほまれくんにはまた違ったふうに見えているのかもしれなかった。
ほまれくんは、臆せず口を開く。
「ぼく、帰りたいんです。だから、あなたに頼みに来ました」