5話
ルドルの脇を抜けた黒狼は、真っすぐ草原の方に駆けていく。
「! もう1匹居たか!」
父も目の前の2匹以外にまだ黒狼が居たことには驚きを隠せないでいた。けれど、それが駆け出す方向を見て、マズい事態に陥っていることに気がつくのは早かった。
このままでは非戦闘員が多く居る草原に黒狼が辿り着いてしまう。故に先に仕留めるべきは逃げ出した個体の方。瞬時の判断で、そちらを追おうとする。しかし。
「くそっ!」
それを2匹の黒狼が父に飛び掛かって阻んだ。それは父が見せた僅かな隙を突こうという判断からか、あるいは子どもを守ろうとする思いからか。いずれにせよ、2匹は父に、簡単に後を追わせる気はないのは確かだった。
2匹の奇襲にもなんとか父は反応し、きわどくこれを躱す。草原に向かう1匹の後を追うためには、目の前の2匹を片付けなければならない。しかし、打ち負かすためではなくまるで時間を稼ぐかのように連携してそれぞれ父から間合いをとる2匹を、同時に素早く仕留めることは難しい状況だ。
そんな父の様子を見たルドルも、ここに至って、ようやく事態の深刻さに気がついた。慌てて茂みを飛び出すと、今しがた自分の脇を通り過ぎた黒狼を追って、草原の方へ駆け出した。
「! 待て、ルドル!」
そんな姿に気がついた父はルドルに大声で呼びかける。けれど、そんな隙を2匹の黒狼は見逃さなかった。相手は自分達だとでも言わんばかりに、父に向かって襲い掛かってくる。
「くっ……! 戻れルドル!!」
それを防ぎながら懸命に叫ぶ父の声は、鬱蒼と茂る木々に、空しく吸い込まれた。
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ルドルは黒狼を追って懸命に林の中を走っていた。追いつかなければ。止めなければ。そう思って急いでいるはずなのに、両足は未だ先ほど間近で感じた黒狼の恐ろしさに震えていて、思うように動いてくれない。何度も転びそうになりながら、ルドルは必死に走った。
父とルドルが黒狼の群れに遭遇したのは、林に入ってそれほど進んでいない場所だった。故に、その道のりを逆走する形のルドルは、理屈で言えばすぐに草原に出るはずである。けれど、その道のりはルドルにとって異様に長く感じられた。
こんなに時間がかかってしまっては、黒狼に追いついた時、全てが手遅れになってしまっているのでは。そんな恐怖が心中に頭をもたげかけた時、ルドルの視界は突然に開け、眩しい日差しの只中に放り出された。草原に出たのだ。
見通しの良い草原で黒狼を発見するのは難しいことではなかった。林を出たばかりのルドルから少し離れた先。よく晴れた空の下、降り注ぐ陽光を全て吸収してしまいそうな漆黒の毛並みのそれが立っている。
その姿を見た瞬間、ルドルはゾッとした。何かを一心に見つめながら、態勢を低くし、唸り声を上げる黒狼。
切れ長なその瞳が真っすぐに視線を向ける先に居たのは、未だ草原で一人で遊ぶリーアだった。
「や……め……」
震えるルドルの呟きは、広い草原の誰にも届かない。それどころか、それが合図だったかのように、黒狼はリーアの方へゆっくり動き出した。
「やめて……」
呟きながら、釣られてルドルも黒狼の方へ歩きだす。お願いだ、やめてくれ。止まってくれ。叶うはずもないそんな願いを、うわごとのように心中で繰り返しながらルドルは黒狼の元へ進む。居ても立っても居られなくなってルドルが駆け出したのと、黒狼が獲物に向かって走り出したのは、奇しくも同じタイミングだった。
「やめろぉぉぉ!」
止めに入った、だとか。陽動のために、だとか。そんな格好いいものではなく。ルドルの口から出たのは、まるで癇癪を起した子どものような絶叫だった。
その叫び声に気がついたリーアはルドルの方に視線を向ける。そうしてようやく、自らに真っすぐ向かってくる黒狼の存在に気がついた。
「止まれぇぇぇぇぇぇ!!」
もつれる足を必死に動かし、届くはずもない手をもがくように黒狼の方へ伸ばしながら、一心不乱にそう叫ぶルドル。その声を追いかけるようにして、リーアの断末魔の叫びが聞こえてくる。そんな最悪の結末がルドルの頭をよぎった時、それは起きた。
駆ける黒狼の足元。背の低い草花が生える地面が、突然フッと青く輝いた。その輝きは一瞬だったが、決して見間違いではないといえるほど、晴れた草原の下では強烈に異質だった。
直後、何かに足を取られたかのように、カクっと黒狼が大きくつんのめる。それは、今まさにリーアに襲い掛かろうとせんとする黒狼の動きを完全に止めるほどのものではなかった。けれど、この場においてはそれで十分だった。
勢いこそ少し削がれたものの、そのまま獲物へと飛び掛からんとする黒狼。その頭上から真っ赤に燃え盛る斧が鉄槌のように降り注ぎ、漆黒の身体を両断した。
「……よくやった、ルドル」
突然視界に現れた、頼もしい父の姿と眩しく光る斧の輝きで、ルドルはリーアと黒狼の様子をその目で確認することが出来なかった。けれどそれは、こちらへ言葉をかけながら振り向いた父の笑顔ですぐに理解出来た。
良かった。そんな安堵感だけがぼぉっと、ルドルの頭に沸き上がった直後、その視界は不自然に揺れて、ルドルはその場で気を失った。