6話
次にルドルが目を覚ましたのは、自宅のベッドの上だった。
見慣れた天井の光景が、不思議な安心感を与えてくれる。けれど、全身は重くこわばっている。どうやらかなり長い間床に臥せっていたらしい。
その瞬間、林と草原を股にかけた黒狼との戦いの記憶が断片的にぼんやり浮かんできた。これは夢なのか、それとも。その答えは、ベッドの傍らに座っていた人物の反応が教えてくれた。
「気がついたかルドル!」
腰かけていた椅子を弾き飛ばさんとするかのような勢いで立ち上がったのは父だった。そのまま、握っていたルドルの手を手繰り寄せるかのように、ベッドに覆いかぶさり、ルドルの顔を覗き込む。未だ寝起きの意識の中で、ルドルはこんな泣きそうな顔をしている父は初めて見るな、と思った。
「大丈夫かい?」
「……うん」
「痛む所はないか?」
「平気。……それより、何があったの? 黒狼は倒せたの?」
自身の頭に浮かぶ光景が夢でないことを、父の反応から悟ったルドルは、あの後何が起きたのかを父に尋ねた。
父によれば、林の中で残っていた2匹の黒狼をなんとか打ち倒した後、父は急いで草原の方へ向かったらしい。父が林を抜けてようやく草原へと出たその時は、逃げ出していた黒狼が駆け出してまさにリーアに襲い掛かろうとしていた瞬間だったそうだ。
瞬時に状況を理解した父は慌ててリーアの元へ走り、黒狼に飛び掛かったが、タイミング的には僅かに間に合わないことを感じ取った。しかし、その瞬間、ルドルの絶叫が耳に入り、その直後に、黒狼の足元が青く光ったかと思うと、その動きが一瞬鈍った。その一瞬こそが勝負の分かれ目で、間一髪、黒狼の牙がリーアに襲い掛かるより前に、討ち取ることが出来たとのことだった。
その後、よくやったとルドルへ声をかけ、リーアの無事を確認した父が再度ルドルの方を向くと、草原に倒れて気を失っているルドルを発見。その辺りで騒ぎを聞きつけた薬草採取中の大人や村の見張り番が駆けつけてきたため、簡単に事情を説明。リーアを家族に引き渡し、自身は気絶したルドルを抱えて大急ぎで家に戻って来たとのことだった。
「3日も寝たきりだったんだぞ」
父の言葉通り、ルドルは自宅に担ぎ込まれてから丸三日目にして初めて目を覚ましていた。その間、最初に運ばれてきた直後は勿論、毎日定期的に医者の診察を受けていた。しかし目立った外傷もなければ思い当たるような疾患もなく、医者には何故ルドルが意識を失ったのかも、どうして一向に目を覚まさないかも分からないと言われてしまったらしい。
「医者が首を捻る中何日も目を覚まさないもんだから、母さんも物凄く心配して……」
「……怒ってた?」
「それはもう」
首をすくめながら、まぁルドルにじゃなくて俺に、だけどな。と語る父の様子を見て、思わずフフッと笑うルドル。息子の笑顔を見て安心したのか、釣られて父も笑いだす。2人きりの部屋は、しばらく小さな笑い声で満たされた。
ひとしきり笑い終えた後で、父はおもむろに真剣な表情になると、ルドルに頭を下げながら言う。
「……すまなかったな。お前を危険な目に遭わせたのは俺のミスだ。急がずにもう少し入念に偵察していれば、7匹目の存在にも気がつけたはずだった」
「大丈夫。どこにも怪我はしてないし」
「だがお前にとても怖い思いをさせてしまった」
ルドルの脳裏に、自分が這いつくばる茂みのすぐ脇を通り過ぎて行く黒狼の姿が浮かんだ。思い出すだけで手にはじんわりと汗がにじみ出てくる。ルドルはそんな手のひらを父から隠すように、掛け布団の内に仕舞いながら、言う。
「……怖くなんてなかったよ。平気さ」
「本当か?」
「本当だよ。それに--」
ルドルはニコッと笑うとこう続ける。
「男の子だからね。いずれは経験しないといけないことさ」
一瞬父はキョトンとしていたが、それが自分が日頃母を説得する時に使う言葉の真似だと気がついて、大声でガハハと笑う。釣られてルドルも笑い、寝室は先ほどより大きな笑い声で満たされた。
「まぁ、お前もリーアちゃんも無事だったのは、勇者様のご加護のお陰かもしれないな」
なにせ教えてもない魔法をいきなり使ってみせるんだから。父は感慨深げにそう続けた。
「魔法……。僕魔法を使ったの?」
「それ以外に何がある? お前が叫んだ直後の、あの地面の輝き。そして黒狼の何かにつんのめるような様子。あれはどう考えても魔法の発動によるものさ」
「……」
「まぁ俺は魔法に詳しくないから、一体どんな魔法なのかは分からんが。落ち着いたら一度オルド爺さんにでも話を--」
そう父が語る途中で、突如バン!と大きな音を立てて寝室のドアが開かれる。
「! ルドル! 目が覚めたのね!!」
やって来たのは母だった。先ほどの2人の大きな笑い声に気がついて駆けつけたのか、その手には外で干す途中だった洗濯物がいくつか握られている。
母はそれらを放り投げて、ベッドに駆け寄ると、ルドルを強く抱きしめた。その勢いは、ベッド脇に座っていた父が、慌てて飛びのいて道を譲るほどだった。
「心配したのよ! 本当に……無事で良かった……!」
涙ぐむ母の腕に抱かれて、ルドルは自分がどれだけ母に心配をかけたかを痛感した。
「ごめんなさい、お母さん」
「いいのよ。もういいの。それより痛むところはない? そうだ、お医者様に診て貰わないと……!」
そう言い残すと、母は足早に寝室を飛び出していった。
寝室には再びルドルと父の2人きりとなった。ルドルを抱きしめる母の様子を見て、自らのミスで重大な結果を招きかねない事態となったことを改めて痛感したのか、父は床に放り出された洗濯物を拾うと、少し気まりが悪そうに言う。
「……あー。俺も水を持ってくるよ。喉渇いただろう?」
そう言ってしょんぼりしながら、静かに寝室を出て扉を閉める父。
1人きりとなったルドルは、そんな父と母の対照的な様子にクスっと微笑んだ後、おもむろに掛け布団から手を出すと、そのまま自分の右手のひらを、ジッと見つめる。
魔法。それは古くからこの世界に存在するものの1つで、けれど幼いルドルは習ったことも使ったこともない代物だ。それがあの土壇場で、突然発動した。いや、父の言葉を信じるのなら、ルドルが発動させた、のだ。
けれど、残念ながらルドル自身には魔法を発動させたという自覚はなかった。あの時は必死だったが、一体どうすればまたあの魔法が使えるのだろう。
自身の右手をぼんやり眺めながら、伸ばして握ってを繰り返してみても、ルドルにはその手がかりすら得られなかった。