招かれざる客
仕事帰りに店の中を覗き込むと、客が一人いるだけだった。私は軽く会釈しながら店に入った。「毎度どうも」、板前が声をかけてきた。声に張りがない。いつもながら、威勢が良いとはお世辞にも言えない声だ。
この回転寿司屋に通うようになって半年になる。住まいの最寄り駅に近いが、駅前広場から小道を十メートルほど入った所にある。値段は安いが、味はたいしたことがない。いつも空いている。
寿司が流れるレーンが長円形に一つあるだけの小さな店だ。レーンの中に板前がいて寿司を握る。板前を囲むように客が座るが、十五人も入れば満員になる。先客のほぼ向かいに座った。
「今日は二万勝ってるよ。腹が減ったんで抜けてきた」
先客の声がした。駅前のパチンコ店に入り浸っている六十代の男だ。家族がいないらしく、店主や板前によく話しかけている。
「勝ってるんなら、パチンコはもう止めて、帰った方がいいよ」
店主が返事をした。常連から親爺さんと呼ばれるこの店主は七十前後だろうか。寿司を握るのは板前に任せ、品物を運んだり、レジを打ったりしている。
この先客はパチンコや競艇で勝った自慢話を始終している。だが、その割に金がない。着ている服は薄汚れているし、この店の払いを年金が手に入るまで待って貰うこともある。ギャンブルで儲かっているとはとても思えない。
『あの人の話は当てになんないよ』、別の常連客がそう漏らしたのを聞いたことがある。
ドアが開き、冷たい風が吹き込んできた。目を向けると、六十過ぎの小太りの女が立っていた。髪を赤っぽく染めている。
「いらっしゃい。どうぞお座りになってください」
店主が声をかけた。
「こんな所にお寿司屋さんがあったなんて知らなかったわ」
「駅前から一歩引っこんでるもんで」
「そうねぇ、場所が良くないわね」
女はマグロを注文した。板前はネタが入っている平皿を手に取った。ネタは既に短冊状に切られている。しゃりを握ってネタを載せた。
女はマグロを食べた後、板前に声をかけた。
「地物とか、変わったネタはないの」
少し間が空き、「いやーっ、壁に貼り出している品だけでして」、板前が答えた。この五十代に見える板前は真面目そうな痩せた男だ。もっとも魚をさばいているのを見たことがない。板さんと呼ばれているが、ちゃんとした寿司職人かどうかは怪しい。
私が見たところ、この店は寿司用に切ってある冷凍のネタを解凍しているだけだ。ネタはありふれた物しかなく、たいして美味くない。でも、マグロ二貫が百円なのだから、文句は言えない。
「駅の向こうの寿司花は混んでるわよ」
女は何皿か食べた後、板前に話しかけた。
「あそこは美味しいの、活きが良くて。マグロなんか、客の前で解体してすぐに食べさせるのよ」
板前と店主の動きが止まったように感じた。
私は茶碗蒸しにさじを入れた。ここの茶碗蒸しは他の店のようにぷりんと滑らかではない。素人っぽくて母親の手料理を思い出させる。
私を見たのか、その女は茶碗蒸しを注文した。しばらくすると、板場から店主が運んできた。女はそれを見ると、「あら駄目じゃない、これ。巣が入ってる。蒸し過ぎよ」と声をあげた。
確かにこの店では、蒸し過ぎて茶碗蒸しの卵が固まる、いわゆる「巣」が入っている時があった。店主が茶碗蒸しを覗き込んだ。
「ほんとだ。いや参ったなぁ。取り替えてきましょうか」
店主は頭を掻いた。板前は女から離れた所にいて、顔も向けない。
「もう十分食べただろう。お客さん。帰ったら」
濁った声がした。先客だった。
「文句ばっかり言って。美味くないんなら、早く帰りな。親爺さんと板さんが黙っていれば、いい気になって文句をつけやがって」
「何だよ。あんたこそあたしに文句つける気かい」
女は先客を睨んだ。
「威勢がいい婆さんだな」
先客は声を上げて笑った。
「この店はな、親爺さんの息子が始めたんだよ。息子は腕のいい寿司職人でな、あの頃はテレビにも取り上げられて、客が店に入りきれずに行列ができたもんだ。でもな、あれは五年ぐらい前だったかな。惜しいことしたよ」
先客は手酌で酒を注ぐと、杯を飲み干した。
「息子が交通事故で亡くなってな。奥さんと男の子が残されたんだ。親爺さんは、その子が一人前の寿司職人になるまで店を潰しちゃいけねぇ、ってんで、ここを回転寿司屋にして板さんを雇った。孫が大きくなったら、俺なんか通えない高級な店になるよ。あんた、子供はいるのかい」
女は頷いた。
「一人息子を亡くしても頑張ってるんだ。温かい目で見てやってくれよ------ さて、今日はこれでお開きとするか」
先客は傘を手に立ち上がった。女はそれを見て、いそいそと店を出ていった。
女が店から離れた頃、先客が店主に向かって話しかけた。
「今からパチンコに行ってくるわ。親爺さんのその一人息子だけど、今日もパチンコ屋で球を打ってたよ。俺が言うのも何だけど、しょうがねぇ奴だ。少しは寿司屋の仕事を覚えるように言っとくよ----- 年取ると、嘘をつくのは上手くなるな」
店主は何も言わずに手を合わせた。