人さらい列車_02
「すみません、あの」
男の子の声だ。緊張しているのか、声が小さくて少し聞き取りにくい。ドアはオートロックだったようで、あの少女が出ていったきり施錠されたままだった。
「自分、いつの間にかここにいて。帰らなきゃいけなくて、でもどうすればいいか分からなくて。藤堂学園一年の、柳田ほまれっていいます。助けてくれませんか」
「……」
開けてしまってもいいものだろうか。どこを走っているかも分かりやしない、奇妙な少女や窓を携えたこの列車で、さらに助けを求める来訪者。仮にそこを開けたとして、襲われでもしたら。
「ごめんなさい」
ドアの向こうの気配が遠のく。癒えようもない傷にものさしを突き立てられ、無理やり押し込まれるような苦痛だった。僕は、また、同じことを。
死んでしまえ。
「待って!」
ドアを開けた先にいたのは、目を丸くして僕を見上げる中学生だった。中高一貫の名門校、藤堂学園中等部の制服だ。やはり諦めて立ち去ろうとしていたらしく、半分こちらに背を向けていた。
「あ、あ、えっと、藤堂学園一年の柳田ほまれと申します」
その子はバインダーを胸の前に抱えて、僕に向き直った。澄んだ瞳、甘く垂れた目尻、形のいい唇。まだ幼さの残る柔らかな輪郭が、少し癖のある髪で囲われている。ただ、そうしてこちらを向いた拍子に一瞬眉根を寄せ、「う」と呻いたのが気になった。
「乗り物酔いなら、休んでた方が」
「……いえ、ちょっと寝不足で。あの、寺坂悠人さんですか」
「え、うん。あっ、敬語とかそんな気にしなくていいよ。僕、高校生だし」
今は六月。ということは、彼はつい三ヶ月前まで小学生だったわけだ。その割にはしっかりした子だなと違和感を持ちつつも、身をかがめて目線を合わせる。この頃の自分にとって、高校二年の男子なんてのは、うんと大人に見えていたと思う。
「これ、見てください」
彼はおずおずとバインダーを差し出した。薄緑色の切符が挟まれていて、「6月21日 10:00発—12:00着」という表示のほかに、「柳田誉さま」と記されている。駅名もなければ磁気加工もされていない。それをバインダーから外し、今度はもう一枚の紙に目を走らせる。そこには、手書きの文字が続いていた。
〈私はこの列車の管理人です。四号車にいますから、何かあればこちらまで。もし、他の誰かに助けを求めようというのなら、一号車D室の寺坂悠人を頼ってみなさい〉
その手紙は、川辺みそぎという名前で締められていた。
あの少女の微笑が。美しい銀髪が、目の前に浮かんで。喉がひりついた。思い当たった可能性をおそるおそる手繰り寄せる。片道だけの切符、彼に宛てられた手紙の内容。それから、彼女が話した言葉の意味を、糸で括って繋ぎ合わせて。
ハッとして壁の掛け時計を振り返る。十一時二十八分だった。
「何か分かりましたか」
「……柳田さん」
この仮説が正しいとすれば。
バインダーを返し、改めて彼の表情を見た。ぎゅっと引き結ばれた口元は不安げだ。僕を見上げるその視線は、彼より僕が五つ歳上であるという事実を否応なしに突きつけていた。縋るような目に胸を掴まれ、心のうちの深いところ、しまい込んだ喪失を揺り起こされる。
「ごめん。立ち入ったことを聞くよ」
彼の両肩にそっと手を置き、少し膝を折って真っ直ぐに彼を捉えた。助けなければならない。今度こそ、みすみす死なせたりなんてしない。
「痛みもなく恐怖もなく、失敗して一生引きずることもないとしたら」
それはきっと、何枚も重ねた遮光カーテンの向こう側。
「考えたこと、あったんじゃない?」
他者への優しさと不信がないまぜになって、見えないように、悟らせないように、腹の底に押し込んだ隠し事。
「なんで分かっ……」
彼の色白な顔から、さらに血の気が引いてバインダーを取り落とした。一歩、二歩、後ずさりして、震える唇で「ごめんなさい」と何度も呟く。
「お母さんには言わないで!」
脱兎のごとく駆け出した。バインダーを拾い上げ、彼を追って僕も走る。通路は人が二人すれ違える程度の狭さで、黄みがかった明かりに点々と照らされていた。客室を三つ通り過ぎ、スライドドアを抜けて一号車から二号車へ。ごうんごうんと揺れる床を踏みしめて、転びそうになるたび壁に手をついて。二号車と三号車をつなぐ車両に入ったところで、あることに思い至って来た道を振り返った。
ここまで、さっき出た客室を除いて空室が二つ。固く閉ざされたドアが五つ。
これが、彼女の言っていた〈皆〉か。
腹に手を突っ込まれ、胃の中を掻き回されるような心地がする。重くなった鼓動が内から肌をどくどくと打った。残り時間は三十分ほどだろう。
全員は無理だ。
「はーっ……」
深く息を吐き、そうすることで新しい酸素を吸った。手をかざせば、目の前のドアが静かに開く。列車の外は、相変わらず濁流のような轟音で塗りつぶされている。
三号車に足を踏み入れた。
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